第47話 春が来たら思い出してね
「その話……、本当ですか?」
特殊配達員でしか入れない職務室に集められ、訝しげに顔を歪めたノルがそう言うと、イヴルージュはひらひらと片手を揺らした。
「本当じゃなきゃ王妃様方とのんびり茶なんか啜ってられないだろうが」
息苦しくて敵わない、と言わんばかりに、伝言局に帰ってくるなり彼女は真っ赤な民族調のワンピースにさっさと着替えていて、肩にはいつものように紺の制服をかけている。
リグレットが紅茶の入ったカップを差し出すと、やっぱりいつもの方が落ち着く、と紅茶を一口飲み込んでから大袈裟な程に息を吐いて、ずるずると椅子の背もたれに身体を埋めていた。
城で飲んだものより香りも味も大きく劣ってしまうのは確かだが、いつもの見慣れたシンプルで飾り気のない落ち着いた室内にいて、いつもの飲み物があるだけで、ほっと安心してしまう、とリグレットは思う。
皆が集まっている机には、リグレットが昼ごはんを買いに行った際、城に連れて行かれたのだと知ったシュレルジーナが持たせてくれた、豪華な食事が並べられている。
まさかプルドポークのサンドイッチがローストビーフのサンドイッチになって帰ってくるとは思わなかった、と呆れたように言うグレイペコーが先に座るよう促すので、リグレットも席に着いて苦笑いを浮かべてしまっていた。
リグレット自身、まさか突然城に連れて行かれたかと思ったら、自分の出生について知る事になる、なんて思いもしなかったのだから。
ティーポットを片手に皆のカップに紅茶を淹れているグレイペコーは、城に連れて行かれた経緯とその内容を聞いて、肩を竦めている。
「それってつまり、リグレットはお姫様って事だよね?」
「まあ、そうだな」
王位継承権もないし、今はあたしの娘って事になってるけどな、と付け足して、イヴルージュはだらけた格好で紅茶をまた一口飲み込んだ。
自分がお姫様なんて言われてもなあ、と恥ずかしくなってきてサンドイッチを頬張ると、今まで食べた事のない、肉の臭みが全くない上にそれなりの厚みがあるのに柔らかなローストビーフと、こっくりとしたグレービーソースとパンに塗られたバターがまろやかに合わさり、ピリッとするレフォールの辛味はそれらを上手く引き立てていてとても美味しく、リグレットの顔はぱあっと明るくなった。
城では緊張していて紅茶以外の食べ物はろくに喉を通らなかったし、味を楽しめる余裕もなかったので、ようやく日常に戻ってきたのだと改めて実感してしまう。
「もしかして、フィスカスが言ってた噂ってこっちの事……?」
ハッとした顔をしたグレイペコーは、「とりあえず次に三区に行く時に叩き潰さないと」などと拳を強く握り締めて物騒な事を呟き、何故だか怒りを滲み出しているので、リグレットは首を傾げながらも卵のサンドイッチを頬張った。
ソースの塩味はまろやかで、柔らかな卵の甘みがふわっと口の中いっぱいに広がっている。
お腹が空いていた、という事すら帰ってくるまで感じられなかったのもあって、今なら無限に食べられる気がする、とぱくぱくサンドイッチを頬張っていると、ノルが呆れたような顔で布巾を差し出していた。
言葉が足りないノルの代わりに、唇の端にソースがついてるよ、とグレイペコーが苦笑いを浮かべて教えてくれる。
リグレットは慌てて布巾で口端を拭い取ったけれど、取り切れていなかったのだろう、吐息混じりに笑ったグレイペコーが見かねて布巾を手に取って綺麗にしてくれていた。
「局長、その噂はそんなにも街で広がっているのですか?」
「いや、軽く伝言局の中で聞いてみただけでも、知ってる者はいなかった。限定的な所で広まっているだけかもしれんが、他の区画でも聞いてみないと何とも言えないな」
ノルの問いかけに、イヴルージュも少し困惑したような表情をしている。
あくまでも噂だけがぼんやりと広がっていて、リグレットの特徴を知られるような内容でもない、という事が幸いだけれど、と肩を竦めるイヴルージュに、今度はグレイペコーが問いかけている。
「ねえ、それって例のお姫様とも何か関連あるのかな?」
グレイペコーが言っているのは、テッサが言っていたというお姫様の事なのだろう。
この国で全く存在が知られていない、リグレットが狙われる事になった原因と、関わりがあると思われる、謎の人物。
「そっちは本当に情報が集まらないから何とも言えないが……、今回のはプレセアを炙り出す為の罠かもしれないからな」
イヴルージュは深々と溜息を吐き出すと、不安気に見つめていたリグレットの視線に気が付いて、あっちはちゃんと守って貰ってるから大丈夫だよ、と小さく笑った。
城で散々泣いていたので気持ちは落ち着いているものの、どうしたって不安にはなるものだ。
思わず胸元を握り締めると、グレイペコーが安心させるように頭を撫でてくれている。
「そういう事情があるならリグレットだってまた襲われたりするかもしれないんだから、そっちの方が心配だよ。やっぱり一人で出歩くのは止めておこうね」
ええ、と思わず不満が口から出てしまいそうになるが、そう言われてしまうと、リグレットとしても何も言えなくなってしまう。
グレイペコー達が心配をしてくれているのは、先の事件でもよくわかっているし、何より、もうあんな悲しい顔をさせたくはないのだし。
「けど、お母さんの安否もわかったみたいだし、よかったね」
落ち込んでいるリグレットを励ますようにそうグレイペコーが言うので、リグレットは思わず、んー、と甘えるようにグレイペコーの腕に顔を埋めた。
なあに、どうしたの、と優しい声が頭の上から降ってくる。
「でも、私はマザーの子供じゃなくなっちゃうのかな、って……」
お母さんの情報が得られたのは、勿論嬉しい。
無事だという事がわかった事も。
だけれど、その代わりに今まで家族として生きてきた二人と少し距離が出来てしまったようにも思えてしまっていて。
二人はきっと突然自分を突き放すような事をしたりしないけれど、そう言われてもおかしくない状況におかれている気がしたのだ。
色々な事を聞かされて、きっと全部が不安になっているだけなのだろうけれど、とリグレットはぎゅうと目蓋を閉じる。
だらしなく椅子に深く身体を沈めていたイヴルージュは、リグレットの言葉を聞いてぽかんと口を開けていたけれど、大袈裟な程に大きな溜息を吐き出していた。
「そもそもリグレットの父親の存在自体が国で秘匿されているし、その子供なんて尚更だ。例え色々解決したって、表沙汰には出来ないだろう。そっちのが嫌じゃないのかい?」
その言葉に、リグレットが顔を上げて彼女を見ると、眉を下げ、悲しそうな表情を浮かべている。
その顔を見ると、どんなに自分を責めても良いんだよ、と言っていた彼女を思い出してしまい、リグレットはすぐさま首を振った。
「お母さんが無事ならそれだけで十分だよ。でも、それとは別に、マザーとペコーとはずっと一緒にいたから、二人と家族じゃなくなっちゃうのは嫌だなって、そう思って」
「何を言ってんだ。そんな心配しなくとも、リグレットとグレイペコーは今も昔もこれからもずうっとあたしの子供だよ」
イヴルージュの呆れたようでどこか嬉しそうな声と言葉に、リグレットはほっとして頬を和らげた。
そう言ってくれるだろう事は理解していたが、目の前でちゃんと形にしてくれると、やっぱり安心感でいっぱいになってくる。
「そうだよ。ボクだってリグレットが家族じゃなくなったら淋しいよ」
「本当?」
「うん」
よしよし、と頭を撫でられて、リグレットは嬉しくなってグレイペコーに抱きついた。
グレイペコーは同じように嬉しそうな顔でぎゅうぎゅう抱きしめ返してくれるので、思わずきゃあきゃあと声を上げて笑ってしまう。
その様子を見たノルは呆れたように息を吐き出して、イヴルージュに顔を向けた。
「局長。この話、俺まで聞いて良かったのですか?」
「お前はあたしの後を継ぐんだから、知っておいた方が良いだろう。リグレットが隠し通せるとも思えないしな」
それに、と言葉を区切ったイヴルージュに、ノルだけでなく、戯れあっていたリグレットとグレイペコーもことりと首を傾げて彼女を見る。
「お前だって、うちの子みたいなもんだろ」
「そうですか……?」
心底面倒そうに顔を歪めたノルが聞き返すけれど、イヴルージュは言葉を撤回する気はないらしい。
ふんぞり返って腕を組むと、しみじみといった様子で頷いている。
「そうだろ」
「そうだね」
「そうなの?」
イヴルージュとグレイペコーが真顔で頷いている横で、リグレットだけは首を傾げているけれど、二人がそう言うならそうなのかもしれないと思い、そっか、と曖昧に頷いておいた。
ノルはその様子に、呆れたように深く長く息を吐き出している。
「はあ、そうですか……」
「ま、そういうわけだ。わかってると思うが、この件は他言無用だからな」
イヴルージュの言葉にそれぞれが頷くと、グレイペコーもようやく席に着いて、食事を始めている。
サンドイッチを口にしたグレイペコーは、その美味しさに感動していて、普段ならあまり食事に積極的ではないノルも、いつもよりは興味を示しているようだった。
お昼ご飯こんなに遅くなってごめんね、と改めて謝れば、そんな事を心配してたんじゃないよ、とグレイペコーは緩やかに首を振った。
「けど、本当の名前もわかってよかったね」
柔らかく眼を細めてそう言ったグレイペコーは、自らの境遇からだろう、幼い頃からリグレットの名前やその意味を誰より気にしてくれていた。
だからこそ、本当の名前があるという事に、誰より喜んでくれているのかもしれない。
リグレットが嬉しくなって頷くと、隣に座っているノルがぽつりと呟いていて。
「プリムヴェリーナ。——桜、か」
「桜?」
ノル曰く、それはこの国の古い言葉で、桜を意味する言葉らしい。
お母さん達は、桜が好きだったのかな。
そんな事を思いながら、窓の外を見ると、外には透き通った青空と、鮮やかな青色の桜の森が広がっている。
ブルーブロッサムの森が恐ろしく感じないのは、抗体値が高い事や母親と関わりがある場所だという事以外にも、自分が同じ名前だったから、という事が関係していたからかもしれない。
そんな事を思っていると、グレイペコーがそっと頭を撫でてくれている。
「本来の桜って、リグレットの髪みたいな色だって聞いた事あるよ」
「そうなの?」
「うん」
「抗体値の高さといい、似合ってるんじゃないか」
グレイペコーの言葉を引き継ぐようなノルの言葉に、何だか無性に照れ臭くなって、リグレットは思わず顔にかかった髪を指で摘んで俯いた。
髪の色が薄紅色だから、顔が赤くなっても目立ちにくいというのは、今の状況的には助かるけれど。
「そっちの名前で呼んだ方がいい?」
何だか少し楽しそうにグレイペコーがそう問いかけてくるので、リグレットは少し考えてから、首を横に振った。
「ううん。今はまだ、リグレットでいいよ」
お母さんに会えたら、その時にちゃんと自分の名前を聞いてみたいから。
そのいつかが、いつなのかはまだわからないけれど。
それでも、あの森での約束をまだ信じてもいいのだとわかったのだから、とリグレットは柔らかな笑みを浮かべていた。
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