第46話 落ちた水面には届かない

 あまりに衝撃が大き過ぎて、与えられた情報が上手く飲み込めない。

 リグレットが愕然とした気持ちでいるのを他所に、子供達は美味しそうに黄色や橙色のマカロンを頬張っていて、それはまるで、どこか別世界の出来事のように感じられた。

 シュレルジーナが言うには、父親であるアレクスヴニールが王位を放棄していようと、それを利用しようとする者がいるかもしれない、と危惧した一家は、ずっとその存在を公にされる事はなく、所在を隠したまま過ごしていたという。

 では、何故自分は此処に——、幼い頃に、青い桜の森の奥深くに捨てられていたのだろうか。

 リグレットの疑問に気付いたのだろう、シュレルジーナは気遣わしげに見つめている。


「アレクスヴニール様とそのご家族は、ある事件に巻き込まれてしまった、と聞いています」

「事件、って……、何か、あったんですか?」


 どく、と、一瞬心臓が跳ねるように拍動した。

 嫌な予感、というものなのだろうか。急激に不安が襲いかかってくるのに耐えきれず、リグレットは思わず胸元をぎゅうと握り締めてしまう。


「それは、私にも知らされていません。陛下でしたらご存じでしょうが、この件について何度尋ねても教えては下さらないのです」


 リグレットが問うようにイヴルージュへと視線を向けると、彼女も首を振り、視線を俯かせていた。


「リグレットは捨てられたんじゃあない。事件が起きた後、プレセアはどうにかお前を守ろうと、森の奥深くに隠したんだよ。あの辺りは特殊配達員でもそうそう近づけないからね。事前にお前の事を頼まれていたあたしが、その後に保護したんだ」


 シュレルジーナの言葉を引き継ぐようにして、イヴルージュが話してくれた内容に、リグレットは胸の中の不安は、より一層大きくなっていく。


「それって、お母さん達、危ない目にあったんじゃないの……?」


 ばくばくと、心臓がいやに早く鼓動を鳴らしている。

 リグレットの問いかけに、大人二人は突然黙り込んでしまっていた。

 それが肯定の沈黙なのは、明白だった。

 助けを求めるようにイヴルージュの袖を引いて横顔を見つめるが、彼女は視線を合わせる事なく、赤い瞳を膝の上に置いた拳に向けている。

 真白くなるまで握り込まれた手は、微かに震えているように見えた。


「……、アレクスヴニール様はその最中、不慮の事故で命を落とされてる」


 しんと静まり返る部屋の中で、イヴルージュの言葉が、水面に波紋を作るようにぽつりと落ちた。

 一瞬の間があった後、がたん、と椅子が倒れる音がして、いて。

 それが一体誰が起こした音なのかさえ、立ち上がり呆然としているリグレットにはわからない。


「嘘」


 嫌だ、と、震えが止まらない両手で、胸元を強く握り締める。

 さっきから、訳のわからない事ばかりで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 息が荒くなって、目の奥が熱くって、目の前がぐらぐら揺れている。

 折角、お母さんの事を、自分の家族に関する情報を知る事が出来たのに。

 こんな事を、聞きたかったんじゃなかった、のに。


「リグレット、おいで」


 イヴルージュが悲痛そうな声でそう呼ぶので、リグレットは堪らない気持ちになって、彼女に抱き着いた。

 優しく背中を撫でられると、感情を置いてきぼりにしたように、心から言葉はあふれてこないのに、身体の震えが止まらず、目蓋の淵から次々に熱い涙が零れ落ちてくる。

 理由や理屈なんか、きっといらない。ただ、この現実を受け止めたくない、そんな事を信じたくない、と、身体の内側が悲鳴を上げている。

 声を上げる事さえ、自分の中から家族に関する何かが失われていってしまいそうで、きつく唇を噛み締めて、目蓋をイヴルージュの肩に押し付けた。

 お母さんは、その時、どんな気持ちでいたのだろう。

 一体、どんな気持ちで、自分をあの森に置いてきたのだろう。

 そう考えるだけで、胸が押し潰されてしまいそうだった。


「プリムヴェリーナ。プレセア様は、お母様はご存命です」


 とはいえ、貴方の悲しみは計り知れないものでしょうが……。

 呆然として見つめている二人の子供達の背を撫で、そっと言葉をかけるシュレルジーナの声も、少しだけ、震えている。


「お母さんはどこにいるの? お母さんに、会いたい」


 目元をぐいと指先で拭ったリグレットが問いかけるけれど、イヴルージュは緩やかに首を振った。


「悪いが、それは教えてやれない。事件の犯人が全員捕まっていないんだ。この件は彼女が一番に狙われやすい立場にいる。それらが解決しない限り、会わせてやるのは難しい」


 そんな、と声を上げようとすると、シュレルジーナは呆れたように溜息を吐き出している。


「イヴルージュ。それはあなただってそうでしょう」

「えっ?」


 驚いてイヴルージュの顔を見ると、ばつの悪そうな顔をして、彼女は小さく肩を竦めていた。


「あたしはいいんですよ。自分の身くらい、自分で守れますからね」

「じゃあ、暫く伝言局から離れてたのも、グレイペコーがマザーに何で髪切ったのかって聞いてたのも、そのせいなの?」


 イヴルージュは元々身体を動かす事が好きで、運動神経も良く、速達担当の特殊配達員として働いた経験もある。

 だからといって、決して彼女が命を脅かされないというわけではない。

 だからこそ、グレイペコーは彼女をあれだけ心配していたのだろうし。

 リグレットが不安げに見れば、イヴルージュは肩に置いていたリグレットの手をそっと掴んで、視線を地面に移してしまう。


「プリムヴェリーナ。イヴルージュはいざという時は私達の元で保護する事も出来ますが、プレセア様はその立場上、城に匿う事も公に守る事も出来ないのです」


 シュレルジーナが言うところには、自分の母親——プレセアは、安全の為に信頼出来るごく限られた者達に任せて、少しずつ場所を移動しながら暮らしているという。


「二人を引き合わせた場合、あなたをも危険に晒す可能性が高くなるのでしょう。そのような事、母親であるプレセア様もイヴルージュも絶対に望んでいません。同じ母として、彼女達の気持ちは痛い程に理解出来ますもの」

「リグレット、これはプレセアの意思でもあるんだ。会わせてやりたくとも会わせてやれないのは互いに辛いだろうが……、どうか、わかっておくれ」


 ぎゅうと握り締めたリグレットの手の甲に額をつけて、悲痛そうに顔を歪めたイヴルージュの表情は、今まで一度も見た事がない程に、苦しげだった。

 いつだって自信たっぷりで、誰の意見にも動じようとしない、意気揚々としている彼女が、これだけ辛い思いをしているように見えるのなら、それは、彼女にとっても耐え難い気持ちでいるという事なのだろう。

 それに、何より、不器用ながらに愛情を一心に注いで育ててくれた彼女の人となりを、リグレットはきちんとわかっている。


「マザーだって大変な目に合ってるのに、我儘言ってごめんなさい……」


 すんと鼻を鳴らして彼女に謝ると、顔を上げた彼女は骨に沿って額を撫でてくれる。

 グレイペコーと同じ、優しい撫で方だ、と気づいたリグレットは、思わず甘えるように抱きついてしまっていた。

 お前はあたしにどんなに怒ったって、罵ったっていいんだよ、と、まるで懺悔でもしているかのように彼女が言うのを、抱きついたままリグレットは首を振って否定した。

 イヴルージュもグレイペコーも、いつだって自分を守ってくれていたのだ、と、リグレットはきちんと知っている。

 二人がつけている香水の香りがすればいつだって安心するのは、その証拠、なのだから。


「お母さんは、本当に無事なんだよね」

「ああ。それに、いずれ問題が解決されれば、何の心配もなく会えるようになるさ」


 いつか、本当にそんな時が来ればいいな。

 そう思いながらも、口には出せずにいるリグレットが小さく笑うと、イヴルージュは柔らかに眼を細めて頭を撫でてくれていた。

 これまでのやり取りを見守っていたらしい子供達は、顔を見合わせると小さく頷いて、とことこと側まで歩いてくる。

 不思議に思ってリグレットがことりと頭を傾げると、アムラはハンカチを、クラエは青いマカロンを差し出してくれていて。


「プリムお姉様、泣かないで」

「これをやるから、そんな情けない顔をするな」

「せめて一度くらいメッセージカードなどでやり取りが出来ないか、私の方でも陛下にお願いしてみますわ」


 慈しみを持った眼差しで子供達を見つめたシュレルジーナが、そう言って微笑んでいる。

 心配そうに見上げてくる二人の子供達も、血の繋がりがあったと知れたからか、それともこの状況に慣れてしまったからか、出会った当初とは違って、すっかり可愛く思えてきてしまっている、とリグレットは思う。

 淋しさや悲しさが消えるわけではないけれど、周囲の人々の優しさを感じられて、そっと息を吐き出したリグレットは、ありがとうございます、と言って小さく笑みを浮かべていた。

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