第59話 夜明けを待つ星にはなれない
外に出ていた時はあんなに晴れていたのに、何だか雲が出てきた気がする。
昼食を終えた後、リグレットはそんな事を考えながら廊下を歩きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
折角買ってきたキッシュもタルトもちっとも味がわからなくて、お腹の中はいっぱいの筈なのに、どうしてか空っぽのように感じられてしまう。
そっと外側から触れたスカートのポケットには、シスターの女性が手渡してきたイヤーカフが入っている。
落ち着かない気持ちでいるのは、そのせいだろう。
リグレットは立ち止まると、大きく溜息を吐き出した。
不安に感じるのなら、この事をノルに直接聞けばいいだけなのは、わかってはいる。
けれど、どうしたって、それを聞くのは憚れてしまう。
どうして、彼女はこのイヤーカフを渡してきたのか。
何故、自分の本当の名前を知っていたのか。
考えれば考えるほど、嫌な予感が身体の中に湧き上がってくるのだ。
「リグレット?」
後ろから声をかけられて、リグレットはポケットに触れていた手をぱっと離した。
隠しているわけではないけれど、何故だか知られてはいけない、と思ってしまったから。
「……、ノル」
恐る恐る振り返ると、ノルが僅かに首を傾げて見つめている。
少し眠たげな、金色の瞳。
何故だかあのシスターの女性を思い出してしまって、リグレットは咄嗟に視線を逸らしてしまう。
何か言わなくては、と思っているのに上手く言葉が浮かばず、焦りからか身体は強張るばかり。
ノルはその様子を不審に感じたのだろう、小さく息を吐き出して、リグレットの側へと近づいてくる。
「何だ?」
何かやらかしたんじゃないだろうな、と言われて、リグレットはむっと口先を尖らせかけて、止めた。
代わりに息を吐き出すと、流石にいつもと様子が違うとノルにもわかったのだろう、僅かに顔を覗き込む気配がする。
「どうした? 何かあったのか?」
静かに問いかける、その声が少し優しく感じられて、リグレットは握り締めていた手のひらに力を込めた。
のろのろと顔を上げて見つめた彼は、いつもと何も変わらない。
眠そうな眼。寝癖のついた髪。無愛想な顔。
「ノル、そのイヤーカフって昔からつけてるよね?」
言いながら、何故だか言ってはいけない事を言ってしまったような気持ちになって、リグレットはぎゅうとスカートの裾を握り締めた。
ノルはゆっくりと瞬きを繰り返すと、右耳にはめた銀のイヤーカフにそっと触れている。
「ああ……これは、グラウカ先生達に助けて貰う以前からつけていたようだから」
僅かに目を細めて懐かしむような表情に、リグレットは唇を噛み締めた。
以前、グラウカとイヴルージュによって助け出されるまでの記憶を、ノルは覚えていないと言っていた。
そっとスカートのポケットに触れて、リグレットは逡巡する。
この事を告げたなら、何かが変わってしまいそうで、怖い。
けれど、もし彼が知りたいと思っていたのなら、自分のしている事は、裏切りでしかないのではないか……。
リグレットはぎゅうと眼を瞑って、それから、ゆっくりと開いた。
ポケットにしまっていたものを掴んで、あのね、と、震える喉から声を発する。
「さっき、街で会ったシスターさんにこれを渡されたんだけど……」
リグレットがそっと手のひらの中にあるイヤーカフを彼の目の前へと差し出すと、金色の瞳が大きく瞬いた。
ノルは微かに震える指先でイヤーカフを手にして、そのまま、リグレットの肩を掴み、縋るように問いかけてくる。
「これは……、その人は、何処で会ったんだ?」
肩を掴む指が、皮膚に食い込むように力が込められていて、痛い。
今まで見た事のない必死な様子に、リグレットは思わず身体を強張らせてしまう。
「い、痛いよ、ノル」
リグレットが身じろいで呻くように呟けば、ノルははっとして手を離した。
悪かった、と申し訳なさそうに言いながらも、彼は追求を止めるつもりはないらしい。
「頼む。教えてくれないか」
そう言って、頼み込むノルの目は、真っ直ぐにこちらを見ているようで、全然違うものを見ているみたいだ、とリグレットは思う。
(——あの人は、ノルの何なの?)
そう聞こうとして、だけれど、聞いてしまったら、今まであった事が全て変わってしまいそうで、リグレットは何も聞けなかった。
ノルは、ずっとリグレットの答えを待っている。
言いたくない、と思う自分がいる事を認めたくなくて、リグレットは震える唇を噛み締めた。
目の奥が熱くて、だんだんと視界が揺らいでくる。
「……中央広場の、辺り。すぐ行っちゃったから、その後は、わからない、けど……」
絞り出すように告げた言葉に、リグレットは酷く後悔していた。
ノルはその答えにすぐに視線を廊下の向こう側へと向けていた、から。
「わかった。ありがとう」
ノルはそう言って、一度だって振り返る事はなく、駆け出して行ってしまう。
窓の外に広がっている空は、一面を雲が覆い尽くしていて、廊下を薄暗くさせている。
彼の影が、遠くに伸びている。
彼の足音が聞こえなくなるまで、リグレットは息を潜めて、身体を僅かも動かす事が出来なかった。
しんと静まり返った廊下で、ずるずるとその場にしゃがみ込んで、自分を抱き締めるようにして、ぎゅうと膝を抱える。
(……私なんて、どうでもいいみたい)
そんな事を考えてしまう自分が無性に恥ずかしくて悲しくて、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。
違う。違う。これはきっと、涙とかじゃない。泣いてなんてない。悲しい事なんてない。
考えれば考える程に苦しくなって、リグレットはますます身体を丸めて、ぎゅうと縮こまった。
少しでも力が緩んだら、自分の中にある感情が、一気に解放されてしまいそうだ。
ぱたぱたと生温かい水玉が膝の上を落ちてくるのを、他人事のように感じながら見つめていると、頭上から声が降ってくる。
「リグレット? こんな所で、どうしたの?」
ふわりと茉莉花の香りがして、その声がグレイペコーのものだとわかっていても、どうする事も出来ずに、リグレットは唇を噛み締めた。
言い訳をしたくても上手く声が出せないし、身体が動いてくれないし、言葉だってきっとまとまってはくれないだろう。
不思議そうに首を傾げているグレイペコーが顔を覗き込もうとしているので、リグレットは慌ててぎゅうとグレイペコーの首に抱きついた。
「何でも、ない……」
そのままグレイペコーの肩に顔を押し付けて、くぐもった声でそう言うけれど、きっとバレているのだろう。
何でもないって事ないでしょう、とグレイペコーは戸惑ったように言って、ぽんぽんと優しく背中を撫でてくれている。
「何か、嫌な事とか怖い事とかあった? どこか痛いの?」
子供の頃のように問いかけてくるのが、何だかおかしくて、ほっとして、ますます涙が込み上げてくる。
しゃくりあげてしまいそうになるのを必死に堪えていると、今度はまた別の声がかけられていて。
「二人共、どうしたんだい?」
「グラウカ先生……、それが、僕もよくわからなくて」
グレイペコーが困り果てたような声で、先生の名前を呼んでいる。
みっともない所を見られたくなくて、ぎゅうとグレイペコーの首に縋り付くと、グラウカが小さく息を吐き出している音がした。
「そこじゃあ落ち着かないだろう、医務室においで。あたたかいお茶を淹れてあげるから」
「……はい」
ゆっくりでいいから、歩けそう?
そう問いかけてくるグレイペコーに、リグレットは力なく頷いて、のろのろとグラウカの後を歩いていった。
***
医務室の中はいつもと変わらず、消毒液と石鹸の匂いがする。
ただ、日が陰っているからか、室内は少しだけ薄暗く、陰鬱な自身の気持ちを表しているようだ、とリグレットはぼんやりと思う。
医務室の奥、並べられたベッドの隅っこで腰掛けながら、リグレットは手渡されたカップを両手で包むようにして持った。
診療場所とベッドを仕切るように取り付けられているカーテンは少しだけ開いていて、その隙間からは、グラウカが診療机に向かって書き物をしているのが見える。
ぽってりとした形のカップに入っているのは、ハーブティーなのだろう。柔らかな花の香りがして、リグレットはほっと息を吐き出して、ちびちびとそれを飲み込んだ。蜂蜜が入っているのか、ほんのりと甘く、優しい味がする。
「少し、落ち着いた?」
リグレットがぐずぐずと泣いている間、グレイペコーはずっと背中を優しく撫でてくれていて、それがまだずっと幼かった頃と何も変わらない事に、気恥ずかしさを感じつつも、有り難く思えていたものだった。
すっかり目は腫れぼったくなっていて、視界は僅かに滲んでいる。
リグレットは目の縁に溜まった涙が不快で、手のひらで目蓋を擦ろうとするが、見かねたグレイペコーにハンカチを押し付けられてしまっていた。
「話したくないのならそれでもいいけれど……、何か、不安な事があるんでしょう?」
不安になると胸元やスカートの裾などを握り締めてしまう癖のせいで、ずっと一緒に育ってきたグレイペコーには誤魔化しようがないのだろう。
リグレットはすんと鼻を鳴らして、顔を俯かせたまま、じっと自分の膝を見下ろした。
先程の事を思い出そうとすると、悲しい気持ちが込み上げてきて、また泣き出してしまいそうになりそうだった。
それでも、吐き出したなら、少しはこの胸の重苦しい気持ちも、外に抜け出てくれるのだろうか。
考えて、リグレットはおずおずと口を開いた。
「……、ノルが、」
「えっ、ノル? 嘘。まさか、ノルが何かしたの?」
思わぬ事だったらしい、グレイペコーは信じられないと言わんばかりの顔をしているので、リグレットは慌てて首を振った。
「ノルが何かしたってわけじゃなくって、」
「でも、ノルが関わる事なんでしょう?」
一体何やってるの、あの人は……、とグレイペコーは呆れたように呟いて、息を吐き出している。
どうやら、ノルと何か揉めてしまったと勘違いしているらしい。
違うの、と言いながら、リグレットは居た堪れない気持ちになって、膝の上に置いていた両手をぎゅうと握り締めた。
「街で会ったシスターのお姉さんが、別れ際にノルと同じイヤーカフを私に渡してきたの。ノルにそれを見せたら、急にその人がいた所を教えてくれって言うから……」
その瞬間、かちゃん、と物音がして視線を向ければ、診療机に座っていたグラウカが、カップを倒してしまったらしい。
大丈夫ですか、と、カーテンの隙間を開けて声をかけるグレイペコーに反応する事が出来ないまま、グラウカは呆然とした顔でリグレットを見つめている。
「リグレット、その話は本当かい?」
言いながら、勝手に話を聞いてしまった事を恥じているのだろう、グラウカは申し訳なさそうに頭の後ろを掻いて、ベッドに腰掛けているリグレット達の側へと近づいていた。
「いや、すまない。しかし、その子はノルによく似た女性では?」
「先生、知ってるんですか?」
リグレットが首を傾げると、グラウカは女性の容姿について、何故かノルとの類似点がないかと問いかけてくる。
目の色や、髪の色、顔立ち……、シスターベールを被っていたので、その全てには答えられなかったけれど、目の色は彼と同じ金色で、顔立ちも少し似ていると言えば似ているかもしれない。
手渡された銀のイヤーカフも、ノルが身につけているものと全く同じ物だった。
それらをグラウカに話しながら、リグレットは彼女の言葉をぼんやりと思い出す。
そう言えば、彼女は自分が誰かに似ていると思わなかったか、と聞いていた。
そして、離れ離れになっていた家族に会うのだ、とも。
「おそらくだが……、その子はきっと、ノルの双子の姉の、ネムだ」
躊躇うように、けれど、確信したかのようなグラウカの言葉に、リグレットも、その隣にいるグレイペコーも、驚いた顔をして彼を見ていた。
(あのシスターの女の人が、ノルのお姉さん。……ノルの、家族)
その事に、リグレットはどうしてかほっとして、さっきまでの悲しい気持ちが胸から抜けていくように感じていた。
それが何故なのか分からずに小さく首を傾げてしまうけれど、その疑問は、グレイペコーの呆然と呟かれた言葉と共に消えていってしまう。
「ノルに家族がいたなんて、今まで聞いた事がないけれど……」
だって、ノルは森で彷徨っていた所を先生達に発見されたんでしょう?
グレイペコーが困惑した表情を浮かべてそう聞くと、グラウカは小さく頷いた。
グラウカ曰く、ノルはネムと共に森の中にいたらしい。
その際、森で逸れてしまい、ネムだけが行方不明になってしまった、と。
ノルがネムの事をリグレット達に言わなかったのは、ネムの生存について口にはしたくなかったから、なのだろう。
リグレットは、まだ微かに痛む肩にそっと指先で触れる。
あの青い桜の森の中で、彼は自分と同じように、家族と離れ離れになってしまっていた。
それならば、彼があんなふうに、必死になっていたのも頷ける。
「……まさか、生きていたなんて」
グラウカはそう言うと、顔を俯かせて、安堵しているような、それでいて、不安を覗かせているような、複雑な表情を浮かべている。
もし、彼女がノルの姉であったとしたら。
リグレットは考えて、こくりと喉を鳴らした。
あの時、やっと家族に会えるのだ、と、彼女は言っていた。
そして、彼女の話をした時のノルは、一度だって振り返って自分を見てくれなかった事を、思い出す。
その事に、急激に不安が胸に湧き上がってしまって、リグレットはぎゅうと触れていた肩を握り締めた。
指先に力が入って、ずきりと痛むけれど、今は気にする余裕すらない。
何故、彼女は別れ際に、自分の名前を呼んだのだろう。
それに、あの目の色は、以前、何処かで見なかっただろうか。
考えれば考える程、どくどくと心臓が鳴るのが、わかる。
そう、あれは、森で襲われた時に見たテッサの瞳、の、ような……。
足元からずるずると、嫌な予感が這い上がってくるみたいで、気持ちが悪い。
「先生、ノルは……」
震える喉で発した言葉は、まるで自分の声ではないように、やけに遠くに聞こえている、とリグレットは思う。
「ノルは、何処にも行かないよね?」
その問いかけに、グラウカは答える事が出来ずに、視線を俯かせていた。
眼鏡の奥の瞳が、揺れている。
窓の外は日が陰っていて、分厚い雲が空を覆い尽くしていて、室内は一層暗くなっていく。
遠くの方で、ぱたぱたと雨が降り出している音が聞こえた気が、した。
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