第34話 ただそれだけでいいから
その日、配達を終えて伝言局に戻ってきたヴァニラは、驚きのあまり、開いた扉の前で立ち尽くしてしまっていた。
特殊配達員でなければ入れない青い扉の向こうには、いつもならば一番向いにある机にフィスカスがいるのだが、今日は違う。
艶のある金の髪を綺麗に一つにまとめ、目を引く赤が印象的な民族調のワンピースを着たイヴルージュが、長い足を組んでそこに座っていたのだ。
肩には紺色の制服をかけていて、ヴァニラに気付いた彼女が顔を上げると、動作に合わせて身につけていた大振りのアクセサリーがじゃらりと音を鳴らしている。
フィスカスはといえば、相変わらずの軽薄そうな笑みを浮かべながら、まるで従者のように彼女の隣に控えていた。
「ヴァニラ。いつまでもそんな所にいないでこっちへおいで」
「は、はい……」
圧迫面接でもあるまいし、とは思いつつも、伝言局の最高責任者であるイヴルージュにそう言われては、ヴァニラも反抗など出来る筈もなく、大人しく部屋の中に入る他はない。
部屋の奥まで足を向け、彼女の前へ立つと、いつもはしない甘く瑞々しいバラの香りが微かに漂っている。
「どうしてあたしが此処にいるか、わかるかい?」
「……、いいえ」
イヴルージュの声は何ものにも妨げられぬ程に真っ直ぐで、それがまるで自分を非難しているようにも感じられてしまい、ヴァニラはすっかり萎縮してしまった。
何をしたわけでもないのだから堂々としていればいい筈なのに、どうしてそう感じるのか分からずに、ヴァニラは乾いた唇をきゅと噛み締めてしまう。
彼女の行動原理などあまりに突飛すぎて、一般人でしかない自分が理解出来る筈もない。
「局長、あまり三区のお姫様をいじめないで下さいよ」
すっかり怯えきってしまった様子からか、フィスカスが珍しく困ったように眉を下げて笑ってそう言うと、イヴルージュは綺麗に整った眉をひゅうと持ち上げて、真っ赤な瞳で彼をジロリと睨みつけている。
「は? お前こそうちのかわいいグレイペコーに舐めた口を聞いてんの、あたしが知らないとでも思っているのか?」
「ははは。さあ局長、話を進めましょうか」
張り倒すぞ、と凄むイヴルージュに対して、軽薄な笑みを浮かべてさっさと白旗を掲げるフィスカスに、ヴァニラは頭を抱えたくなるのをどうにか堪えている。
元々誰に対してもデリカシーがなく飄々としているのは知っていたが、自らが所属している伝言局の最高責任者にさえ、こうも軽やかに接して許されているのは、きっと彼だけだろう。
イヴルージュは大袈裟な溜息を吐き出して話を切り替えようと椅子に座り直すと、視線をヴァニラへと向けた。
「数日前、うちの子が——リグレットが、ある人物に襲われてね」
突然告げられた言葉に、え、とヴァニラは思わず声を零した。
伝言局の局長であるイヴルージュは、リグレットとグレイペコーの二人を育てた母親だ。
大事に育ててきた子供であるリグレットが襲われたと言うのなら、彼女にとってそれは由々しき事態であり、ヴァニラとて、あの健やかで朗らかな後輩が傷ついたと聞けば、冷静ではいられない。
けれど、目の前の女性は静かに、いつも以上に感情を抑えて話を続けている。
「リグレットは怪我をしていたが、軽傷だ。グレイペコーがその人物を撃退して捕縛している」
「そう、なのですね」
良かった、と安堵の息と共に言葉が零れ落ちる。
配達員が襲われている、という事件についてはフィスカスから十分注意するよう伝えられていたが、本当に身の回りで起こってしまうなんて、とヴァニラは思う。
リグレットは大らかで健やかな性格をしているが、まだ彼女も十六歳の少女でしかないのだ、どんなに怖かった事だろう。
以前、泣きじゃくっていた彼女を思い出し、ヴァニラが胸を痛めていると、ヴルージュは小さく息を吐き出しながら、とん、と机に指を当てている。
「捕まえたのは、橙の髪、灰青色の瞳をした少年だ。テッサ、と名乗っている」
その瞬間、どく、と心臓が大きく跳ねた。
動揺を隠すように、ヴァニラは微かに震える手を強く握り締める。
どうにか声を出さずにいれたものの、表情には確実に出してしまっているのだろう。
その様子に、鮮やかな赤で彩られたイヴルージュの唇は、三日月のように弧を描いている。
「お前がその少年と会っていたのを見た、という情報が入っているんだが」
そして、イヴルージュが机の上へ置いたのは、薄い紫の生地に白い小花の刺繍が施されたハンカチだ。
フィスカスがそれを見て視線を僅かに逸らすが、ヴァニラはそれに気付く余裕などない。
だってそれは、テッサがいなくなる前に、外に出るならと持たせたものなのだから。
「待って下さい! テッサが……、彼が本当にリグレットさんを襲ったんですか? 何か事情があったんじゃないですか?」
ヴァニラは思わず叫ぶようにして、イヴルージュへと詰め寄ってしまっていた。
テッサがいなくなってしまった事が、そんな事件に繋がっていたとは思いもよらず、ただただ困惑してしまう。
たった数日間だけ、と言われてしまえばそれまでだが、一緒にいた間に見てきたテッサは、幼い子供達や病気がちな母親にだって、危害を加えるどころか、怯えさせるような真似は一度だってしなかったのだ。
そんな事をするような人では、絶対にない。
だけれど、イヴルージュが嘘を言っているようにも思えない。
ならば、きっとテッサには何か理由があったに違いない筈だ。
狼狽えているヴァニラに対して、イヴルージュは、はは、と小さく声を零すと、苦笑いを浮かべている。
「ヴァニラ。お前、自分の保身より犯人の心配をするんだなあ」
「あっ……」
言われてすぐに、ヴァニラは口元を両手で覆った。
頭の天辺から一気に血の気が引いて、顔が青ざめていくのがわかる。
「お前がその少年と通じている、というのはわかってる。まあ、その様子を見るに、悪意はないんだろうが」
自分がもし疑われでもしたなら、病弱な母親と幼い子供達、その家族達に迷惑がかかってしまうのだ。
自分のせいで彼らが傷つくような事があったら——、そんな事は、到底耐えられない。
ヴァニラは震えが止まらない手を握り締めて、地面に視線を俯かせてしまう。
「その少年もな、取り調べを受けても頑なに何も言わないが、お前の名前にだけは何故か反応するんだ」
イヴルージュの言葉は責めるような響きをしておらず、その事を不審に感じたヴァニラは、胸底がじりじりと燃えつくような痛みを覚えながら、慎重にこれまでの事を頭の中で整理する。
彼女がヴァニラを断罪する気があるのなら、こんな所で話をする事さえ許しはしないだろう。
だというなら、彼女には何らかの思惑がある筈だ。
「……、もしかして、私に彼の取り調べの協力をしろ、と言いたいのですか」
テッサがヴァニラの名前に反応している、と言うのなら、自分が彼と話をする事で、彼が気を許して口を緩めるかもしれない、と考えているのかもしれない。
問いかけに、イヴルージュはどこか楽しげに、「そうだとしたら?」と聞き返すので、質問を質問で返すのは酷い、とヴァニラは思わず顔を歪めてしまう。
「彼が私に素直に情報を教えてくれるとは限りません。現に、私と話をした時も、自分に関する事には絶対に答えてくれませんでした」
「それはわかっているよ。どうもあの少年は誰かに使い捨てられたようだからね。きっと大した情報は持っていないだろうとはあたしも思っている。だけど、どんなに僅かな情報だってあたしには必要なんだ」
それに、と付け足して、イヴルージュは吐息を零して机に肘をつき、真っ赤に彩られた唇に指を添えている。
「あの少年は抗体持ちだ。お前が懐柔出来るなら、伝言局で使ってやってもいい、とあたしは思ってる」
彼女の言葉に、イヴルージュという女性はそれらの事実を揉み消すだけの力を持っているのだ、と背筋が冷え込むのをヴァニラは感じてしまっていた。
国内でも有数の商家の娘だとか、王族と繋がりがあるだとか、とんでもない噂がばかりが彼女には付き纏っている。
一体どれほどのコネクションを持ち、それらをどう利用出来るというのか。
一般人でしかないヴァニラには、想像もつかない。
けれど、そのイヴルージュならば、捕まったテッサを解放出来るのだろう。
つまりこれは、取引、という事。
自分が彼から情報を引き出せるだけ引き出せれば、彼を解放し、尚且つ、伝言局で働けるように手を回してくれる。
実際、彼女は何の実績も持たないノルを副局長にまで押し上げてしまったと言われている。
伝言局は国が運営している以上、一定の人事には国の許可がいる筈であり、それを納得させられるだけの力が、彼女にはあるのだろう。
「随分と、酷い言い方をされるのですね」
リグレットさんを傷つけられているのに、と、ヴァニラは唇を噛み締めた。
こんなの、ただの八つ当たりでしかない。
だけど、言わずにはいられなかった。
「今更、あたしが優しい人間だと思うかい?」
それに対して、イヴルージュは少しも気分を害した様子はなく、悪戯に眼を細めるだけだ。
「彼を助けるという提案をしてくれてる人を、私は悪い人とは思えません」
あえて優しいとは言わずにいると、イヴルージュは、ふ、と柔らかく吐息を零した。
「リグレットには近づけさせないよう配慮はするつもりだが、あの子はきっと気にはしないだろう。その身に流れる血の力か、いつの間にか引き継いでしまったものなのかはわからないが……、あの子はね、そういう子なんだよ」
それはあたしがよく知っている、と、それまで見せなかった、人間らしい、優しさと悲しさが入り混じった表情を浮かべて、彼女は笑う。
リグレットだけではない、その奥に別の誰かを、懐かしい何かを見ているような気がしてヴァニラが困惑していると、イヴルージュはほんの少し首を傾けて、問いかけてくる。
「ヴァニラ。お前はどうしてあの少年をそこまで庇おうとするんだい?」
長い睫毛に縁取られた、真っ直ぐで意思の強さを感じられる赤い瞳に見つめられ、ヴァニラは唇を緩く噛んだ。
ただ、道端で蹲っていた彼が放っておけなかっただけ。
ただ、見上げてきたその顔が弟や妹によく似た表情をしていただけ。
それなのに、どうして、と問われて、ヴァニラは戸惑ってしまう。
だけど。
は、と息を吐き出して、前を向く。
イヴルージュは赤い瞳を一度も逸らす事なく、ヴァニラを見つめている。
「私、家でも、伝言局の中でも、いつも息苦しかったんです」
何処にも居場所がないようで、そのくせ、決められた役割を決められたようにこなさなければならなかった。
その事を、密やかに、見えないように、気付かれないようにしながら、ずっと疎んでいた。
だって、そうしないと、本当の本当に、どこにも自分がいなくなってしまう気がしていた、から。
「でも、彼がいると、少しだけ、息をするのが楽になったんです」
あんなに怯えて警戒していたのに、何も知らない自分を信じてくれた。
家の中をそっとランタンで灯したように、柔らかな色彩で明るくしてくれた。
それだけで、あんなに息苦しかった場所でも、生きていける、そんな風に思えたのだ。
「私には、それが救いに思えた。本当に些細な事なのに、心から救われる瞬間があった事に気付けた」
だから、彼を助けたいんです。
ヴァニラは透き通る紫の瞳を真っ直ぐに向けて、そう告げる。
「それだけかい?」
きょとん、とまるで子供のように不思議そうな顔をしてイヴルージュが問いかけるので、ヴァニラは少し可笑しさを覚えて苦笑いを浮かべながら、頷いた。
「はい、それだけです」
ただ一言そう返して、ヴァニラは困ったように笑った。
本当に、それだけ。
ただ、それだけの事だったのだ。
きっと、他の人には理解されないだろう。
だけど、それは自分だけが知っていればいい事だ。
イヴルージュはその答えに、今までとは全く違う、まるで、いとけない子供を見つめる母親のように、柔らかで慈しみのある眼差しでヴァニラを見ていた。
テッサを連れて帰ったあのの、そっと握り締めてくれた母親の乾いていてあたたかな手のひらを思い出して、ヴァニラは何だか妙に恥ずかしくなってしまう。
思わず視線を逸らしそうになると、彼女は「なるほどな」と何かを納得したように呟いて、椅子から立ち上がっていた。
「ヴァニラ、明日配達が終わったらすぐに局長室においで」
「え? あの……?」
猫のようにしなやかに伸びをしたイヴルージュが颯爽と外に出ていくのを呆然と見つめたヴァニラが狼狽えていると、珍しく呆れたように肩を竦めて笑うフィスカスが顔を覗き込んでくる。
「良かったね。明日会わせてくれるみたいだよ」
そう言われて、ヴァニラは弾かれるように紫の瞳を瞬かせた。
明日、テッサの所に連れて行ってくれる、と言う事なのだろう。
慌ててフィスカスに頭を下げたヴァニラは、イヴルージュに礼を言う為に、真っ直ぐに伸びた背中を目指して駆け出していた。
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