第33話 繋ぎ目を見つける日を待ってる
医務室の隣にある小さな部屋は、本来は倉庫として使っていたのを、ノルを休ませる為に作り変えられたという。
ベッドとサイドテーブルが置かれただけの簡素な部屋だが、業務を行う部署とは離れていて静かなので、身体を休ませるには丁度良いのだろう。
そっと息を潜めて中を覗き込んだリグレットは、眠っているだろう彼を起こさないよう慎重に、部屋の内側へと足を踏み入れた。
カーテンが閉じられた室内は薄暗いが、それでも外の明るさは部屋の中をぼんやりと照らしている。
ブーツの踵が不用意に音を鳴らさないよう気をつけて近づくと、ベッドの上で身を横たわらせているノルが静かに眠っていた。
眠っている時の彼は、身じろぎもせず、寝息すらじっと耳をすませていないと聞こえない程に静かで、顔色の青白さも相まって、異様な程に無機質に見える。
平気だよね? 大丈夫だよね?
リグレットは何度も心の中で自分に言い聞かせるようにしながら、結局の所、不安が解消されずにそっと耳を近づかせて呼吸を確かめてしまう。
胸が微かに上下し息を吸って吐き出される、その正しさと確かさに、自分がこんなにも安堵をしているなど、きっと彼は知らないのだろう、とリグレットは思う。
ほ、と息を吐き出したリグレットは、かぶっていた帽子を外してサイドテーブルの上へと置くと、ベッド脇に置かれた小さな椅子を見つけて、音を鳴らさないよう慎重に腰掛けた。
リグレットが森で襲われたのは二日前の事で、その日からリグレットは伝言局の外に出る事を禁止されている。
恐らくリグレットの心身を考慮して、なのだろう、数日間安全が確認されるまでの措置だとは聞かされてはいるが、普段と違う仕事をしているのはどうにも落ち着かない、とリグレットは思う。
普段の配達に関しては、グレイペコーが代わりをしているそうだ。
速達の方は大丈夫なのかと心配したものの、元々イヴルージュが速達の経験があるようで、緊急の際は彼女が出るという。
今朝に至っては三区に用事があるからと言って、通常の配達すらイヴルージュが行っているというおかしな状況になっている有様だ。
それもまた、ノルの体調面を気にしての事、なのだろうけれど。
ベッドで眠っているノルにそっと視線を移して、リグレットは小さく息を吐き出した。
ノルは昨晩から体調を崩してしまっているそうで、顔色もいつも以上に青白い。
二日前の事ではあるけれど、やはり森に入ったのが良くなかったのではないか、とリグレットは思わずにはいられない。
今更ながらに、いつも彼が森に入る危険性について何度も注意していた事は、こんな気持ちから来ているものなのかもしれない、と考えられてしまって、リグレットは思わずノルの頰へと指先を伸ばしてしまっていた。
冷たいのだろうと思っていた肌からは、眠っているせいだろうか、ほんのりとあたたかな温度が伝わってくる。
思ったより自分の手が冷たかったのかもしれない、と思い、慌てて手を引っ込めたけれど、その接触で、どうやら彼の眠りを妨げてしまったらしい。
長い睫毛が震えて、いつも以上に眠たげでぼんやりとした金色の瞳が緩やかに瞬きを繰り返して、リグレットを見つめている。
「……ネ、」
その瞬間、彼の唇が自分の名前以外を紡ごうとしているかのように見えて、リグレットは青眼を大きく瞬かせた。
ざわ、と皮膚が粟立つような、身体中が拒否感でいっぱいになってしまった事に驚いて椅子から立ち上がると、がたん、と床に椅子が転がる音がする。
「……、リグレット?」
しんと静まっていた部屋の中で、彼の声はやけに耳に残った。
自身の名前を呼ばれたリグレットは、無性に悲しいような腹立たしいような、そのくせ、酷く安心するような、よくわからない気持ちになって、そっと息を吐き出した。
「ノル、具合どう?」
転がった椅子を起こしながら問いかければ、ノルは暫しの間ぼんやりと瞬きを繰り返していたが、やがて身体を引きずるようにして上体を起こすので、リグレットは慌てて彼の背中に近場のクッションをあてがった。
こっそりと顔を覗き込むと、ノルはようやく覚醒してきたのだろう、眠たげではあるが、いつものように僅かに眉を寄せ、小さく息を吐き出している。
「お前が言うな」
「私はもう平気だもん。すっごく元気だよ」
ノルがそう言うのは、リグレットの頰や手足には未だに大きなガーゼが貼ってあるからだろう。
きちんと毎日薬を塗って貼り直しているし、傷は少しずつ回復しているものの、まだ当分は外せそうにない。
顔や身体を洗う時にはひりひりしているし、思ったより傷が深くなっていたらしい手足からは、まだ動く度に皮膚が引き攣るような痛みがしている。
けれど、だからといって、もうあの事件の事を、リグレットは怖いとは思っていない。
犯人が捕まったからなのか、グレイペコーやノルが来てくれたからか、無事に帰ってこれたからか、わからないけれど、森に入る事自体に恐怖を感じないから、という部分が大きいかもしれない。
それだけ、自分の中ではやはり、あの場所は母親との繋がりを強く感じられる場所なのだろう、とリグレットは思い、視界の隅に映る白い指先に顔を向けた。
「頰がまだ腫れてる」
そう言って伸ばされた彼の指先は、だけど、頰に触れそうで触れない。
その事に、先程まであった腹立たしさや悲しさやが一斉に押し寄せてきて、それらを誤魔化すように、リグレットはその手のひらに頰を押し付けた。
先程まではあたたかかったのにすっかり冷たくなっていた指先は、子供のように高い体温を保持する自分とは全くの別物のように感じられる。
ノルにとって、それは思いもよらなかった行動だったのだろう。
驚いた様子で彼が手を引こうとするので、リグレットはその手をがっちりと掴んで離さなかった。
「おい、離せ」
「やだ」
「やだじゃない」
「やだったらやだ」
やたら強い力で引かれているわけではないので、リグレットでも問題なく彼の手を押さえ込めているが、ノルも嫌そうに外そうと躍起になっているらしく、もはや意地になって手を引っ張りあっていると、部屋の扉からノックの音が響いている。
「ノル、ちょっといい?」
頼まれていた連絡事項を各部署に伝えてきたけど、と言って扉を開けて入ってきたグレイペコーは、中の様子を見るなり、不思議そうな表情を浮かべたまま、首と肩がくっつきそうな程に傾けている。
ノルはそんなグレイペコーに向かって、心底面倒そうな顔つきで助けを求めていた。
「グレイペコー、こいつをなんとかしてくれ」
「うーん、かわいいからいいんじゃないかな」
「よくない。なんとかしろ」
「はいはい」
グレイペコーは口元に手を当ててくすくすと吐息混じりに笑うと、腕に抱えていた紙袋を目の前にぶら下げて、リグレットに手招きをしている。
「リグレット、おいで。いいものあげる」
「えっ、いいもの?」
なになに、とノルからパッと離れると、背後から呆れたように大袈裟な溜息の音がするが、リグレットは気にもせずグレイペコーの側に駆け寄った。
勢いに任せてそのまま抱き付くと、ふわりと茉莉花の香りがする。
戯れるようにくっついてくるリグレットを受け止めたグレイペコーは、楽しげに笑いながら紙袋から紺色の布のようなものを取り出すと、リグレットの頭の上からそれをふわりとかけた。
一体何が起きたのかわからなくて、リグレットがきょろきょろと自身の身体を見回すと、どうやらそれは肘の辺りまですっぽりと身体を覆う、フード付きのケープらしい。
胸元にある釦を留め、その上からリボンを結ぶと、「サイズは問題なさそうだね」とグレイペコーが満足そうに言うので、リグレットは思わずぱちぱちと瞬きを繰り返してしまう。
「これ、どうしたの?」
「作ったんだよ。顔が隠せるだけでも多少は防犯になるかと思って」
「えっ?」
作った、とグレイペコーは簡単そうに言っていたが、事件が起きたのは二日前の事だ。
生活を共にしていた筈なのに、その間そんな事をしていたなど微塵も気付かなかったので、リグレットは吃驚してしまう。
「これ試作品だから、ちゃんとしたのはもう少し待っててね」
「試作品でこれだけ作れるのか。凄いな」
関心したようにノルが言うので、リグレットも同意するように何度も頷いた。
縫製についてあまり詳しくはないが、それでも、生地は丁寧に縫われていて、普通に店に置いてあるようなそれなりの品に見える。
しっかりした見た目に反して重さも然程感じないので、配達時に着用していても全く問題ないだろう。
「流石にボクだけじゃここまでは無理だよ。服作りが趣味の友達に手伝って貰ったんだ」
ほら、受付補助にいるでしょう、とグレイペコーが言えば、合点がいったらしいノルが頷いている。
実家が三区でそれなりに有名な老舗のテーラーだというその局員は、優しそうな見た目と人の話を静かに聞く性質からか、年配客にとても人気があるらしい。
警戒心の強いグレイペコーが気を許しているだけあって、きっと落ち着いていて優しい気質の人なのだろう。
「お礼言いに行かないと」
「じゃあ、完成したら一緒にお礼言おうか」
「うん! ペコーもいつもありがとう!」
ぎゅうぎゅうと抱き付いてお礼を言うと、頭上からくすくすと吐息混じりの笑い声が聞こえている。
グレイペコーはあの日以来、度々ぼんやりと何か悩んでいる事もあったけれど、少しずつこうして笑う回数が増えていた。
その事に密やかに安堵をしていると、グレイペコーは顔を覗き込んで、困ったように笑っている。
「元気が出たならよかった。それならちゃんと業務報告書も書けそうだね」
「う……」
忘れてた、と苦い顔をすれば、ノルが呆れたように溜息を吐き出している音がする。
言い訳でしかないけれど、ノルの調子が悪いと聞いてから、そわそわして手がつかなかったのだ。
けれど、グレイペコーが言い訳を聞いてくれる筈もない、と知っているリグレットは口先を尖らせて俯いてしまう。
それを見たグレイペコーは口元に指を当てると、様子を伺うように顔を覗き込んでいて。
「ノルも目が覚めたなら、みんなでお昼ご飯一緒に食べようかなって思ってたんだけどなあ」
ね、どうする?
と問いかけられ、リグレットは俯かせていた顔をぱっと上げてノルを見た。
彼は少し悩んでいたものの、まあ一口くらいなら、と渋々頷いている。
「すぐ終わらせてくる!」
慌ててブーツの踵を鳴らして外に飛び出そうとすると、ノルの呆れたような溜息と、廊下は走っちゃ駄目だよ、と困ったように笑うグレイペコーの声が聞こえていた。
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