第32話 忘れたのは帰り道と息継ぎの仕方
床に置かれた皿の上。
その上に無造作に置かれたものが、食事、というものだとテッサは彼らに教えられていた。
野菜屑、パンの欠片、食べ散らかした後の残骸に、変な匂いがする、肉片。
時折、その中に苦い粉末や甘ったるい液体、錠剤のようなものまで混ざっていて、それらを食べるといつも息が苦しくなったり、血を吐いたり、身体中が痛くなったりした。
だけど、それでも口にしなければ何も食べられないと知っていたから、床の上に置かれた食事は、全部残さず食べていた。
皆は机の上にあるものを座って食べているのに、自分だけが床に這いつくばって食べなければいけないのは、自分が
そう言われ続けてきたから。
同じような形をして、同じような服を着ているのに、絶対に同じようには接して貰えない。
テッサの中にそうした疑問はあっても、言葉にする事は出来なかった。
そもそも、言葉など教えては貰えていなかったし、知りもしなかったのだ。
もし知っていたとしても、そんな事を言ってしまったら、また、殴られる。
蹴られて、詰られて、嬲られて、無理矢理に頭を地面に押し付けられて、耳に穴を開けられる。
ばつ、を、受けなければいけなくなる。
いたいこと、くるしいこと、が、たくさん、また——。
「……テッサ、テッサ?」
呼びかけられて、テッサははっと顔を上げた。
心臓がバクバクして、胸から飛び出してしまいそうなくらいに、鼓動がうるさい。
目の縁がじんわりと熱くなって、視界がゆらゆらと揺れている。
落ち着いた色合いの壁紙に、シンプルな調度品、片付けているのに何故かいつも一つは必ず床に落ちているおもちゃ。
足元に転がっている鳥を模したぬいぐるみは、まんまるなくるみボタンの瞳で、穏やかな夕日が窓から入り込んだ室内を見つめている。
「テッサ、大丈夫?」
は、は、と自然と上がってしまった息を整えようとテッサが胸をおさえていると、床に転がったぬいぐるみを拾い上げたヴァニラが、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「怖い夢でも見た? もう大丈夫よ。家の中にいれば、怖いものはないから」
彼女はそう言うと、弟や妹にしてやるように、よしよし、とテッサの頭を優しく撫でた。
あどけなさが抜けない丸みのある輪郭、底が見通せそうな程に透き通った紫の眼、眩く光を弾く銀の髪。
ヴァニラは夕食の準備をしていたようで、身に着けているエプロンから、色んな食材の香りがした。
自分より小さく、子供のような身体つきをしているのに、彼女がずっと大人だと知った時、テッサはとてもびっくりしたものだ。
だけれど、頭を撫でる彼女の慈愛に満ちた表情は、過ぎた年月や抱えてきた苦労や元来持ち得た長子としての責任感から培ったものなのだろう。
それ故に、なのかは定かではないけれど、テッサがヴァニラに出会った時、彼女は家族の為に買ってきたパンを分け与え、家に連れて帰るという事さえしていて、テッサは終始戸惑っていたものだ。
家、という所には、ヴァニラによく似ているけど違う、もっと小さい人間がたくさんいて、大きい人間もいたけれど、その人はとても細くて、今にも折れてしまいそうな身体をしていた。
お風呂というものは初めてで、だって、今までは、痛いとすら思えるほどの冷たい水をかけられて、それで終わりだったから、身体を綺麗にしたりぽかぽかするものなのだ、とテッサはその時に正しく知った。
石鹸というものが身体を洗うもので、タオルというものが身体を拭くものだというものだというのも、初めて知って、お風呂の後に連れて行かれたリビングは、今まで嗅いだ事のない美味しそうな匂いで満ちていた。
広いリビングテーブルの上には、あったかいシチューがあって、たくさんのパンが置いてあって、チーズや肉や果物まであった。
それぞれの人の手元にはスプーンやフォークと呼ばれるものが用意してあって、食事はみんなで食べるものだという事も、テッサはその時に初めて知ったのだ。
テーブルの上にある食事を競うように口に詰め込んでいく子供達に倣って、テッサも彼らの見よう見まねでスプーンを手に取った。
口の中は食べた事のないものでいっぱいで、どうしたらいいかわからなかったけど、口に入れるとお腹の中からあったかくて、ふわふわした気持ちになったものだった。
食事をしながら話をしていると、小さい人間だと思っていたのはヴァニラの弟と妹と呼ばれるもので、大きい人間の方はお母さんというものだという事を教えて貰えた。
幼い弟妹達はひっきりなしに話しかけてくるので戸惑ったものだし、何を言っているのかテッサには全く理解出来なかったのだけれど、よく観察してみると、一生懸命に気持ちを伝えようとしているのがわかって、テッサも気がつけば一人一人の話にじっくりと耳を傾けていた。
一番年上の妹はラムと言って、ヴァニラの次にしっかりしていて、だけど小さい人間達の中では一番の泣き虫だ。
その下の弟であるフランは外で遊ぶのが大好きで、服をよく泥だらけにしてきては怒られていて、その下の妹のカスタは恥ずかしがり屋で、目を合わせただけですぐに顔を真っ赤にしてしまう。
リコとマレという男女の双子はいたずら好きで、いつも楽しそうに次は何をしようかと相談していて、一番末のカロンは甘えん坊で、よく膝の上に乗っかったり抱っこをせがんでくる。
お母さんと呼ばれる人間は、とても身体が弱いらしく、一日中眠っている事もあれば、時折家事をこなしながら、優しく声をかけてくる事もあった。
おてつだい、という仕事をするとヴァニラがとても喜んでくれたので、その事をお母さんと呼ばれた人間に話すと、彼女もとても嬉しそうにしてくれたので、テッサは胸底がむず痒いような、それでいて不快ではない気持ちに、ホッとしたのをよく覚えている。
おかあさん、ラム、フラン、カスタ、リコ、マレ、カロン。
そして、ヴァニラ。
それは、あのあたたかい家にいる、家族の名前。
大切な、名前。
きつく閉じていた眼を開くと、薄闇で満たされた灰色の部屋の中で、テッサは横たわっていた身体をゆっくりと起こした。
先程までぼんやりとした夢の中で思い返していたあたたかい風景など欠片もなく、頰を押し付けていた床はひんやりとしていて硬く、冷たい。
暗灰色の部屋の中は、隅に埃が積もっていて、かびた臭いが充満している。
視線を持ち上げて見つめた先には鉄格子を嵌めた重い扉があり、時折、カンテラの明かりを持った大柄な男が様子を見に来る以外は、何もなかった。
耳鳴りさえ引き起こしそうな程に静かな部屋の中は、冷たくて、息苦しくて、先程まで見ていた景色が嘘のように思えてしまう。
冷えて強張った身体を動かすと、あちこちが軋んだように、痛い。
それを堪えるように、テッサはぎゅうと身体を丸めて縮こまった。
窓はなく、外を見る事さえ叶わない。
唯一外界に通じているのだろう天井近くにある空気孔からは、ひゅうひゅうと風の音が聞こえている。
「かえり、たい……」
言葉に意味はなく、自然と零れてきたものであり、抱えた膝に頰を押し付けていたテッサは、理解出来ない自らの言動に戸惑い、更に身体を縮こませた。
自分が帰れる場所など、一つしかない。
けれど、もし帰れたとしても、また同じように辛くて痛い思いをしなければならない。罰を受けなければ、ならないのだ。
自分が悪いのだ、と言われ続けていたから、疑問には思った事など一度もない。
けれど、それが本当かどうか、テッサにはわからなくなってしまったのだ。
森であの少女を捕らえようとした時、テッサは今まで言い聞かされていた全てを、信じていた全てを疑ってしまった。
気持ちは揺らいで、何処に立っているのかもわからなくなってしまった。
だから、帰る場所すら、自分にはわからない。
だけど、と考えて、視線を落としていた無機質な床を眺めながら、あの時、ヴァニラと出会った時の事を、テッサは思い出していた。
彼女は怯えた顔をしながらも、得体の知れない少年でしかない自分へ声をかけ、じっと辛抱強く側にいて、落ちつかせてくれた。
美味しい食事とあたたかい場所、優しい人達に触れる機会を与えてくれた。
それが何故なのかは、テッサにはわからないけれど、彼女が与えてくれたものは、泣きたい程にやさしくて、大切なものだと思えたのだ。
「帰りたい」
もう一度、今度ははっきりと思いがこもった言葉として口にすると、気持ちがあふれてきてしまいそうで、目元が熱くなってしまう。
テッサは落ち着かせようと、詰まりそうな呼吸をゆっくりと繰り返した。
そうだ、帰りたいというのなら、自分にとってその場所は、彼女達がいるあのあたたかな家だったのだ。
だけれど、きっと、もうそれすらも叶わない。
天井近くの空気孔からは、相変わらずひゅうひゅうと風の音が響いてきていて、薄暗い室内をより一層孤独にさせている。
テッサは乾いた唇を動かし、掠れた声で呟いていた。
どうして、嘘を吐いたの、と。
***
仕事を終え、夕食の買い出しに行っていたヴァニラが家の前まで帰ってくると、ニ番目の妹であるカスタは飛び出してくるような勢いで抱き付いてきた。
今にも泣き出しそうな声で、おねえちゃん、と舌足らずに呼ぶ妹の目元は既に赤く、目尻には透明な涙が今に零れ落ちてしまいそうだった。
末の弟のカロンも同じようにくっついてきているが、きっと事情がよくわかっていないのだろう、不思議そうな顔でカスタとヴァニラを交互に見つめている。
「どうしたの。暗くなったら家の中にいようねって約束したでしょう」
外はもうすっかり夕焼けが落ちかけていて、夜を告げる濃紺が足元からうっすらと広がっている。
少し肌寒い空気の中、家の扉の前で待ち構えていた二人にそう言うと、ヴァニラは持っていた荷物を地面に置いてから、ぎゅうと二人を抱き締めた。
頰に押し付けた二人の頭は、まあるく、小さい。
子供特有の、湿気を帯びたあたたかい体温と柔らかさが、外気に晒されていつの間にか冷たくなっていた皮膚にゆっくりと伝わってくる。
まだ誰かの手を借りなくては生きてはいけないだろう、幼い子供達。
自分の、愛すべき家族達。
だけど、と考えて、ヴァニラは乾いた咳を唇から零した。
どうしてだろう。最近では感じなかった筈の息苦しさを、また、感じ始めている。
「テッサがね、まだ帰ってきてないの」
カスタが言う通り、数日前から、テッサは家にずっと帰ってきていない。
その事に、ヴァニラも妹が持つ不安と自分自身が抱えていた不安を混ぜ込んでしまい、どうしようもなく胸が苦しくなってしまう。
今までも、テッサはふらりといなくなってしまう事があっても、帰ってこない日はなかったのだ。
何かあったのか、それとも元いた場所に戻ったのか……わからないけれど、出会った時の事を思うと、彼が今、また酷い状況に置かれていやしないか、と心配で堪らなくなってしまう。
「お姉ちゃん……、もうテッサ、帰ってこない?」
もう会えないの、と聞かれたヴァニラはどきりとして、胸の鼓動が聞こえないよう、そっと妹から身体を離した。
自分と同じ、透き通る紫の瞳は水分でゆらゆらと水面のように揺らいでいて、瞬きをすれば呆気なく歪な水玉を次から次へと地面へと落としている。
「大丈夫だよ。きっと、疲れてお腹が空いたら帰ってくるから」
さ、家の中に入ろう?
そう言って家の中へと促すと、子供達は釈然としない顔をしていたけれど、ぐすぐすと鼻を鳴らして頷いて、玄関の扉へと駆け出していった。
ヴァニラは地面に置いた荷物を抱え直して、深く長く息を吐き出した。
何かあった時、お互いに悲しい思いをしちゃうのは嫌じゃない?
そう、フィスカスの言っていた言葉が頭を過ぎる。
いい加減な事を言って、と唇を噛み締めると、ヴァニラはそっと後ろを振り返った。
重苦しい濃紺の空が、淡い色をした夕焼けを押し潰しながら、訪れようとしている。
ああ、息が苦しくて溺れていきそうだ。
ヴァニラは俯いて渇いた咳を零すと、そっと目蓋を閉じていた。
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