第35話 いつか、終焉を告げるために
イヴルージュが三区に来た翌日、一区にメッセージカードを届け終えたヴァニラは、急いで局長室を訪れていた。
すぐにヴァニラを伴ってイヴルージュが連れてきたのは、一区の外れにある白い外観の大きな建物だ。
ふん、と鼻を鳴らして腰に手を当てている彼女が見つめた先にある、立派というよりは、厳かで威圧感を与えてくる雰囲気を醸し出していて、固く閉じられた門には紺と白を基調とした制服に身を包んだ兵士がいる。
一般人でしかないヴァニラにとって日常に於いて何ら接点のない場所だが、どうやら彼らの制服を見る限り、ここは軍の施設の一つなのだろう。
兵士達は揃えたように厳つい顔立ちをしていたが、イヴルージュの顔を見るなり、何故だか酷く狼狽えた様子をしていた。
一体何をしでかしたのか、とヴァニラは問いかけたい気持ちを堪えてイヴルージュへと視線を向ける。
どうやら彼女も何か思うところがあるのか、化粧で綺麗に整えた頰に手を当てて、「ちょっと前に軍のお偉いさんに喧嘩ふっかけられてやり返したから、そのせいか?」などとぼそりと呟いていた。
今までにない事態だったのだろうか、大柄な体格をした兵士達が慌てふためきながらあちこちに連絡を取っているのを呆然と眺めつつ、世の中には知らない方がいい事もあるものだ、と考えて、ヴァニラは深く長く息を吐き出していた。
暫くすると、兵士達がやや及び腰で門の内側へと案内をしてくれて、ヴァニラは堂々と道の真ん中を歩くイヴルージュから離れないよう、すぐ後ろを早足で懸命について行った。
軍の施設に入るのは初めての事で、中で働く兵士達は、子供のような容姿をしたヴァニラがこの場にいる事が珍しいのか、興味本位の視線を向けてきていた。
それらが身体にまとわりつくようでヴァニラは不安で仕方がなかったが、イヴルージュが顔を向ければ一斉にそれらは消えてしまうのが、何だか少し可笑しく感じてしまうのは、仕方のない事だろう。
そうしてヴァニラ達が案内されたのは、建物の奥まった場所にある小さな部屋だ。
囚人と面会をする為の特殊な部屋らしく、内部は中央を硝子と金属の格子で仕切られており、その前には質素な椅子がぽつんと置かれている。
こちらで少々お待ち下さい、と言われてヴァニラが狼狽えていると、イヴルージュは部屋の中央に設置された椅子へ座るよう勧めて、さっさと入り口近くの壁に凭れて腕を組んでしまう。
ここから先は完全に干渉する気がない、という意思表示なのだろう。
申し訳なく思いながら頭を下げたヴァニラがおずおずと席につくと、彼女は珍しく柔らかに笑うので、頰が熱くなって仕方がなかった。
数分後、静かな部屋の奥から足音が響き、扉を開けた兵士たちが連れてきたのは、酷く憔悴しきった顔をしたテッサだった。
手には仰々しい手錠が嵌められていて、中央の椅子に座らされると、虚ろな瞳がぼんやりと地面を見つめている。
その姿は、初めて会った時と変わらない、否、それよりももっと荒んだ様子に、ヴァニラは思わず席から立ち上がってしまった。
「テッサ……」
ヴァニラの声を聞くなり、テッサは灰青の瞳を大きく瞬かせて顔を上げた。
縋る様に見つめてくる彼は、けれど、諦めたように首を振ると、さっと視線を背けてしまう。
拒まれているのだろう事はそれですぐに理解出来たが、やっと会う事が出来たのだ。
ここで挫けるわけにはいけない、と、ヴァニラは静かに深呼吸を繰り返すと席に着き、しんと静まり返る部屋の中で、声が響かないよう気をつけながら口を開いた。
「テッサ、ご飯はちゃんと食べさせて貰っている? 寒くはない? 痛い所ある?」
問いかけに、テッサは僅かに肩を揺らしたが、それ以上の反応を示す事はない。
見た限り、彼は大きな怪我や病気をしているようには見えないので、此処で酷い扱いをされているというわけではないのだろう。
けれど、心を許してくれたように思えた彼が、出会った時よりも警戒心を露わにし、自分の存在を拒んでいる、という事が、ヴァニラにとって何より辛く感じられていた。
「テッサ。森の中で、あの子を……、リグレットさんを襲ったって、本当?」
地面に視線を向けたままのテッサは、頑なに口を聞こうとはせず、後ろに控えている兵士達も、伺うような視線をヴァニラとその後ろにいるだろうイヴルージュへと向けている。
心の中に焦りが生じてくるのを感じながら、ヴァニラは知らず強く手を握り締めていた。
皮膚に食い込んだ爪が、痛い。
「あなたを責めているんじゃないの。何か、事情があったのでしょう? お願い、教えて」
テッサは頑なに口を開こうとしないし、視線を合わせる事もしない。
けれど、俯かせた灰青の瞳は揺れ、唇は微かに震えている。
弟や妹が何かを必死に隠している時とよく似た仕草だ、と気付いたヴァニラは、悔しさと悲しさが胸の中にどっと押し寄せてくるのを感じた。
「私はあなたの事を助けたい。だけど、その為にはあなたが知っている事を教えてもらわないといけない。あなたに嫌な思いをさせたいわけじゃないの」
話しながら、視界がぐらりぐらりと揺れている。
悪意を持った誰かが、テッサを縛り付けているんじゃないか。
そう思えて仕方がなかった、から。
感情の昂りに呼応するように目の前に広がる水分があふれてしまいそうで、零れてしまわないよう懸命に堪えて、ヴァニラはテッサに話しかける。
「私の事はどんなに恨んでもいい。でも、あなたに、あの家に帰ってきて欲しいの」
だから、お願い。知っている事を教えて。
ヴァニラは顔を俯かせて、爪が食い込んだ手のひらを握り締めながら、懇願する。
テッサの良心を利用して、同情を引いて、情報を提供するよう誘導する、なんて酷いやり方なのだろうと自分でも思うけれど、それしか、自分には出来ないのだ。
その事が、とてつもなく悔しくて悲しくて堪らない。
ただ、あの家に帰って、また、皆でご飯を食べたり、遊んだりして、安心して休める場所にいて欲しいだけなのに。
「ヴァニラ」
不意に名前を呼ばれて、ふらりと顔を上げれば、先程までずっと逸らされていた灰青の瞳が、迷うように揺れて見つめて、いて。
「……、ヴァニラはオレに、ウソ、つかない?」
何かを確かめるような彼の言葉と視線に、ヴァニラは一瞬だけ、躊躇してしまう。
本当の本当を言わなければ、彼はきっと信じてはくれないだろう。
そう、思ったから。
だから、と、ヴァニラは緩やかに首を振って、それを否定する。
「ごめんなさい。それは、約束出来ない」
テッサは酷く傷付いた顔をして、泣き出しそうになりながら、俯いてしまっていた。
当然の事、だろう。
だけれど、それだけは、それだけは絶対に譲れないのだ、と思い、ヴァニラは彼の名前を呼んだ。
熱くなった呼気を吐き出して、まっすぐに見つめた灰青の瞳が、水面のように揺れている。
「だって私は、あなたを守る為なら、きっと、嘘を吐くと思うから」
それだけは許して、と呟いて、ヴァニラは震える両手を握り締めた。
だって、あなたはあの時、私を信じてくれたのだもの。
疑いながらも、戸惑いながらも、それでも、真っ直ぐに私を信じてくれたのだもの。
それなら、もう二度と、誰かを傷付けさせるような真似をさせたくはない。
その為に必要な嘘なら、きっと自分は迷いなく使うだろう、と思ったのだ。
「ヴァニラ」
テッサはそっと名前を呼ぶと、今にも泣き出しそうな顔で、笑っている。
「あの人に、命令された、から」
だからリグレットを襲ったのだ、とテッサは言う。
突然の告白に、ヴァニラは思考が追いつかず、ことりと首を傾けてしまう。
「……あの人?」
問いかけに静かに頷いたテッサは、まるで誰かを思い浮かべるかのように、地面に視線を向けて瞬きを繰り返すと、静かに目蓋を閉じて、唇を開いた。
「青い桜の森の、お姫さま、に」
***
青い桜の咲く森の奥深く。
深淵にも思える程の深い青で満たされたその場所に、周辺の桜よりも遥かに大きな桜の大樹が鎮座していた。
その根本には、一人の少女が佇んでいる。
裾と袖が長い独特の民族衣装を身につけ、ゆっくりと歩む動作に合わせて、ちりん、ちりん、と鈴の音が鳴っている。
暗い青の中でさえ色鮮やかに映る青の長い髪を揺らし、少女はゆっくりと瞬きを繰り返して、瞳を空へと向けた。
虚ろで空っぽな、硝子玉のように透き通りながらも、一切の意志を感じられぬその青の瞳は、何を映す事なく、ただ虚空を見つめている。
肌は生気を感じられぬ程に白く、いっそ青くさえ見える。
顔を覆う白のヴェールは、祈る為でなく、悼む為でなく。
表情を朧げに見せては、人とは思えぬような異質さを、見るものに与えている。
少女の足元には、恭しく頭を下げた男が一人、跪いていた。
黒い服に身を包み、目深にフードを被ったその人物は、顔を上げると、ふ、と唇を緩めて笑みを浮かべている。
「姫様」
呼びかけに、少女は答える事はない。
けれど、それすらも尊いものだと言わんばかりに満足げに笑う男は、更に頭を低く下げて、口を開いた。
「姫様、幼い
男の問いかけに、少女はほんの僅かも反応をする事はなく、ただただ、空を、ここではない何かを、見つめている。
返事の代わりなのかは定かではないけれど、彼女の傍から青い毛並みの狼が顔を出し、すっと伸びた鼻先を少女へと向けていた。
「……貴女はいつも何も仰らない」
淋しさを滲ませるでもなく、ふ、と笑う男はゆっくりと立ち上がり、少女の側へと一歩だけ近づいた。
狼は何か言いたげに金色の瞳を向けるが、それは牽制ではなく、ただ単に男の動きを確認しているだけのようで、すぐに少女の方へと視線を戻している。
その事に気を良くしたのか、男が更に一歩近づくと、不意に鋭く光る何かが目の前に突き出されていた。
男はその事に、何も動揺する事はない。
ただただ笑みを深くして、目の前に突き出されたナイフを——正確には、それを掴んでいる人物を見つめている。
「姫様が貴方に加護を与えないのも、話をしないのも、その必要がないからよ」
ナイフを持つフードを目深に被った黒服の人物は、足先から頭に至るまで全てを衣服で覆われている為にはっきりとした容姿まではわからないが、声の高さと華奢なその身体つきから、女性である事は容易にわかるだろう。
男はその女の言葉に、貼り付けるような笑みを口元に浮かべている。
「いたのか」
「白々しい」
吐き捨てるかのようにそう言って、女は男の目の前に、少女を庇うようにその前へ立った。
苛立つような気配を纏う女は、それを隠しもせず腕を組んで蔑むような視線を男に向けている。
「貴方には貴方の役割があるでしょう。いつまで此処にいるつもり? その穢れた身体で、姫様の側に近寄らないで」
黒い布地の為に目立ちはしないのだろうが、男の衣服にはべっとりと、黒ずんだ血液が付着している事を、女は気付いていた。
彼が余計な事をしでかした者達に制裁を与えたのだろう事は、それで容易に出来ていたのだ。
女が睨みつけるようにして牽制していると、不意に背後にいた少女が、視線を空から地面へと落としていた。
「……姫様?」
女は気遣わしげに少女を見つめるけれど、姫と呼ばれた少女は今までと変わらず反応を返す事はない。
彼女はただ、森の奥深くから、ゆっくりと瞬きを繰り返して、真っ直ぐにある場所を見つめている。
青で満たされたこの場所とは違う、白亜の城。
忌まわしき血で満たされている、彼の地を。
「全部、壊して」
わたしの願いは、それだけ。
それはまるで生きている人間とは思えぬ程に、熱が込もらず、冷たく透き通った声だった。
硝子のように繊細でありながら、皮膚を切り裂いてしまいそうなその声音に、男は喜びを露わにするかのように笑みを浮かべ、女はただ、それを静かに聞いていた。
二人の表情は、決して等しく同じものになりはしない。
「はい、姫様」
けれど、女も男も真っ直ぐに少女の願いを受け止めて、頭を下げていた。
「貴方が望まれた事を、望まれたままに」
一字一句、同じような温度で同じような速さで同じような形で誓われた言葉。
歪んでいながら、それでも直向きにさえ思えるその言葉に、少女は、ふ、と、青で彩られた唇を歪めて、静かに嗤った。
深い青で満たされた森には、ちりん、ちりん、と、内耳に残されるまで鈴が鳴り響き、青い毛並みの狼は、少女の傍で、ただただ静かに寄り添っている。
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