第36話 ティーカップの底にある共通項

 日常業務とテッサの取り調べを繰り返しているうちに、ヴァニラが知ったテッサを取り巻いていた環境は、想像を絶するものだった。

 テッサが暮らしていたのは、三区の外れにある入り組んだ場所にある居住区に建てられた、とある建物だという。

 其処は過去に違法薬物の密輸やそれに伴う諍いで起こった殺人事件など、数々の犯罪を起こしたある組織が潜伏先として使用していた場所の一つらしい。

 国でもその犯罪組織の動向は把握しており、注意深く捜査をしているものの、彼等は非常に狡猾であり、尻尾を掴まれぬよう慎重に行動しているようで、ずっと足取りを掴めずにいるそうだ。

 テッサは物心がついた時には既にその組織の中にいて、言葉を教えられるよりも前に、戦闘訓練、襲撃方法の教育などを施され、気がついた時にはそこの構成員として働かされていたという。

 構成員達は全員がルプスと名乗っていて、その中でも特に年若いテッサは、その名前の通りに、否、それ以上に酷く扱われていたようだった。

 少しでも命令に背いたり上手く任務を遂行出来なかった場合は、集団による暴行を受け、彼の耳にたくさんのピアスがあるのも、彼等によって面白半分に頭を押さえつけられて開けられたものなのだという。

 それを聞いた時、ヴァニラはあまりの悍ましさに、胃の中身を全て吐き出してしまいそうだった。

 彼が以前、悪い事はしていない、罰はしない、と訴えていたが、あれも、命令を忠実にこなしていなければ彼の失態なのだと認識され、罰を与えられる、という事だったのだろう。

 必死になって鋏を嫌がった理由は、間違いなくそのせいだ、とヴァニラは苦々しい面持ちでそう思う。

 そもそも、それが本当にテッサの失態だったかどうかも、彼自身には理解出来ていないのだ、場合によっては彼らの気分次第で物事を捻じ曲げて、虐待行為をされていた可能性もある。

 また、テッサの診察を行なった医師からは、長期間何らかの薬品の投与もされていた可能性が高い、と聞いている。

 医薬品類は通常、適切な量と投与方法が決まっていて、乱用すれば必然的に副作用が起きてしまうものだ。

 母親の看病をしているヴァニラにとってはそれは一番に気をつけなければいけない事であったし、新しい薬を処方された時にはきちんと医師に説明を聞き、わからない所があればそれをメモして疑問点を解消していくよう努めてきた。

 だからこそ、それがどんなに酷い事なのか、というのをヴァニラはすぐに理解してしまっていた。

 彼は人より薬の耐性が強く、反応も鈍い。催涙剤のようなものでも、効き目が殆どないそうだ。

 それは、いざという時に医薬品の効果を得られない、という事でもある。

 大きな怪我や病気にはなるべくかからないよう注意しておいた方がいいでしょう、と医師からも告げられているので、ヴァニラとしても不安が募ってしまう。

 話を聞いているだけでも、もうやめて、と叫びたい程だった。


 そして、テッサと話をしている中でも、ヴァニラが特に違和感を覚えたのは、「お姫さま」についてだ。

 イヴルージュもその内容については詳しく聞きたがっていたし、ヴァニラも気にはなっていたものの、やはりテッサは事情を詳しく知らないようで、話す内容は断片的なものばかりである。

 はっきりとわかっているのは、その人物が年若い少女であるということ。

 そして、青い髪と青い瞳を持っているということ。

 お姫様と呼ばれている通り、王族の誰かなのだろうかとヴァニラは背筋が冷えたが、イヴルージュがどんなに調べてみても、そのような人物はこの国には存在していないという。

 テッサ自身、彼女に会ったのはほんの数回で、どういう人物なのかよくわからないと話していたのを、ヴァニラは思い出す。



「ええと……つまり、お姫様にリグレットさんを連れてくるように命令された、って、他の人から言われたって事?」

「うん」


 リグレットを襲った経緯についても、そのお姫様が直接指示をしていたのではなく、それが彼女の意思である事を、命令を下す人物達に言われていたらしい。

 その場面を直接見ていないテッサには、お姫様とやらが本当にそれを望んだのかどうか、不審に思っているようだった。

 テッサ曰く、そもそも彼女が誰かと話している所など、殆どと言って程に見た事はないという。

 そんな人物が、果たしてそのような命令をするだろうか、と感じているのだろう。


「お姫様は、優しいひと?」

「わから、ない。でも、怒る、は、しない」


 頭を撫でて貰った事はある、などと緊張感の抜けた事を言うので、ヴァニラは思わず顔を綻ばせてしまったが、警戒心の強いテッサがそう言うのなら、件の彼女は、必ずしも首謀者ではないのかもしれないし、誰かに担ぎ上げられているだけなのかもしれない。

 少ない情報の中で、物事を結論づけるのはよくないだろうし、と、ヴァニラはテッサを見上げて再び問いかける。


「テッサは、その人の事を信じている?」

「それ、は……」


 テッサははくはくと唇を動かした後、困ったように眉を寄せてヴァニラをじっと見つめていた。

 先日話をした時も、彼は嘘を吐かれたという事に、酷く傷ついているようだった。

 これまで接してきた人達の中で、誰が嘘を吐いたかわからない以上、テッサも悩んでいるのだろう。


「もし悩んでいるのなら、本人に聞かなければ本当の事はわからないから、それは保留にしておいてもいいんじゃないかな」

「ほりゅ、う?」

「今はそのままにしておいていい、って事」

「それ、いいの、か?」


 困惑した表情を浮かべて首を傾げるテッサに、ヴァニラは優しく笑いかけると、小さく、だけれど、しっかりと頷いた。


「いいんだよ。テッサがね、誰かを信じるのはテッサの自由だと思うから。だけど、自分や大事に思う人を守る為に力を振るうんじゃなくって、誰かに命令されたから他の誰かを傷付ける、っていうのは……、私はもう、して欲しくないな」


 テッサが今まで過ごしていた環境を知れば知るほど、これからはどうか、安心して過ごせるように、何ものにも脅かされないで暮らせるようになっていって欲しい、と思う、のだ。

 だけれど、自分の置かれていた環境とはあまりに違い過ぎて、この思いが独りよがりではないのか、自分勝手ではないのか、不安が募ってしまう。

 ヴァニラが膝の上に置いた手のひらを、きゅ、と握り締めると、テッサはその言葉をゆっくり噛み砕くように頷いて、柔らかに目を細めて笑っていて。


「うん。オレも、それが、いい」


 ありがとう、と言われて、胸の底がくすぐったくて、あたたかい。

 ヴァニラはそっと息を吐き出して笑みを溢した。

 この気持ちは身勝手なものかも知れないけれど、せめて、少しでも彼が自分の気持ちに真っ直ぐにいられるように、その手助けをしていこう、と密やかに思っていると、名前を呼ばれてヴァニラは視線を上げた。

 灰青の瞳が、不安げに揺れている。


「オレ、ヴァニラ達の家、帰れる?」


 じっと答えを待つテッサに、ヴァニラは思わず頬を緩めて顔を綻ばせた。

 あの家に帰りたい、と思ってくれた事が、ただ、嬉しくて。


「帰れるよ。約束して貰ったから大丈夫。これは、絶対に嘘じゃないからね」


 だから、もう少しだけ待っていてね。

 自分にも言い聞かせるように、そう言うと、テッサも嬉しそうに笑っていた。



 ***



 今朝の出来事を思い出しながら、ヴァニラは特殊配達員でしか入れない青い扉の職務室にて報告書をまとめつつ、肺の奥に押し留めていた息をゆっくりと吐き出した。

 テッサは身元の保証すら出来ていない状態だそうで、それらの処理を行う為に、暫くの間はまだ外には出られない。

 それに、伝言局で働く人間にも、彼が働く事を周知しなければならない。

 一般の局員には彼の事情は伏せられるが、彼と対峙した一区の特殊配達員達には、きちんとした説明をしなければならないのだ。

 被害を受けたリグレットは不安な思いをするだろうし、彼女と幼い頃から一緒に育ってきたというグレイペコーやノルは強い反発を覚えるだろう。

 幾らイヴルージュが決めた事とはいえ、彼らと対立するような事はしたくはないのだけれど、とヴァニラは思い、唇を噛み締めた。

 テッサとて、外に出ても暫くの間は監視の目がつけられると聞いているし、伝言局で働く以上、決して自由の身ではないのだ。

 リグレット達にそれらの事情を説明したとして、果たして納得して貰えるのだろうか……。

 考えれば考える程に溜息が次から次へと口から吐き出されていて、部屋の中が溜息でいっぱいになってしまうのではないか、と思えてしまう。


「ヴァニラちゃん、大丈夫?」


 目の前にあたたかな紅茶の入ったカップを差し出され、ヴァニラはぼんやりと顔を上げた。

 軽率そうな笑顔を浮かべて顔を覗き込んでくるのはフィスカスで、テッサに関する情報共有を行っているというのにいつもと変わらない様子の彼に、ヴァニラはカップを受け取りながら、また一つ、溜息を量産してしまう。


「フィスカスさんは、平気そうですね……」


 げっそりとした気持ちでヴァニラが言うと、ぱちぱちと子供のように瞬きを繰り返したフィスカスは、ことりと首を傾けた。


「あれ? 言ってなかったっけ? 俺、スラムの出身なんだ。だからこういうのは慣れっこだよ」


 昨日話をしてた人が翌日には道端で死んでるとか、日常茶飯事だしさ。

 そう、天気の話でもしているかのような軽やかさで話すので、ヴァニラは思わず絶句してしまう。

 三区では繁華街の奥まったエリアが一部スラム化しており、暴力沙汰は勿論、殺人や違法薬物の取引、娼婦達の溜まり場にもなっていて、その治安の悪さから、一般人は決して近寄らない。

 ヴァニラ自身、その危険性は親から口煩い程に言われていたし、弟妹達にも厳しく言い聞かせている。

 そのような場所でフィスカスが生まれ育ち、どれだけ壮絶な生活を送っていたのか、ヴァニラは知らなかったし、知ってしまった今、どう反応していいのか分からず、固まってしまった。

 哀れみも、慰めも、同情も、全部、絶対に、違う。

 ぐらぐらと脳が揺れるような感覚に、陥りそうに、なる。


「誰だって見えないだけで色んな事情を抱えてるものだと思うから、そんな気にしなくていいんじゃない?」


 フィスカスはそう言うと、いつものようにへらりと笑うので、ヴァニラは気付かれないよう注意深く、安堵の息を吐き出した。

 いつも調子よく軽口を叩き、飄々と過ごしている彼に、そんな背景があるなんて気づきもしなかった。

 その事に、悲しさや悔しさや、言い様のない気持ちがない混ぜになって、ヴァニラは唇を噛み締めてしまう。


「……私、自分の視野がどれだけ狭かったのか、今になって実感しています」


 テッサにしても、フィスカスにしても、抱えているものはきっと自分よりも遥かに大きなもので、ずっと苦しんでいたり辛い思いをしてきたのかもしれない。

 それに対して、自分はなんて小さな事で悩み、苦しんでいるどと感じていたのだろうか……。

 自らの矮小さを恥じて俯くと、目の前に置いていたティーカップに角砂糖が一つ、落とされる。

 ぽちゃん、と波紋を広げたその塊は、柔らかな紅色の中でゆっくりと溶けていく。


「そうは言うけど、人間って前にしか目がついてないんだしさ、他の人の事情なんて一々慮ってたら疲れちゃうでしょ?」


 そう言って、まるでおまじないでもするかのような軽やかさで、気にしない気にしない、と笑うフィスカスは、ティースプーンでカップの中身を一混ぜする。


「テッサ、だっけ? あの子はヴァニラちゃんのおかげで救われたんだろうし、それならそれでいいと俺は思うけど」


 ていうか、そう思ってないとやってけないよ、と肩を竦めるフィスカスに、ヴァニラは小さく息を吐き出して、カップを手に取った。

 鼻を擽る果実に似た芳醇な香りがそっと気持ちを和らげていくようで、口をつけると、ほんのり甘い味が口いっぱいに広がっている。

 ゆっくり呼吸をして、カップを置くと、ヴァニラは顔を上げてフィスカスを見た。

 いつ見ても変わらない、へらへらとした軽率そうな、顔。


「フィスカスさん、この件で局長に何か進言しましたよね?」


 問いかけに、彼は肩を竦めて戯けるように両手を上げている。


「んー? 何の事?」


 フィスカスはあくまでも知らぬ存ぜぬを通そうとしているが、テッサを伝言局で使うという事は、それらの事情を知っていて彼のフォローが出来る人間が必要だ。

 それらは到底ヴァニラだけでどうにか出来るという話ではなく、上司であるフィスカスにも当然、その皺寄せが向かってしまう。

 この態度から鑑みるに、彼はそれらを自らが引き受けるとイヴルージュに提案したに違いない。

 元々、そういった事を上手くやってしまう人だからこそ、イヴルージュも彼を三区のまとめ役として任命したのだろうし。


「気を遣わせてしまって、すみません。それに、テッサの今後の教育や、それに伴って色々ご迷惑をかけるでしょうし……、本当に、ごめんなさい」


 テッサの事は自分が決めた事であって、迷惑を被ったとしても仕方がないと思うが、周囲に被害を及ぼしたいわけではない。

 だからこそ、申し訳なさが募ってしまい、ヴァニラは頭を下げて、謝罪する事しか出来ない。

 俯かせた視線の先に、ひらひらと揺らしたフィスカスの掌が映る。

 のろのろと顔を上げれば、フィスカスはいつもと変わらない、へらへらとした笑みを浮かべている。


「言ったでしょ、俺は全世界の女の子の味方だって」


 彼の言葉は軽く聞こえるけれど、その真意はもっと深いものなのかもしれない。

 きっとそれは、自分には理解出来ないだろうし、彼もそう簡単に話す事はないだろう。

 だけれど、其処には、自分が家族を、テッサを大事に思って守りたいと思うように、彼にも同じように、そうしていたい誰かがいるような、そんな想いを感じられて、いて。


「女の子って言われる程、子供じゃないですけどね。……でも、ありがとうございます」


 ふ、と吐息混じりに笑って頭を下げると、フィスカスは驚いたように目を丸くして、それから、肩を竦めて笑っていた。

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