第37話 互いの距離を適切に測って

 その日、久しぶりの配達を終えて帰ってくるなり、局長室へと呼ばれたリグレットは室内に入った途端、思わず胸元のリボンをぎゅうと握り締めてしまっていた。

 部屋の向かいに座っているのはイヴルージュ、その隣にはノルが控えていて、それだけなら何らおかしくない事であったけれど、二人の前に立っているグレイペコーはリグレットの様子に気がついて振り返ると、困惑した表情を浮かべている。

 それだけで、何かが起きているのだ、と確信するには十分であったし、何より、グレイぺコーから少し離れた場所には、三区にいる筈のヴァニラとフィスカスまでいるのだ。

 不安に駆られて足が引けてしまいそうな所を、イヴルージュが優しく名前を名前を呼ぶので、リグレットはおずおずとグレイペコーの側へと足を向けた。

 いつもなら感じる事のない、妙な緊張感で満たされた室内の中は居心地が悪く、誰もが視線を合わせようとはしていない。

 リグレットがそわそわとしていると、イヴルージュは深く長く息を吐き出して、手にしていた書類をノルに渡して、皆に説明をするよう促した。

 そうしてノルが話したのは、先日リグレットが襲われた事件と、その後の調査結果についてだ。

 リグレットを襲った犯人の少年が抗体持ちであった事、ある犯罪組織の末端である事、そして、犯行前にそれらを知らずにいたヴァニラと接触していた事。

 それから、王族と同じ青い髪と青い眼を持つ少女が、事件と何らかの関わりを持っているという事。

 今まで至って平穏に過ごしていた自分が、突然襲われたり、それが犯罪組織と関わっている事であったり……、理解したくともあまりにも多すぎる情報量に、上手く飲み込見たくとも出来そうにない、とリグレットは思う。

 そろそろと周囲の表情を伺うと、ヴァニラはじっと地面を見つめたまま顔を強張らせているし、視線に気付いたフィスカスはにこりと笑いかけてくるし、ノルは無表情を貫いていて、イヴルージュは息を吐き出しながら皆の様子を見て足を組み直している。

 しんと静まり返る部屋の中で、グレイペコーはことりと首を傾け、片手を上げながらイヴルージュへと問いかけていた。


「結局、リグレットがその組織に狙われていた理由って何だったの?」

「さあ?」

「さあ、って……」


 イヴルージュの返答にならない返答に、いい加減な、と眉を寄せたグレイペコーは、呆れたように腰に手を当てると、ちらとリグレットへ赤い瞳を向ける。

 今朝の配達に向かう前、グレイペコーは森に入る直前まで側にいてくれて、キナコにも何かあったらすぐに戻ってくるよう何度も言い聞かせていた程だ。

 リグレットとしては、犯人が捕まったのならもう安心なのだろうと安易に考えていたが、そういった背景があるのなら、まだ狙われる可能性があるという事なのだろうか。


「じゃあ、そこを潰すまではリグレットは危ないって事?」

「いや、それについては大丈夫じゃないかと思っているよ」


 首を振って否定するイヴルージュの言葉を受け、頷いて補足を補足をしたのは書類を手にしているノルだ。


「犯人と似た格好の死体が、森の周囲で複数見つかってると軍から報告が上がっている」

「えっ」


 突然告げられた事実に、リグレットは思わずグレイペコーの後ろに、隠れるようにしてくっついた。

 いつも通っているような場所やその近辺で死体が転がっていた、なんて知りたくはなかった。かといって、知らされないのも不安ではあるけれど……。

 リグレットは顔を青ざめさせたが、それを見たフィスカスがにこりと笑いかけてくれていて。


「大丈夫大丈夫。発見したのは三区の付近だから、リグレットちゃんの行動範囲じゃないよ」

「いや、そういう問題じゃないから……」


 安心させる為だろうフィスカスの言葉に、グレイペコーは顔を引き攣らせている。

 そうだそうだと言わんばかりにリグレットが何度も頷くと、肩を竦めて困ったように笑うフィスカスに、お前は少し黙ってろ、とイヴルージュが睨みつけていた。

 ボクもいるしキナコ達もついてるから大丈夫だよ、とグレイペコーが言って頭をそっと撫でてくれるので、リグレットはおずおずと頷いて、ようやく居住いを正した。

 その様子を見守っていたイヴルージュは、自然と柔らかくなっていた瞳を瞬かせると、気持ちを切り替えるように腕を組んで背もたれに身体を預けている。


「死亡していた者達は、先の犯罪組織の構成員だ。あの少年の言うお姫様とやらとの関係はわからんが、制裁を与えた結果がその死体だっていうのなら、こんな雑にはやらない筈なんだよ。ああいう組織は尻尾を出すのを誰よりも嫌うからね」

「つまり、リグレットを襲ったのは組織的な犯行じゃあないから、この件からは手を引いてる可能性が高い、って事?」

「ま、そういう事だ」


 一先ず安心していい、という事なのだろう、リグレットはほっとして胸を撫で下ろしたけれど、その直後、イヴルージュは組んでいた足を直すと、にっこりと音を鳴らす程の笑顔を貼り付けて、爆弾発言を投下したのである。


「で、あの犯人の少年なんだけどな。伝言局うちで特殊配達員として使う事にした」

「……は?」


 あまりに突然の事に呆然としている中、どういう事、と詰め寄ろうとしたグレイペコーの言葉にはっとして、リグレットは慌てて止めた。

 抱きつくような形で引っ張った腕は強張っていて、ぐっと力がこもっているのが、触れた服越しからでもはっきりとわかる。


「ペコー……」


 名前を呼び、見つめたグレイペコーの横顔は、普段ならば絶対にしない、怒りに満ちた顔をしているので、リグレットは怯みながらも首を振って止める事しか出来なかった。

 リグレット自身、確かに先の事件を思い出せば、不安にはなる。

 けれど、イヴルージュがそう言ったからには、何らかの裏付けがあっての決断なのだろう、という事もわかるのだ。

 グレイペコーがここまで怒っているのは、リグレットをあの事件の時のように危険に合わせない為でもあるし、イヴルージュが納得がいくよう全てを教えてくれない、から、で。

 こうした時のイヴルージュは大抵、リグレット達が問い詰めた所で真実を話す事はない。

 その根底にあるのは、家族を巻き込みたくないという気持ちか、もしくは、家族でさえ言えない何かを抱えているか、なのだから。


「どういう事? リグレットが何をされたのかは知ってるよね? どれだけ酷い怪我をしたのかもわかっている筈だよね? 流石にそれはどうかと思うけど」


 グレイペコーはそう言うと、緩やかにリグレットの腕を静かに外して、イヴルージュを非難するように見つめている。

 同じ色をしている筈の赤色の瞳は、まるで温度が違っていて、決して同じ色には見えない。


「あの少年は適切な教育を受けていない。言語は勿論、一般常識も、生活習慣さえ含めてね。だが、ヴァニラに非常によく懐いていて、更生が可能だと判断した。元々特殊配達員は人手が足りないから、ちょうどいい補充だろう」

「だからって……、もしまた同じことが起きたらどうするの?」


 グレイペコーが不快感を露わにするように眉を寄せると、今まで俯きがちでじっと押し黙っていたヴァニラがばっと顔を上げた。

 その表情からは必死さが見て取れて、ヴァニラと少年との間には、やはり何らかの繋がりや絆のようなものがあるように、リグレットには感じられていた。


「テッサにはそんな事、二度とさせません」

「なら、それをどう証明するつもり?」

「そ、れは……」


 言い淀むヴァニラに、グレイペコーは言い訳をする子供と対峙するかのように、呆れた様子で息を吐き出している。


「また人の危害を加える可能性がないってはっきり証明出来ないなら、どんなに庇っても意味はないと思うけど」

「でもっ、」

「感情論で話をするのは時間の無駄。子供じゃないんだから、そういう事しか言えないのなら黙っていなよ」


 ばっさりと切り捨てるグレイペコーに、ヴァニラは泣き出しそうになるのを必死に堪えて、震える両手を強く握り締めている。

 ぴりぴりと皮膚が痺れるような空気が部屋の中に満ちていて、リグレットはどうにか止めようとするけれど、言葉を出す事も身体を動かす事も上手く出来ずに、微かに震えていた指先で、スカートの裾を握る事しか出来ない。

 そんな中で突然、ぱちん、とその空気を断ち切るかのように両手を叩いた音が響いていた。

 音の元を辿れば、フィスカスが珍しく困ったように眉を下げて笑っている。


「はいはい、そこまで。三区のお姫様は繊細なんだから、あんまりいじめないでほしいなあ」

「フィスカス、煩い。君は黙ってて」

「わかったから、そう熱くなるなって」


 肩を竦めてやれやれと言わんばかりの態度でいるフィスカスは、庇うようにヴァニラの前に立った。


「そりゃあ俺だって女の子に危害を加えるような奴はお断りしたいけどさ、局長の命令だし、しかたないだろ? それに、リグレットちゃんの件があるからこそ、そいつは三区で預かるんだよ。俺が監視役、ヴァニラちゃんは教育係。被害を被るのはどうやっても三区でしかないし、リグレットちゃんが森に入る時間には絶対に近寄らないようにするって事で、俺も了承したんだ」


 あくまでも局長が決めた事であって、こちらを責めるのはお門違いだ、と主張するフィスカスの言葉に、言い返す事が出来なくなったグレイペコーは唇を噛み締め、忌々しげに彼を睨みつけている。


「抗体持ちは貴重だからね。多少の危険性には目を瞑るしかないさ」


 イヴルージュはそう言って会話を打ち切ろうとするけれど、グレイペコーは緩やかに頭を振って、口を開いた。


「だから、加害者の人権は守るのに、被害者の意見は聞き入れないって事?」

「これに関しては前例があるんだよ」


 その言葉にノルは静かに目蓋を伏せていて、その様子を不思議に思ったリグレットは首を傾けるけれど、瞬きの間には彼は意識を切り替えるように、イヴルージュとグレイペコーのやりとりを見守っている。


「利用出来るものは何だって誰だって利用する。あたしはあたしが伝言局の局長である限り、このやり方をやめる気はないし、貫き通すと決めている。その上で意見があるなら聞こうじゃないか。此処で言いにくいのなら、後で個別に聞いてやってもいい」


 そう言って言葉を一旦切ると、イヴルージュは困ったように眉を下げて笑った。

 まるで、聞き分けのない子供を宥めるように。


「グレイペコー、お前が一番気に食わない顔をしているね。納得がいかないなら、幾らでも言ってご覧」


 普段は絶対に呼ばない言い方で名前を呼ばれ、グレイペコーは鼻先に皺を寄せて、不愉快を露わにしている。

 どうして態と神経を逆撫でするような事を言うのか、とリグレットが怯えるように肩を縮こませながらイヴルージュを見るが、彼女は決してグレイペコーから視線を離す事はない。

 噛み締めていた唇を解放したグレイペコーは、は、と息を短く吐き出して、いて。


「納得がいってもいかなくても、ボクは決められた事には従うよ。貴方はこの伝言局の局長で、ボクはただの局員でしかないんだから」


 ただし、と付け足して、グレイペコーは赤い瞳で非難するように、イヴルージュの顔を見つめている。


「家族として、というのなら。貴方のそういう所は、好きじゃない」


 嫌い、と言い切れない辺りが、グレイペコーなりの優しさであり弱さである事を痛い程に理解しているリグレットは、何か言おうとしてグレイペコーを見上げるが、目を合わす事すら出来なかった。

 グレイペコーは「失礼します」と冷え切った声で告げると、酷く大きな音を立てて扉を閉めて出ていってしまう。

 重く沈んだ空気が満ちた部屋にいる全員が、何とも言えない表情でその扉を見つめている。

 いつもなら、グレイペコーはこんなふうに怒りはしないし、何より、イヴルージュと口を聞かなくなる程の喧嘩をした事なんて一度だってないのだ。

 それだけ二人は家族を大事にしているし、互いを信頼している。その筈なのに。

 どうしよう、と泣き出しそうになりながら右足を浮かせかけた瞬間、名前を呼ばれて、リグレットは助けを求めるようにノルを見た。

 ノルはその眼差しを受け止めてしっかりと頷いてくれていて、その仕草で彼が何を言おうとしてくれているのかが、わかる。

 ノルは、グレイペコーの気持ちを慮ってくれている、のだ。

 その事にほっと安堵して、リグレットは水分で滲んでいた目元を手の甲で拭うと、急いでグレイペコーの後ろを追いかけていた。

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