第38話 投げ出す右足、つまんだ左頬

「なあ、ノル」

「なんですか、局長」


 しんと静まり返った局長室の中、ぽつりと呟いたイヴルージュに、ノルは無感情に応えた。

 叩きつけるかのように酷い音を立てて閉められた扉の音と、その後に続いたぱたぱたと追いかける足音がいつまでも鼓膜に残って、耳鳴りがしてきそうな程に、静寂が痛い。

 手にしていた書類を眺めて丁寧に整え直していると、イヴルージュは肺の底から押し出すように溜息を吐き出して、椅子の背もたれに身体を預けている。


「ペコー、めちゃくちゃ怒ってるよな」

「怒るでしょうね」

「お前も怒ってるよな?」

「リグレットがこれ以上傷付けられる事がないと証明出来れば誰も怒りませんよ、局長」


 無表情のままそう言い放つと、お前が一番怒ってるじゃないか、とイヴルージュは顔を顰めている。

 事前に話は聞いていたのだけれど、それはそれ。許せるか許せないか、味方か味方ではないか、で話をするのなら、自分ははっきりいってグレイペコーと同じように許せないしイヴルージュの味方ではない、と言ってしまうだろう、とノルは思う。

 リグレットはあの事件以来元気そうに見えるものの、頰や手足の傷はまだ治りきっていない。

 その性格上、自分の事より他人の事に比重を置きがちな彼女は、この件で自分の身に降りかかった事よりも、動揺しているグレイペコーの精神状態やノルの体調面を気にしている。

 だからこそ、周囲の人間が彼女を気にかけなければいけないのに、それを母親であるイヴルージュも十分知っている筈なのに、とんでもない事をしでかしてくれたものだ、とノルは溜息を吐き出した。

 グレイペコーが出て行った後、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていたリグレットの顔を思い出すと、更に溜息は量産されていく。


「リグレットが然程この件を気にしてないって分かってるから、お前達が余計に怒ってるんだろう? 分かってるさ」

「それならわざわざあんな言い方をしなくともいいでしょう」


 おまけに三区の二人まで呼びつけて、と溜息を吐き出すと、フィスカスは両手を広げて肩を竦めているので、ノルは緩やかに頭を振った。

 あくまでも三区の二人を非難しているのではなく、采配を振ったイヴルージュを非難しているのだ、と言外に滲ませると、ヴァニラは申し訳なさそうに頭を下げている。


「ああでも言わなきゃ、ペコーはこの件から引いてくれんだろうが」


 グレイペコーは警戒心が強く人の機微にも聡い。それ故に、嫌でもこの件について疑念が深まり、詮索しようとするだろう。

 それを押し留めるには、逆上させてでも立ち止まらせなければならなかったのだ。

 確かにそれは理解しているのだけれど、だからといって本気で喧嘩を売るような真似はやめて欲しい、とノルは思う。

 グレイペコーはイヴルージュに従順だけれど、それは二人の間に信頼があっての事だ。

 そうでなければ警戒心も猜疑心の強いあのグレイペコーは反発を覚えるのは当然だし、それを宥めるのははっきり言って相当難しいだろう。

 リグレットが引き留めているだろうから話をする事くらいは出来るだろうが、話を聞き入れてくれるかどうかはまた別問題だ。

 それを知ってか知らずか、イヴルージュはノルに向かって、両手を重ねて拝むようにしている。


「ノル、」

「知りません。自分の蒔いた種でしょう」

「そう言ってくれるな。お前もうちの子みたいなもんだろ」


 頼む、と、子供のように眉を下げて懇願しているので、ノルは視線を逸らして無視を決め込んでいたのだが、十五秒、三十秒、一分半……、一向にそれが解除されないと悟ると、深く長く息を吐き出した。


「……、フォローはします、一応」

「お、さっすが! 伝言局の副局長はやっぱり優秀だなあ」


 わっと歓声を上げて囃し立てるので、たった今告げた言葉を反故にしてしまおうか、とノルは思わず考えてしまう。

 手にしていた書類を机に置くと、ノルは呆れたように横目でイヴルージュを見た。


「ですが、後でしっかり謝らないと本当に嫌われますよ」

「はは、嫌われるのは困るなあ……」


 仕草や言葉とは裏腹に、まるでそうしてくれた方が本当は楽なのだろうと言わんばかりに彼女は苦しげに笑うので、そこに淋しさを覚えて、ノルは視線を地面へと向けた。

 イヴルージュやグラウカは、自分達がどういう事をしてきたか、その結果何を失ってきたのか、後悔の埋め合わせをする為にどうしたらいいかを、知っている。

 それらは、リグレットやグレイペコー達のように、何も知らない者達には理解されなくていいし、して欲しいとも思わない。

 こんな気持ちになるのは、こんなにも辛く苦しい想いに苛まれるのは、自分達だけでいい、そう思う、から。

 けれど、独りよがりでみっともないとわかってはいても、気づいてもらえないと言うのは……、どうしてこんなにも淋しい事なのだろう、とも、思うのだ。

 自分も人の事は言えないな、と口の中だけで呟いて、ノルは顔を上げた。


「グレイペコーが好きなものでも作ったらどうですか。母親なら知っているでしょう、好物くらい」


 そう言って見せれば、イヴルージュは赤い瞳を丸くして、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。


「あたしの方までフォローしてくれるなんて、本当にいい子だね、お前も」


 優しい子ばかりで本当に困ったものだ、と、苦笑いを浮かべて、彼女はそっと息を吐き出していた。



 *



「ペコー、待って! お願い!」


 早足で廊下を歩くグレイペコーの後ろ姿を見つけて、リグレットは慌ててその背中を目掛けて地面を蹴った。

 ヒールの音を立てて歩くグレイペコーは、いつもならリグレットが声を掛ければ立ち止まってくれるし、ちゃんと顔を見て話を聞いてくれる。

 だが、今はそんな事をしている余裕もないのか、全てを無視して廊下を歩いていて、決して足を止める事はない。

 どうにかして止めなければ、と手を掴んで引き留めると、ようやく視線が向けられるので、リグレットはそっと息を吐き出した。


「ね、中庭でお茶しよう? 疲れちゃったでしょう?」

「いい。放っておいて」


 そう言いながらも、グレイペコーは今にも泣き出しそうな顔をしている。

 泣いた姿を今まで一度だって見た事はない、誰かの世話をしていればよく見られ、笑っていれば笑いかけてくれるから、そうやって感情を押し込めてきたグレイペコーは、人前で感情を露わにするのを嫌がる。

 内側に触れられたくないから、感情に振り回されて、見たくないものを直視しなければいけない事が、怖いから。

 知ってはいても、こんな状態で放っておける筈がない。

 リグレットは唇を噛み締めると、グレイペコーの腕に勢いよく抱きついた。

 すぐに引き離そうと肩をぐっと掴まれるけれど、リグレットは嫌がるように首を振って、絶対に引き離されないように、腕に力を込める。


「やだ。絶対一緒にいる。どんなに怒られても、嫌われても、今のペコーは絶対放っておけない」


 ずっと一緒に育ってきたから、今のグレイペコーがどれだけ傷ついているか、痛い程にわかるのだ。

 今一人きりでいたなら絶対に耐えられない程に辛いという事も、押し潰されてしまいそうな程に苦しい気持ちでいるという事、も。

 お願いだからせめて一緒にいさせて、と泣きそうになるのを必死に堪えて懇願すると、グレイペコーは震える息を繰り返し、強張っていた身体からゆっくりと力を抜いていくのがわかった。


「……、甘いミルクティが飲みたい、な」


 まるで甘えるようにグレイペコーが鼻先を髪に埋めてそう言うので、リグレットはほっと息を吐き出して笑った。

 人を頼ったり弱い所を見せる事が出来ないグレイペコーなりに、頑なになった心をそっと解いてくれて歩み寄ってくれているのだろう。


「うん、わかった。直ぐ持ってくるから、中庭で待っててね」


 腕に擦り寄るようにしてから顔を上げると、グレイペコーは困ったように眉を下げ、小さく頷いていた。

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