第39話 棘つき星々溶かして飲み込んだ
業務が始まっていても昼までまだ時間があるからか、中庭には人の声は然程響いてこない。
静かで落ち着いた環境はきっと、グレイペコーのささくれた気持ちを逆撫でする事はないだろう。
リグレットはほっとして、ミルクティーが入ったカップを二つトレイに乗せて用意すると、零さないよう気をつけながら中庭へと急いだ。
中庭に足を踏み入れると、すぐに気がついたらしい薄茶色の毛並みをしたキナコが足元にまとわりついてくるのを、苦笑いを浮かべて宥めながら奥へ行くと、誰かに見られたくないからだろう、植え込みの陰でグレイペコーが膝を抱えて座り込んでいる。
その側には白い毛色のミゾレが気遣うように寄り添っていて、リグレットに気がつくと、きゅうきゅうと困ったように鳴き声を上げていた。
神経を刺激しないよう気をつけて声をかけてから、ミルクティーの入ったカップを差し出すと、グレイペコーは青ざめた顔でのろのろとそれを受け取って、カップの縁に唇を寄せている。
隣に腰掛け、狼達を撫でながらゆっくりとミルクティーを飲み込んでいく姿を見守っていると、ほう、と吐息が零れる音が聞こえたので、リグレットはそっとグレイペコーの顔を覗き込んだ。
「ペコー、少し落ち着いた?」
「……、うん」
イヴルージュに反抗した、という事実が、今になって大きなダメージになっているのだろう。頷いてはいるものの、カップを側に置くと、すぐに膝に顔を埋めてしまっている。
いつもと違う様子に、キナコとミゾレが心配そうに頭を擦り寄せたり手を舐めたりしているけれど、グレイペコーはそのまま反応をする事はない。
「マザーは、私の事もペコーの事も、ちゃんと考えてくれてると思うよ」
リグレットがそう言うと、グレイペコーは微かに頷いて、震えた息を吐き出している。
あまりに苦しそうな呼吸だったので、リグレットはぴったりとグレイペコーにくっついて、少しでも和らぐように背中を優しく撫でた。
触れた服越しでも、身体が冷え切っていて、強張っているのがわかる。
「……だけど、それなら、せめて事前に言って欲しかった」
「そうだね……」
イヴルージュはとても優しくて、たくさんの愛情を与えてくれるけれど、いつだって、言葉が足りないのだ。
思いを形にしてくれないから、時折、宙ぶらりんの気持ちになって、不安になる。
淋しさは自分でしか埋められない事は理解しているけれど、それでも、世界に取り残されたようで、一人きりでは耐えられなく、なる。
共有する気持ちから何も言えなくなってしまって、リグレットが肩に擦り寄るようにして顔を寄せると、溜息を零したグレイペコーがこてんと頭を乗せてくる。
足元にはキナコとミゾレがくっついてきていて、少し冷えた身体には心地よかった。
子供の頃、母親を想ってぐずぐずと泣いていた夜、決まってグレイペコーが気付いて寝かしつけてくれた事を思い出すようで、そっと目蓋を閉じると、後ろから静かに声がかけられた。
「少し、いいか」
声の主が誰なのかはわかっていたから、ゆっくりと顔を上げてそちらへ向けると、思った通りにノルが中庭に足を踏み入れている。
グレイペコーは完全に警戒しきっていて、きっと鋭い眼差しでノルを睨みつけていた。
「何? あの人のフォローでもしに来たの?」
「あの話を聞いてどちらの味方をするかなんて、お前が一番よくわかっているだろう」
「……、どうだか」
グレイペコーはすっかり拗ねて顔を背けているが、ノルの言葉に少し安心したのだろう、二人の間にはいつものような空気を感じられる。
リグレットがほっとして笑みを浮かべると、側にまで歩いてきたノルは、とりあえず腹が減っている状態だと苛々するだろうから、と小さな箱を差し出した。
それは、手のひらと同じくらいの大きさの、上質な紙で出来た箱だ。
グレイペコーはちらと横目で見てから再び視線を背けているので、代わりに受け取ったリグレットが蓋を開けると、ふわりと甘い香りが広がって、それに気付いたグレイペコーはぱっと顔を向けていた。
側にいたキナコやミゾレもそわそわして顔を近づけてくるので、これはキナコ達は食べちゃ駄目なものだよ、とリグレットが注意をすると、二匹は揃ってしょんぼりと耳と尻尾を下げている。
あまりに悲しそうな顔で見つめてくるので、後でおやつを用意してあげよう、とリグレットは苦笑いを浮かべて二匹の頭を優しく撫でた。
手にしている箱の中には、この国では高価でなかなか手に入る事が出来ないチョコレートが入っている。
ドライフルーツやナッツなどでデコレーションを施されたチョコレートは、まるで宝石のように綺麗に並べて箱に収められていた。
それがグレイペコーの好物である事は、リグレットもノルも、そしてイヴルージュも当然知っている。
食べ物で釣る気か、とグレイペコーが非難めいた視線を向けると、ノルは軽く肩を竦めていて。
「局長に文句を言って取り上げてきたんだから、もう少し褒めてくれたっていいだろうが」
おそらく、イヴルージュが外に出ていた際に購入し、隠し持っていたものなのだろう。帰宅時の土産の中にもしっかり用意されてはいたが、これはどうやらイヴルージュの晩酌のつまみにでもしようと思っていたものらしい。
一体何をどう言ってあの彼女から取り上げてきたのかは定かではないが、その功績はグレイペコーも認めざるを得なかったようで、とりあえず座れば、とリグレットの隣に来るよう促している。
ふふ、と吐息混じりに笑みを浮かべれば、グレイペコーがばつの悪そうな顔をしているので、リグレットは箱の中からオレンジピールが乗ったチョコレートを一つ摘んで、グレイペコーの目の前に差し出した。
困ったように視線を彷徨わせていたものの、早くしないと溶けちゃうよ、とリグレットが笑って促すと、意を決したグレイペコーがおずおずと口を開くので、リグレットはそっとその中にチョコレートを放り込んだ。
暫く口元を手で押さえて咀嚼していたグレイペコーは、すました顔をしながらもその美味しさに感動しているらしい、嬉しさを隠しきれずに目元を和らげている。
チョコレートを口にした事で安心したのか、ノルも小さく息を吐き出して隣へ腰を下ろすので、リグレットは嬉しくなって笑みを浮かべてしまっていた。
こうして三人で並んで座っていると、まるで子供の頃に戻ったようだったから。
グレイペコーもノルも同じ事を思ったのだろう、どこか懐かしいように眼を眇めている。
ノルの足元では狼達が戯れついていて、グレイペコーやリグレット達のように面倒を細やかに見ているわけでもないのに、ノルは何故か狼達にとてもよく懐かれていて、彼が時折あやすように柔らかな毛並みを撫でると、嬉しそうに尻尾を振っている。
「さっき、局長が前例がある、と言ってただろう」
静かに話すノルの言葉に、リグレットはそっとグレイペコーを見やるが、警戒しているふうではなくただ彼の言葉を聞いて頷いているので、リグレットも同じように頷いた。
イヴルージュの言った事が本当なら、犯人の少年を伝言局に入れたように、問題がある者を入れた事があるのだろう。
ノルは一度深く長く呼吸をすると、珍しく、少し戸惑うように口を開いていて。
「……、あれは、俺なんだ」
驚いて向けられた赤と青の瞳に、ノルは少し居心地の悪さを感じたのか、そっと視線を外し、長い指先で右耳に嵌めたイヤーカフに触れている。
龍の鱗にも似た模様のイヤーカフは、陽光に照らされると鈍い光を反射していた。
どう反応していいのか分からずに、リグレットが胸元をぎゅうと握り締めると、ノルは困ったようにほんの少しだけ眉を下げて息を吐き出している。
「お前達とは子供の頃から顔を合わせているが、一度も話した事がなかっただろう」
黙っているつもりはなかったけれど、ちゃんと話す機会を作れなくて悪かった、と少し俯き加減のノルの、翳りのある横顔を見つめて、リグレットはそっと彼の袖を引いた。
「ノル、聞かせて」
ちゃんと知りたい、と言って、きゅと唇を引き結ぶ。
グレイペコーとリグレットは、イヴルージュがそれぞれの境遇を互いに支障のない範囲で事情を教えてくれる事があったし、家族として接していく中でぽつぽつと話す事はあったが、ノルはそうではない。
ある日突然イヴルージュが家に連れてきてから頻繁に預けられてはいたけれど、そこに疑問を持つ事は殆どといっていいほどなかったし、それぞれに事情を抱えている身であったから、過去を聞く事が彼を傷付けるものであるかもしれない、と深く聞いてはこなかったのだ。
それに、ノルは出会った時から身体が弱く病気がちで、グラウカや周りの者が逐一体調を確認したり面倒を見ていなければならなかった。だからきっと、知らぬ間に庇護の対象として見ていたのだろう。
気にした事もなかった、とぽつりと呟いたグレイペコーは、孤児院で自分より幼い子供達の面倒を率先して見ていたというから、余計にそう感じているに違いない。
その様子に、ノルは微かに苦笑いを浮かべている。
「どこで生まれたのか、どこで育ったのかも、わかっていない。ただ、気がついた時にはあの森で彷徨っていて、どうにか二区へ辿り着いた所で、グラウカ先生と局長に助け出して貰ったんだ」
二人に助け出された時には、あまりにも酷い状態だったらしい。
ブルーブロッサムの毒素を長く取り込み過ぎた事で、自力で呼吸をするのがやっとの状態で、その上、身体中を切り刻まれ叩き潰されてしまうような強い痛みに苛まれ続けて、泣くどころか声を上げる事さえ出来なかったという。
幼い頃からノルの面倒を見ていたグレイペコーは思う所があるのだろう、眉を顰め、視線を地面へと俯かせている。
「……ねえ、もしかしてノルのその体質って、ブルーブロッサムの毒素の影響なの?」
少し戸惑うように、言い難そうにグレイペコーがそう聞くので、リグレットはぱっと顔を上げてノルを見た。
言われてみれば、ノルの不調は毒素を大量に取り込んだ時の症状に少し似ている。
二人の視線を受けたノルは少し首を傾けて、それから、小さく頷いた。
「グラウカ先生が言うには、大量に毒素を取り込んだ後遺症だろう、と。……抗体持ちだったから、どうにか助かっただけだろうな」
だから、ノルは人一倍森に入る事に危機感を抱いていて、時間を厳守するように何度も注意していたのだろう。
いつだったか、森の奥深くを冷たい眼差しで見つめていた事があったけれど、それは、そういった事情を抱えていたからかもしれない。
「俺が抗体持ちだったというだけで、あの二人は得体の知れない自分を此処で生きていけるよう、働けるよう、手を尽くしてくれたんだ」
「けど、それは……、ノルは子供だったし、何より、身体が弱かったでしょう? 昔からボク達と一緒にいたけれど、一度だって危害を加えるような真似はしなかったし……」
言いながら、グレイペコーはどんどん声を萎縮させてしまう。
反論をしようと思っても、どうしても発言がノルの擁護をするものになってしまうのを自覚しているのだろう。
「だからといって、絶対に危険がなかったとは言えないだろう」
今回の犯人だって虐待を受けていた子供だ、と言われて、グレイペコーは口を噤んでしまっていた。
「俺の時と同じだから、今回の事に目を瞑れというわけじゃない。リグレットが傷つけられた事は絶対に許せる事ではないし、俺だってグレイペコーと同じで、あの犯人を伝言局に入れるのは、反対するべきだと思ってる」
そう言ってノルが見つめてくるので、何故だか無性に恥ずかしさが込み上げてきて、リグレットは誤魔化すように膝を抱えてそこへ頰を押し付けた。
大きな手のひらが頭を撫でていて、その仕草が、いつもならそんな事をしないくせに、したとしてもぞんざいなくせに、この時ばかりは酷く優しいのが、余計に落ち着かなかった。
「ただ、局長にも何か考えがあるんだろう。自分の利益だけで動く人じゃないし、何らかの裏付けがあってあの犯人に脅威がない事は確認出来ている筈だ」
「わかってる。でも、それを言ってくれないから余計に腹が立ってるんだよ」
「今回はこれ以上お前達を巻き込まない為に、わざと突き放したような態度を取っているように見えた。それだけお前達が大切なんだろう」
変なところで不器用な人だしな、とノルが珍しく柔らかな声で言うので、リグレットはそっと顔を上げて、小さく頷いた。
ノルが静かにゆっくりと諭しているからか、グレイペコーも少しずつ落ち着いてきたらしい、瞬きを繰り返して地面を見つめている。
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