第40話 マグノリア、どうか笑って

 黙り込んでしまった二人の間で膝を抱えていたリグレットは、静かに呼吸を繰り返して、ブーツに包まれた自らの足を見下ろした。

 先の事件での傷は残っているし、ガーゼや包帯も暫くは外せそうにない。

 ブーツもよく見れば端が少し擦れてしまったり、汚れが残っている所もあるけれど、リグレットが気付かない間にグレイペコーが手入れをしてくれたようで、事件の翌日には然程目立たないよう綺麗に整えられていた。

 そっとブーツについたリボンに触れると、リグレットは緩やかに瞬きを繰り返して、顔を上げた。


「私、信じてみたいな」


 リグレットの言葉に、グレイペコーは驚いた顔をしていて、ノルはどこかそれが予想出来ていたようで、目を伏せて小さく息を吐き出している。


「信じるって……、あの犯人の事?」

「うん」

「本気で言ってるの?」


 どうしてそんな事を、と言わんばかりのグレイペコーに苦笑いを浮かべて、「勿論、怖かったし痛かったし、もうあんな事されるのは絶対に嫌だよ」と前置きをして、リグレットは抱えた膝からそっと手を離した。

 あたたまっていた身体が外気に触れて、少し、冷たい。


「でも、ノルが言ったように、マザーがペコー達の反対を押し切ってまでそうしたいって事は、何か理由があるんだと思うんだ。マザーはいつも私やペコーの事をとても大事にしてくれてるし、それは絶対に嘘じゃないって分かるから」


 そう言って言葉を一度切ると、リグレットは胸元を両手でぎゅうと握り締める。


「寧ろ、私達の為にそうしなきゃいけなかったのかもしれないし……」


 ノルが言ったように、イヴルージュは変に不器用な所があって、そうした時は、大抵が自分達——子供達に関わる事だと決まっている。

 彼女自ら腹を痛めて産んだわけでもないのだから、多少の齟齬があるのは仕方のない事なのかもしれない。

 けれど、彼女は彼女なりに愛してくれているし、だからこそ、家の中や家族といられる間はいつも安心していられるのだと、リグレットは知っているし、理解している。


「それに、犯人の人も、ヴァニラさんが庇うくらいだから何か事情があるんだと思う。あの人、私と同じくらいの年齢なのに、言葉が全然わからないみたいだったの。迷子の子供みたいに怖がってた」


 ヴァニラは以前、規則を破った自分を優しく諭してくれたのだ。

 自分のした事を、それでも、勇気と優しさだと、言ってくれた。

 他の誰かを傷付けない方法を考えようと教えてくれたのは、他でもないヴァニラだ。

 森で襲われた時、犯人の少年は、そんなヴァニラの事を話した瞬間に、まるで叱られた子供のように、泣き出しそうな顔をしていたのを、リグレットは思い出す。

 だから、彼女と彼には、周囲にはわからない事情があるのかもしれない。


「それが演技の可能性だってあるんだよ?」


 不安そうにそう問いかけるグレイペコーは、揺れる赤い瞳を地面に向けて、唇を噛み締めている。

 握り締めた手が白くなっているのを見て、リグレットは安心させるように、その手に自分のそれを重ねた。

 ひんやりとして冷たい手が、少しでもあたたまるよう、自分の体温が気持ちごとが伝わるよう、願いながら。


「でも、普段だって誰かと一緒に暮らしたり、仕事をしたりするのって、どうしても疑いたくなったり、納得いかない所もあるよ。傷つく事も傷つけられる事だって絶対にある」


 伝言局の中で働いていたって、外を歩いていたって、それは必ず起こる事だ。

 理不尽な怒りに触れた時、自分がした事に注意をされた時、悪意を持って傷つけられ、笑われてしまった時……、どんなに清廉潔白に生きていたとしても、人は本当の意味で一人で生きていく事は難しいし、誰かと関わりを持たなければいけない。

 そして、関わりがあればある程に、傷つく事も増えていくのだ、悲しい事に。


「確かに何度も傷つけられたら嫌だけど……だけど、そうやって少しずつ嫌だって言って色んなものを遠ざけてたら、いつか全部信じられなくなって、ひとりぼっちになっちゃう気がするから」


 だから、私は、信じてみたいの。

 リグレットは目蓋を閉じてそう言った。

 信じた上で裏切られたのなら、それはそれで、自分を構成する一つとして、受け入れていくだけ。

 それはきっと利口な生き方ではない、というのは、リグレット自身、よく理解している。

 それでも、どんな傷だって、自分が生きてきた証拠だと思うから。

 グレイペコーはリグレットの言葉を静かに聞いていたが、震える息を吐き出すと、大丈夫だよ、と悲しそうな顔をして、優しく抱き締めてくれる。


「リグレットはそうやって考えられる子だから、ひとりぼっちにはならないし、ボクも皆も、そんな事はしないよ」


 ふわりと鼻先を擽る優しい茉莉花の香りに、リグレットは幼かった頃からこの香りに守られていたのだろう、と今更ながらに実感してしまう。

 家族や周囲の人に、こんなふうに愛されて、守られていた、という事。

 だからこそ、信じてみたい、と思えたのだろう。

 ノルに視線を向ければ、彼も小さく頷いてくれているので、リグレットはそっと笑みを浮かべていた。


「何だか、こうなるとボクだけが聞き分けのない子供みたいになってない?」


 はあ、と大きく息を吐き出して呆れたようにグレイペコーが呟くので、抱き締めてくれる腕に頰を押し付けたリグレットは、ふふ、と吐息混じりに笑ってしまう。


「ペコーは聞き分けが良すぎるって前からマザーがよく言ってたよ」

「あんな啖呵切っておきながら、お前達が出て行った後ずっとおろおろしていたからな。どっちかというとあの人の方が子供だと思うが」

「はあ? もう、何それ」


 呆れた顔でリグレットの頭に頰を押し付けたグレイペコーは、本当にしようがないなあ、と呟いて、困ったように笑っていた。



 *



「おう、おかえり」


 帰宅するなり、イヴルージュはそう言って、キッチンから顔を出していた。

 局長はさっさと帰らせたから早めに仲直りをしてくれると助かる、と事前にノルから言われていたので、家にいる事は想像がついたけれど、まさか帰宅早々顔を合わせるとは思わなかった、と二人の間に挟まれる形になったリグレットはおろおろとそれぞれの顔を交互に見た。


「……何してるの」

「ペコーの好物を作ってたんだよ」


 グレイペコーの問いかけに、イヴルージュは少し居心地悪そうに視線を背けながらキッチンへ戻り、鍋の中身をかき混ぜていて、その匂いに気がついたリグレットは、同じくそれに気づいたらしいグレイペコーと顔を見合わせてしまう。

 まろやかなその香りは、バタタと呼ばれる甘さがあってホクホクした芋と鶏肉や玉ねぎがたっぷり入った、クリームシチューだ。

 イヴルージュは料理があまり得意ではなく、家事全般に対する能力が著しく低いので、孤児院育ちで幼い頃から掃除や洗濯、料理などの作業を叩き込まれていたグレイペコーがいなければ、この家の平穏は保たれていなかったかもしれない、とリグレットが思う程である。

 だけれど、彼女はこのシチューだけはいつも誕生日のような特別な日に、必ず作ってくれるのだ。

 きっと、今回の件でどうにか仲違いしたままにならないよう、彼女なりに考えてきっかけを作ろうとしたのだろう。

 グレイペコーもそれを理解していて、申し訳なさそうに視線を地面に向けていたが、反発する気持ちが収まりきらないに違いない、ぎゅっと眉を寄せて顔を顰めている。


「今更ご機嫌取りしないで」

「ペコー……」


 宥めるようにリグレットが名前を呼ぶと、グレイペコーは途端に眉を下げて俯いてしまう。

 どうしたらいいのだろうかとリグレットがおろおろと周囲を見回していると、グレイペコーの声が、ぽつりぽつりと部屋の中に落ちている。


「何か言えない事情があるんだろうから、もう聞かないけど……、せめて、ボク達にだけは、事前に言って欲しかった」


 そう言って唇を噛み締めているグレイペコーの頭を、イヴルージュは静かに見つめてから抱き抱えるようにして引き寄せると、泣いている子供を宥めるように、髪に頬を押し付けて優しく撫でた。


「悪かったよ、ペコー」


 イヴルージュは目蓋を閉じ、ゆっくり形を確かめるように頭を撫でていて、小さく掠れた声で、ごめんな、と呟いている。

 彼女がこんな弱々しい声を出して謝る姿など、きっと、家族以外に知る人はいないだろう、とリグレットは思い、ようやくほっとして小さく笑みを浮かべた。

 グレイペコーはすんと鼻を鳴らすと、暫くじっと彼女の腕の中で大人しくしていたが、身動ぎをすると額をイヴルージュの肩に押し付けている。

 微かに見えた目元が僅かに赤くなっていたので、きっと気恥ずかしいのだろう。 


「あと、リグレットにはちゃんと謝って」


 グレイペコーのくぐもった声にリグレットが頭をことりと傾けると、イヴルージュはグレイペコーを離さないまま、片手で手招きをした。

 それを見たリグレットは嬉しさが込み上げてきて、何の躊躇もなく二人に抱き着くと、そのままぎゅうぎゅうと力を込めた。

 子供のじゃれ合いのような仕草に、誰ともなく笑い声が上がっていて。

 向かいにいるグレイペコーと目が合うと、少し困ったように、それでいて、少し照れくさそうに笑うので、リグレットはますます嬉しくなってしまう。


「リグレット、本当にごめんな」

「ううん。マザーがそうしたかったのは、何か理由があったんでしょう? 大丈夫だよ」


 リグレットが首を振って笑いかければ、イヴルージュはぱちぱちと瞬きをして、ふ、と柔らかく眼を細めている。


「お前が一番大人だね」


 意味が噛み砕けなくて首を傾けていると、グレイペコーが優しく頭を撫でながら「リグレットはいい子って事だよ」と教えてくれた。

 よく分からないけれど、褒めてくれている、という事なのだろう。

 えへへ、と笑うと、イヴルージュも赤い眼を細めて嬉しそうに頰を撫でてくれていた。


「イヴ。それと、もう一つ」

「ん?」

「キッチンの片付けだけは、絶対に自分でやってね」


 片付けまでするのが料理だからね、と荒れ放題のキッチンを横目で見て、グレイペコーは呆れたように溜息を吐き出している。

 芋や玉ねぎの皮はあちこちに散らかっているし、小麦粉は壁にまで飛び散っていて、床は水でびしゃびしゃだ。

 その惨状を改めて見たイヴルージュが、むう、と困ったような顔をするので、少しだけお手伝いするね、とリグレットはこっそり耳打ちする。

 グレイペコーも口ではああ言っているけれど、結局は見かねて手伝ってしまうという事など、もう分かっているのだ。


「はは、お前達は本当に可愛いなあ」


 いい子いい子、と両手でそれぞれの頭を撫でて笑うイヴルージュを見て、グレイペコーは「反省してよね」と不満そうにしながらも、安心したように笑うので。

 リグレットは笑みを重ねると、二人の間を繋ぐように、ぎゅうと抱き着いていた。

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