第41話 口ずさむステイゴールド
「テッサ、どう? 動きづらい所はない?」
「うん、へーき」
真新しい制服に袖を通したテッサは、そうは言いながらも顔をきょろきょろと動かして、自らの身体を見回している。
自分も初めて制服に袖を通した時は同じように落ち着かない気持ちでいたっけ、と思わず顔を綻ばせたヴァニラは、何とか捲ろうとしたのだろう、ぐちゃぐちゃになってしまった袖を、丁寧に伸ばしてから綺麗に捲り直してやった。
しっかりした生地で仕立てた服を着るのは初めてのようで、首周りを開けたり袖を捲ろうとしていたのは、きっと動きづらいからだろう。
きちんとした時は正しく着ようね、と言い聞かせながら、足元や裾、目立つ皺がないかなどをも確認してから顔を上げると、ヴァニラはそっと息を吐き出した。
金の縁取りが施された紺の制服は、柔らかに灯された明かりのような彼の髪色がよく映えていて、ボサボサだった髪も、テッサの負担にならない程度に様子を見ながら少しずつ切れるようになり、大分すっきりとしている。
何より、伝言局に来れるようになってから、彼自身安心しているのだろう、表情も明るくなり、年相応のあどけなさが表に出てくるようになっていた。
テッサは現在、軍の施設に保護されたまま、伝言局に通っていて、暫くの間は監視の目がつくとは言われているが、一定期間の保護観察が済んだ後に、ヴァニラの家で暮らせるよう申請している所だ。
特殊配達員は通常、伝言局には入る前に数ヶ月間研修を行い、一般常識を含めた伝言局で必要な知識を徹底的に叩き込まれるが、テッサの場合はそうはいかない。
此処へ来た経緯から、という事もあるけれど、文字の読み書きを始めとした、生活で必要な事から教えていかなければいけないからだ。
彼の教育は全てヴァニラが任されていて、その為に普段行っている仕事に支障が出てしまう事もあるけれど、それら全てはフィスカスが負担をしてくれていて、普段はのらりくらりとしてどこかに姿を消してしまう事も多々あったのだが、ここ最近は真面目に仕事をこなしている。
その事にヴァニラは申し訳なさを感じてしまっていたものの、相変わらず飄々としていて雲のように掴めない性格をしているので、小さく息を吐き出しながらも内心で感謝をしていたのだが、それはさておき。
「ねえ、テッサ。そのピアスは取らなくてもいいの?」
テッサの耳を覆うようにぎっしりつけられたたくさんのピアスを眺めながら、ヴァニラはそっと伺うように問いかける。
出会った時には首に嵌めていた首輪を頑なに取ろうとしなかったけれど、身柄を拘束され、ヴァニラと話が出来るようになってからは、あっさり外してしまっていたのだが、何故かピアスだけはずっと取ろうとはしなかったのだ。
彼の境遇を思うと、耳に触れる事自体が既に心的外傷となりえるのかもしれないと考えたヴァニラはずっと聞けずにいたのだけれど、髪を切ったりだとか、身体に触れる事自体は、事前に理由を話せば彼も納得するようで、怯えたり暴れたりはしない。
ピアスに関しても、嫌な思いをしていないのならヴァニラとしても何を言うつもりはないのだけれど、どうしても目に入ってしまう以上、気にはなってしまう。
問いかけに、テッサは耳につけた幾つものピアスにそっと指で触れると、困ったように眉を下げて、ふるふると首を振っている。
「これ、お姫さまの、トクベツの、
だから外したくないのだと、テッサは言う。
今まで聞いた事のなかった情報に、ヴァニラはぱちぱちと眼を瞬かせた。
お姫様の、特別な狼。
耳に穴を開けた人物達とは別に、ピアスをくれた人がいた、という事だろうか。
「そっか。大事なものなんだね」
過酷な生活を強いられていたテッサにとって、それは救いになっていたのかもしれない。
そう思うと、ヴァニラはほっと安堵の笑みを浮かべてしまう。
テッサもはにかむように笑うので、それならちゃんと手入れしないとね、とヴァニラは言って、思考を巡らせた。
テッサは長年薬物を投与させられていたせいで、医薬品などの効果を得られにくい体質だ。
細かい傷に雑菌が入らないようにきちんと消毒をしたり、手入れをしていなければいけないし、大事なものなら尚更だろう。
後で医務室へ相談に行ってみよう、とヴァニラが考えながら制服を入れていた紙袋を丁寧に畳んでいると、どこか戸惑うように、テッサが名前を呼んでいる。
「ヴァニラ」
「うん?」
「オレ、ばつ、する。いたい、を、したから」
突然の発言に、え、と声を漏らしたヴァニラは、慌てて首を振って、彼の手を取った。
手にしていた袋がばさりと音を立てて、床に落ちている。
「駄目だよ。それは、絶対に駄目。ここではそういう事はしちゃいけないの。それに、私はもう絶対に、テッサに傷付いて欲しくない……」
両手で握り締めた手のひらは、緊張のせいか強張っていて、酷く冷たい。
丸みを帯びた子供のような自分の手のひらとは違い、彼の手は骨張っていて、傷跡が幾つも付いている。
黒ずんで模様のようになった古い傷跡も、まだ赤みが残り瘡蓋が痛々しい新しい傷跡も、幾重にも折り重なるように身体中に残っているのを、ヴァニラはよく知っている。
それなのに、当たり前のように罰を受けるのだと彼は言うのだ。
みるみるうちに悲しくなって俯いていると、テッサが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……、ごめんなさい、言う、が、いい?」
一生懸命に言葉を探すように言うテッサを見上げてきて、ヴァニラはぱちぱちと紫の眼を瞬かせた。
子供達と接している時、悪い事をしたらごめんなさいを言うのだ、と言い聞かせていたから、それを覚えていたのかもしれない。
「テッサは、リグレットさんに怪我をさせた事を謝りたかったんだね」
「うん」
痛いのは嫌な事で、悪い事だと思うから、と、テッサは唇を引き結んで、悲しそうな顔をしている。
誰かの命令だから、と思考を停止せず、彼が彼自身の意思でそう思ってくれた事、彼なりに変わろうとしている事に、そっと安堵と嬉しさを覚えて、ヴァニラは小さく笑みを浮かべた。
握り締めていた手のひらは、自分の体温が移ったのか、ほんのりとあたたかさを取り戻している。
*
リグレットに何らかの形で謝罪が出来ないかと相談すると、フィスカスは少し考えて、机の引き出しから一枚のカードを取り出した。
それは、青い桜の模様が印刷された小さなメッセージカードだ。
「それならやっぱりこれじゃない? 伝言局ならでは、だろ?」
言いながら、フィスカスが指先で摘んだカードをひらひらと揺らすと、テッサの灰青の瞳は犬猫のようにその動きを興味深げに追っている。
「ですが、許可を出して貰えるでしょうか……」
テッサを伝言局で働かせると説明した際、グレイペコーが酷く反対していた事を思い出して、ヴァニラは肩を縮こませた。
あの後、一区のメンバーはあれ以上の反発はせず、普段通りに過ごしていると聞いてはいるが、この件はすぐにどうにかなる問題ではない事は、ヴァニラもよくわかっている。
信頼を築くという事はとてつもない時間がかかる事であるし、どんなに尽くしていても、相手がそれを返してくれるというわけではない。
わかっているからこそ、ただ、テッサが此処で皆に認めて貰えるように、支えていくしかないのだ。
わかってはいても、時折、酷く悲しい気持ちに襲われてしまう。
人間が個で分かたれたいきものである以上、どれだけ理解を求めたって、理解をしてくれる人とそうでない人がいるのだというのに。
自分勝手だな、と苦々しい面持ちでヴァニラが俯くと、テッサが心配そうに顔を覗き込んでくる。
無理矢理に笑顔を浮かべて、大丈夫だよ、と自らにも言い聞かせるようにヴァニラが言うと、フィスカスはカードを指で弄ぶようにしてくるりくるりと回している。
「んー、カードの内容は局長と一区のメンバーで精査して貰う事になるとは思うけど、謝罪をしたいっていう事なら、特に何も言わないと思うよ」
リグレットちゃんもそういうの嫌がらなそうだし、テッサの文字の勉強にもなって一石二鳥だし、何より仕事に関連するもので繋がりを持てるっていう経験も得られるし、いい事ずくめだ、とフィスカスが楽しそうに笑って言えば、テッサはことりと首を傾けている。
「かー、ど?」
「私達がここで働いてるのはね、このカードに込められた想いを、伝えたい相手に届ける為なの」
それが、私達がここにいる理由。
ヴァニラがそう告げると、テッサの目の前にはフィスカスが差し出したメッセージカードがあった。
灰青の瞳は真っ直ぐにそれを見つめると、指を伸ばしてカードを受け取っている。
「だから、テッサが伝えたい気持ちをこのカードに書いてみて。そうしたらきっと、リグレットさんの所へ届けられるから」
少しずつテッサの事を知ってもらうには、真っ直ぐに彼の気持ちを伝えられるには、確かにいい手段なのかもしれない。
テッサにとっても、リグレットのように他者を労われる気持ちを持つ人との交流を持つ事が出来たら、彼の見る世界はもっと広がっていくだろう。
これがいい機会となってくれたなら、とヴァニラが願うような気持ちでそう言えば、テッサはメッセージカードを見つめて、嬉しそうに頷いていた。
***
一区の伝言局にある中庭は狼達が普段過ごしている場所で、広さは十分に取られていて、日当たりもいい。
昼食をとった後、リグレットがキナコ達にブラッシングをしていると、不意に側にいたミゾレが尻尾を振って、裏口の方へと駆けていってしまう。
誰か局員が構いにきたのだろうか、と考えて立ち上がると、制服にはあちこち毛がついてしまっていた。
二匹とも毛色が白いので、紺色の制服では目立ってしまうから、後できちんと払っておかないといけないだろう。
ブラッシングで出た毛の量も、もう一匹くらい増えてしまいそうな程だ。
それでもブラッシングを終えた後のキナコの背中はとても艶々としていて、キナコ自身もどこか誇らしげにしているので、リグレットも嬉しくなってしまう。
制服についた毛を丁寧に払って、袋に入れて始末していると、ミゾレが尻尾を振って戻ってきたので、リグレットは顔を上げた。
中庭に入ってきたのはノルで、彼に気付いたキナコは耳をぴこんと動かして、嬉しそうに駆け寄っている。
「リグレット」
「ノル? どうしたの?」
首を傾げて問いかけると、彼はキナコの頭を撫でてから、目の前に小さな紙の束を差し出した。
それは、青い桜の模様が印刷された、小さなメッセージカードだ。
「これ、どうしたの?」
他の区画にカードのやり取りをするような知り合いのいないリグレットには、こんな枚数のカードが届いた事はない。
それなら、届け先が不明といった不備で届けられなかったものだろうか、と不思議に思ってノルを見上げると、彼はゆっくりと瞬きを繰り返してから、静かな声で教えてくれる。
「あの犯人の少年からだ」
その言葉に驚いて、リグレットはメッセージカードとノルを交互に見た。
事件以来、あの少年——テッサと顔を合わせた事はない。
そもそも、リグレットの担当は一区と二区の往復で、業務として三区には行く事はないのだし、鉢合わせしないよう徹底する、とイヴルージュにも言われてある。
もう伝言局で研修同様の指導を行っていると聞いてはいるが、接点がない上に、きっと周囲が気を遣って情報を止めているのだろう、それ以上の事を、リグレットは知らされてはいないのだ。
カードの内容は局長と精査した上で渡してもいいという事になったから、と言われて、リグレットはノルを見た。
「この事、ペコーは知ってるの?」
「勿論、事前に確認して貰ってある」
「そっか」
発端であるイヴルージュと、あれだけ反対していたノルやグレイペコーが問題がないとして手渡してくるのなら、二人にとっても支障の無い範囲の言葉が書かれているに違いない。
ノルが持つメッセージカードを見つめたリグレットは、一体何が書かれているのだろう、とぼんやりと思った。
それを何となく察したのか、ノルは小さく息を吐き出して、カードを持つ手を引っ込めている。
「お前が読みたくないのなら、こちらで処分をするが」
「ううん、読みたい。だって、私宛なんでしょう?」
大丈夫だよ、と金色の瞳を見上げて訴えると、僅かに眉間に皺を寄せながら、ノルはまた目の前にカードを差し出してくれた。
恐る恐るそれを受け取ると、上から古い順で揃えてあるから、とノルが言うので、リグレットはゆっくり息を整えてから、カードを一枚手に取って裏返した。
ケガをさせて、ごめんなさい。
カードの中央に書かれた言葉に、眼を離す事が出来なくて、リグレットはじっと見つめてしまう。
文字を覚えたばかりの子どもが書いたような、曲がりくねっていて定まらない筆跡。
カードの端々にはインクの汚れがあちこちについていて、一文字一文字にどれだけ時間をかけ、苦労したのかが見て取れるようだった。
きっと、一生懸命に書いたものなのだろう。
は、と思わず唇から息が零れて、安堵の気持ちがちゃんと足元まで落ちてい久野が、わかる。
じわりと湧いてくるのは、微笑ましいような、擽ったい気持ちで、リグレットは小さく頷くと、その後のカードを見た。
傷の具合はどうか、元気でいるかどうか、気に病んでいないかどうか。
ゆっくりと文字を一つ一つ確かめるように見つめて、また一枚、カードを捲る。
カードの最初と最後には、必ず謝罪の言葉が書かれている。
「ねえ、ノル。これって何かな?」
何かのマーク?
そう言ってノルに見せたのは、カードの隅っこに書かれた、謎の模様だ。
大きな丸の外側と内側に、黒い渦巻きのようなものが何個も書かれている。
ノルはそれを見ると、珍しく口元に手を当てて、ふ、と息を吐き出している。
「ああ、それは
「熊猫!」
熊猫は西の大陸にある大国で生息していると言われている、幻の動物だ。
白と黒の毛並みが特徴の熊に似た生き物で、実在するのかどうか未だに疑われている存在ではあるものの、その愛くるしい容姿は世界中を魅了しているそうで、子供の絵本にもよく登場している。
かくいうリグレットも、イヴルージュに買って貰った絵本に出てきた熊猫を見て以来すっかり心を奪われてしまい、一時期は家で熊猫を飼うなどと言ってグレイペコー達を困らせていた程だ。
見かねたノルの助言により、グレイペコーが作ってくれた熊猫のぬいぐるみは、未だに自室のベッドに置かれてあって、毎日一緒に眠っているのだが、それはさておき。
どこから聞いたのかは定かではないけれど、リグレットが熊猫好きらしいという情報を知ったテッサが、いつの間にかカードの隅に描くようになったそうだ。
改めてカードを見直してみると、確かに回を重ねる毎にだんだんと形がわかるようになってきて、かわいい、と思わず顔が綻んでしまう。
「その人……テッサ、だっけ。確か、三区で働いてるんだよね?」
「ああ。フィスカスやヴァニラからは、よく学び、よく働いていると聞いている」
ヴァニラの弟妹達も彼によく懐いているらしく、保護観察期間を終えればヴァニラの家で暮らせるように申請しているらしい。
「ねえ、ノル」
なんだ、と返すノルに、リグレットは少しだけ躊躇いながら、問いかける。
「私、返事を書いてもいいかな?」
ノルは瞬きを繰り返して押し黙ってしまうので、リグレットは不安になって、彼の顔を覗き込んだ。
「え、だめ?」
ノルは金色の瞳を地面に向けて暫く考え込んでいたが、やがて「あまり賛成はしないが」と気難しい顔をして腕を組んでいる。
「いや……、局長とグレイペコーに了承を得るべきだろうな、と」
また説得するのか、とノルは深々と溜息を吐き出しながら、眉間に皺を寄せているので、リグレットは嬉しくなって、思わず笑みを浮かべてしまう。
「一緒に説得してくれるの?」
「お前はそうしたいんだろう」
呆れたような顔をして、また一つ溜息を吐くノルに、ありがとう、とリグレットは頷いて、手にしていたメッセージカードを、両手で包むようにしてそっと握り締めていた。
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