第27話 鬼はきっと見つけてはくれないし、

「8—6—34、2—9—15、行くよ」


 青い桜の森の中を走り抜けながら、腰に取り付けていた小指程の大きさの銀の笛を外し、唇に運んだグレイペコーは言う。

 その仕草に、グレイペコーに追従していた狼達は、ぴんと立てた耳を震わせると、すぐに森の奥へと駆けて行った。


「人の家族を傷付けておいて、そう簡単に逃げられると思うなよ」


 赤い瞳を鋭く細めてそう低い声で呟いた、グレイペコーは笛に息を吹き込む。

 音は鳴らない。否、鳴ってはいるが、人間では聞き取れない音であり、それらは狼達を従わせる為にだけに響いている。

 その音を聞いた狼達は、リグレットを襲った犯人の匂いを確実に追跡し、あっという間に見つけてみせた。

 犯人の居場所を知らせているミゾレの鳴き声にすぐさま反応したグレイペコーが駆け付けると、木々が避けるようにして出来た開けた場所で、キナコが唸り声を上げて今にも少年に飛びかかろうと鋭い歯を剥き出しにして威嚇していた。

 黒服の少年は周囲に視線を忙しなく動かして再び逃亡を図ろうとしているが、グレイペコーに気がつくと、舌打ちを零して唇を噛み締めている。

 怒りで煮えたぎるような気持ちを冷静に受け止めながら、グレイペコーは笛に息を吹き込んだ。

 何度も、何度も、小刻みに。

 それは狼達の耳だけに届き、正確に送る命令だ。

 笛を唇に咥えたまま、グレイペコーはハンマーを握り直す。

 ふ、と銀色の笛に息を吹き込むと、狼達が勢いよく少年へと飛びかかった。

 腕や足に噛みつこうとした狼達を振り払うように暴れる少年に、グレイペコーは容赦なくハンマーを振り下ろす。

 狼達はそのタイミングを見計らったように周囲に散開し、少年は咄嗟の判断が間に合わなかったのだろう、頭を庇おうとした腕にハンマーが当たり、ぐ、と呻き声を上げていた。

 少年は灰青の眼でグレイペコーを鋭く睨みつけると、身体を捻って右足を振り払う。

 爪先で地面を蹴り、身体を引いてそれを避けたグレイペコーに、少年はそのまま勢いを失う事なく手にした大振りのナイフを突き出してくる。

 グレイペコーは手首を使ってハンマーを回し、ナイフの攻撃を弾くと、回転の勢いを保ったままハンマーを横に振り抜いた。

 飛び退くようにして直ぐ様距離を取った少年は、手を軽く振って握り直すと、再び突進するようにしてナイフを突き出してくる。

 森の中であっても鈍く光る銀のナイフをハンマーで薙ぎ払えば、甲高い金属音が辺りに反響していて、ぐんと背を低くした少年は、怯む事無く再び勢いをつけてナイフで切り付けてきた。

 グレイペコーは冷静に後ろに下がりながらそれを避け、間合いを広げると、ことりと首を傾ける。

 動きがやけに雑だ。

 的確に急所を狙ってくるものの、その動きはまともな訓練を受けていないような印象を受けるのだ。

 まるで、生きる為だけに獲物を狩る事を覚えた獣のような。

 だとしたなら、この少年は単独犯ではないのかもしれない。

 考えて、グレイペコーはハンマーの柄を握り直した。

 彼が抗体持ちであったとしても、森の近辺や外で襲われた者がいるという事実を踏まえると、高い門で塞がれた森の中へ自力で入るのは難しい筈だ。

 少年に協力する者がいるのか、組織的なものなのか……、わからないけれど、周囲を警戒する狼達の様子からして、この森に入り込んでいるのは彼一人の可能性が高いだろう。

 対峙する少年はまるで獣のように背を低くしてナイフを構え、灰青の瞳で鋭く睨みつけている。

 流石にもう逃げる気はないか、とグレイペコーは蔑むようにすっと眼を細めて、咥えていた笛を腰のベルトに付け直した。

 狼達は二人の周囲を警戒しながら歩き、様子を伺っている。

 グレイペコーは不快感を示すように、とん、とん、とブーツの爪先を地面に当て、握り締めていたハンマーを手首でくるりと回して受け止める。

 少年はゆっくりと呼吸を繰り返すと、再びグレイペコーに襲いかかった。

 ぐんと跳躍し上から振りかぶってくる腕を、グレイペコーは後ろへ飛び跳ねるようにして避ける。

 夜明け色の三つ編みが動きに合わせて跳ねるように背中で揺れ、右、左、と切りつけてくるナイフをハンマーの柄で防御し、横から蹴り付けてくる足を避けると、少年は振り向きざまに肘を当ててくる。

 その腕を払い退け、今度はグレイペコーが左脚を軸にして回転をかけて足を払うけれど、少年は反応よく飛び上がり、それを避けると地面に手をつき、回転をかけて蹴りを繰り出してくるが、グレイペコーはそれをハンマーで受け止め、薙ぎ払う。

 ハンマーでの重さのある攻撃で手が痺れてきたのか、少年の手が緩んだ瞬間、グレイペコーは腹部を狙ってハンマーを叩き込む。

 が、少年はそのままハンマーの頭を片腕で抱え込むようにして掴み、無理矢理に動きを封じようとしてくるので、グレイペコーは赤い瞳で鋭く相手を睨みつけた。

 きっと、力で無理矢理押さえ込もうとしているのだろう。

 考えたグレイペコーは、息を吐き出すと、ぱ、と手を離した。

 まさか手を離されるとまでは思わなかったのだろう、驚きから灰青の瞳が大きく瞬き、その身体は重心をぐらりと大きく傾けさせていて。

 ハンマーが少年の手から滑り落ち、地面へと落ちていく。

 その隙を見逃さないよう、腕と胸ぐらを掴んで少年の横に入り、しゃがむようにして内側に回り込むと、勢いよく投げ飛ばした。

 地面へと強く叩けられた少年は、その場で痛みに悶えながら、ぎゅうと身を守るようにして蹲っている。

 少し離れた場所に放られてしまったハンマーを拾い上げたグレイペコーは、ハンマーを一度だけくるりと手首で回すと、ゆっくりと少年へと近付いた。

 ぐ、と声を漏らし、ふらつきながらもそれでもなお立ちあがろうとする少年に、グレイペコーは容赦なくハンマーを横薙ぎに叩きつける。

 まともにハンマーが腹部にめり込み、少年は声を上げる事も出来ずに、力無くその場に崩れ落ちている。

 肋骨辺りを折っている可能性はなくはないけれど、人を襲っておいてタダで済むとは思っていないだろう、とグレイペコーは吐き捨てるように息を吐き出した。

 周囲を警戒していたキナコとミゾレは、すぐさま低い姿勢を保って少年の側に近付いていき、鼻先を近付けて意識を失っている事を確認すると、それを知らせる為、グレイペコーに向かって一度だけ吠えている。

 グレイペコーは上がっていた息を整えながら、腰に下げていた鞄からロープを取り出して、少年の手足をきつく縛り、動けないよう固定した。

 ロープが解けない事をしっかりと確認してから、ふう、と息を吐き出して周囲を見回すと、邪魔にならないよう適度に距離をとってきちんとおすわりをしている二匹の狼が、まんまるの目で見上げていて。


「キナコ、ミゾレ。一緒に戦ってくれてありがとう」


 いい子だね、と耳の後ろを柔く撫でてやると、二匹は嬉しそうに尻尾を振って擦り寄ってくる。

 思わず吐息混じりの笑みが零れるけれど、それもすぐに消えてしまい、グレイペコーはどうしたものかな、と呟いて、地面に転がった少年を眺めた。

 フードから覗く顔立ちは、リグレットと変わらないような年齢であるように見える。

 首には頑丈そうな首輪が嵌められ、まるで何者かに飼われているかのよう。

 それに、何より異質なのは、と考えて、グレイペコーは眉を寄せてしゃがみ込むと、少年の頭をぐっと掴んだ。

 動きに合わせて首輪に付けられた鎖が、ちゃり、と音を鳴らしている。

 何処からどう見ても、間違いようがない。

 その事に、嫌な予感が胸中に膨れ上がっていく。

 少年のその橙の髪は、うっすらと青色に染まっていた、から。

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