第28話 扉の前でいつも膝を抱えているの

 ゆっくりと眼を開くと、視線の先に見慣れない天井があった。

 頭がぼんやりとしていて上手く状況が認識出来ず、リグレットは虚ろになった青眼で周囲を見回そうとして、止めた。

 ぐらりぐらりと世界が回っているのか、それとも自分が回っているのか……、わからないけれど、酷い目眩を感じて、眼を開ける事が辛い。

 思わず眉間に皺を寄せると、鼻先を擽ったのは、柔らかな石鹸と苦い消毒液の匂い。

 医務室の匂いだ、とリグレットが思い、ほ、と息を吐き出すと、冷たい手のひらが骨に沿うようにゆっくりと額を撫でてくれている。


「目が覚めたか」

「……、ノル?」


 ぱち、とリグレットが目蓋を開ければ、やはりここは伝言局の中にある医務室らしい。

 カーテンで仕切られた奥に設置されているベッドに寝かせられていたようで、今まで医務室には何度も訪れていたけれど、ベッドで寝ない限り天井なんて気にしないだろうからなあ、などと思いながらリグレットが声のする方へと顔を向けると、枕にかけられた柔らかい真白のカバーが頬に優しく触れた。

 側に置かれた木製の椅子にはノルが腰掛けていて、その手には分厚い書類の束がある。

 おそらく、ここで様子を見ながら仕事をしていたのだろう。

 ゆっくりと瞬きをすれば目蓋が熱を持ってひりついていて、次いで襲いかかってくるかのような目眩が静まるのをリグレットはじっと待った。

 ノルは頰にかかっていた髪を指先でそっと避けてくれていて、冷たくてひんやりとするその指先が心地良くて、思わず手を掴もうとすると、わかっていたかのようにさっと離れていってしまう。

 むう、とむくれて見上げれば「身体は痛くないか」と問いかけられ、その瞬間、これまでに起きたことを一気に思い出したリグレットは、がばりと勢い良く身体を起こした。


「ノル、身体は平気? ペコーはどこ? キナコは無事?」


 矢継ぎ早に質問を投げかけながら、無理矢理起き上がった事で酷い目眩が起こり、それと同時に身体のあちこちから強い痛みを感じて、リグレットはぎゅうと自分自身を抱き締めるようにして身を縮こませる。

 ノルはその様子を見て大袈裟な程に息を吐き出すと、リグレットの背中にそっと手を当てて近場に置いてあったクッションをあてがい、そこに寄りかからせてくれていた。


「お前はどうしてそう、他の心配ばかり……」


 言いながら、まあいい、などとさっさと自己完結してしまったノルは、リグレットが意識を失った後の事を簡単に教えてくれた。

 グレイペコーは犯人の少年を確保した後、軍へ引き渡しをして、調書作成の為に聞き取りをされているらしい。

 ノルはリグレットを抱えて狼達と一緒に伝言局に戻ってきて、各部署に連絡をしてから検査などをし、此処で休みながら仕事をしていた、という事だった。

 そもそも怪我らしい怪我をしているのはお前だけだぞ、と言われ、よくよく身体を見下ろしたり触れたりしてみると、頰には大きなガーゼ、お腹には湿布がしっかり貼られているし、手足にも綺麗に包帯が巻かれている。

 身体を少し動かすと皮膚が引き攣るような痛みがあって、きっとお風呂に入る時は痛いだろうなあ、とリグレットはしょんぼりとしながらノルを見た。

 森に入るノルを見たのはあれが初めての事だったが、今見た限りでは顔色も悪くはないし、寧ろ、いつもより血色が良いようにさえ感じられる。

 普段あれだけ森に入る事について人一倍気をつけるように言っているのに、その様子は何だか不思議に思えて、長い睫毛の先を見つめてしまっていると、ノルは呆れたように溜息を吐き出して、そっと頭を撫でてくれていた。


「ノル、森に入っても大丈夫だったんだね」


 問いかけに、ノルは瞬きを繰り返して、そっと視線を書類へと向けている。


「この制服はその為に着用しているんだが」

「そうだけど……、ノル、ただでさえ身体弱いのに、森に入ったらもっと具合悪くなりそうだから」


 言っている内に心配になってきてしまったリグレットが顔を覗き込もうとすると、ノルは眉間に皺を寄せて顔を背けてしまっていた。

 病弱である事を指摘されたのが嫌なのだろうが、彼の体質を知っている側としては、どうしても心配になってしまうのは仕方のない事だろう。

 それに、心配しているのだから別に怒らなくたっていいのに、とリグレットがふくりと頰を膨らませて不満を露わにすれば、ノルはまた呆れたような表情で溜息を吐き出している。


「俺はグラウカ先生に診て貰ったし、グレイペコーも8—6—34と2—9—15も無事だ。お前以外誰も怪我はしていない。心配するな」

「8—6—34と2—9—15じゃなくて、キナコとミゾレだよ」

「わかったから、大人しく寝てろ」


 そう言ってノルがぞんざいに頭を撫でるので、リグレットは渋々引き下がり、窓の外を見た。

 あんな事があったというのに景色はいつもと何ら変わらず、遠くから少し騒がしい声が聞こえていて、時間を聞けばもうじき昼を回る頃だという。

 襲われたのは配達の帰りだった筈なので、随分と寝ていたのだな、とリグレットは思い、知らず胸元を握り締めてしまう。

 皆が無事で、自分も無事で、それなら何も憂う事はない筈、なのに。


「ノル、あのね」


 ごめんなさい、と言おうとした所で、ノルが頭をぞんざいに撫でてきて、それを遮ってくる。

 きっと、謝る必要はない、と言いたいのだろう。

 けれど、それでも、何か言わなくては、とリグレットは逸る気持ちのまま手を伸ばしてしまう。

 それは、また迷惑をかけてしまった事に対する罪悪感からか、襲われた事で心細くなっているだけなのか……、それとも、単に彼に側から離れて欲しくなかったから、だろうか。

 ぼんやりとした思考回路では自分の気持ちさえよくわからなくなってしまって、絡まってぐちゃぐちゃになってしまう。

 ノルは珍しく困ったように眉を下げると、リグレットが伸ばした指先を、すぐにでも振り解けそうな程の微かな力で軽く握った。

 ひんやりとしていて、乾いていて、自分よりも柔らかさを感じない皮膚と冷たい体温。


「先生を呼んでくる」


 緩やかに指を離したノルは、そう言ってベッドから離れて仕切りにしているカーテンを開けると、医務室から出て行ってしまっていた。

 ノルはこうした時、手を握っていてくれたり、大丈夫とは絶対に言ってはくれない。

 リグレットは考えて、口先を尖らせて、ずるずるとベッドの中へと身体を沈めていく。

 手を握ってくれていたり大丈夫とは言わないのに、それなのに、頭を撫でてくれるし、淋しくて伸ばした指先を、そっと握ってはくれる、のだ。

 中途半端で、宙ぶらりんで、それなのに、彼の不器用な優しさは、ふわりと身体中にやわらかに広がっていくみたいで、いつの間にか頰に熱がこもっていく。

 ちゃんと形にさせたいと思うのにはっきりとしなくて、そのくせ、それに気付いてはいけないような、曖昧で不思議な気持ちに、リグレットは戸惑ってしまう。

 もう、よくわかんない。

 リグレットは頭からシーツを被ると、不確かな気持ちと身体の痛みを抱えるように、ベッドの中で丸くなっていた。

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