第29話 迷子にはスプリンクルの魔法を

「腹部の方は湿布を貼って暫く様子を見て、痛みが酷いようなら追加で検査をしよう。手足の擦り傷の方は広範囲だし、砂利が入り込んで深く抉れている所もあるから、処方した薬を毎日しっかり塗るんだよ」


 医務室の奥に設置されたベッドの隣、カルテを片手にそう言ったグラウカに、ありがとうございます、とリグレットは頭を下げた。

 ベッド脇に設置されたサイドテーブルの上には、処方された塗り薬や湿布薬などが詰め込まれた紙袋が置かれている。

 幼い頃こそ転んだりしてよく怪我をしていたものだが、この年齢になると流石にそういった事も少なくなったので、何だか子供の頃に戻ったみたいだ、とリグレットは密やかに思った。

 ノルは仕事に戻ってしまったようで、グラウカに様子を聞いてみても、彼の言った通りに体調は全く問題ないと言われてしまっている。

 誰よりも長くノルの症状と向き合ってきたグラウカがそう言うのなら、きっと大丈夫なのだろうけれど、と、そうは思いながらも、リグレットは聞かずにはいられない。


「先生、ノルって森に入っても大丈夫なんですか?」


 グラウカは眼鏡の向こうにある眼を瞬かせると、はは、と困ったように笑っている。


「何を言ってるんだい。ノルがあの制服を着てるのは、あの子が抗体持ちで特殊配達員だからじゃないか」


 勿論、具合が悪い時や長期間の活動は許可をしてやれないが、と付け足して、カルテを膝の上に置いたグラウカは視線を俯かせた。

 入局した時には既にノルは副局長になっていたので、リグレットとしてはとても違和感があるのだけれど、周囲の人間にとってはその認識こそ普通の事なのだろう。


「そうなんだけど……、ノルが森に入った所を見た事がなかったから」

「まあ、副局長の仕事で忙しいし、あの子の場合は体調面もあるからね。私としてもそうそう許可を出せないな。だが、本来はリグレット達と同じように仕事をしている筈だよ」


 ふうん、と言いながら、リグレットはベッドの上で膝を抱えて、ぱたりぱたりと爪先を上下させた。

 ノルが同じように仕事をしていたとしたら、いつも彼が言うように、それは命の危険と引き換えにして行われているのかもしれない。

 毒素の影響をほぼ受けないリグレットには、その苦痛は理解しようがないけれど、彼にとっては伝言局の中で過ごす事が出来る現状が一番いい環境なのだろう。

 グラウカは少し呆れたように息を吐き出して、のんびりと笑みを浮かべている。


「そのノルが私に許可を貰わずに森へ入ってしまったんだ。それだけリグレットが心配だったんだろう」

「えっ、そうなんですか?」


 ノルは誰よりも、規則や決まりに厳しい筈なのに。

 何より、幼い頃から医師として診ていてくれているグラウカの言葉を、無視するような事はしないだろう。

 リグレットが驚いてそう聞くと、グラウカは困ったように眉を下げて笑っていて。


「そうだよ。あの子は滅多にそんな事をする子じゃあない。だから、ノルにとっては余程の事だったんだろうね」

「そう、なんだ……」


 言いながら、リグレットは照れ臭さから思わず顔を隠すように、頰を膝に軽く押し当てた。

 ひりと頬が痛んで、膝を抱える手のひらは引き攣るような感覚がするけれど、それは顔全体にじわじわと帯びてくる熱に遮られてしまう。

 だって、ノルまで来てくれるとは思わなかった、から。

 先程のぐるぐるした気持ちを思い出してしまいそうで、リグレットが困っていると、ノックの音がした。

 仕切りのカーテンは開け放たれているので、扉が開けば誰が入ってきたかはすぐにわかった。


「先生、リグレットは……」

「ペコー!」


 ぱっと顔を上げて名前を呼べば、グレイペコーは安堵したように息を吐き出して、くたびれた笑みを浮かべている。

 調書を作成する為に話をしていると言っていたので、きっと疲れているのだろう。

 リグレットが心配になっていると、グラウカに頭を下げたグレイペコーは、近くまで歩み寄ってそっと頭を撫でてくれた。


「ペコー、怪我してない? 平気?」

「ボクは何ともないし、リグレットの方が心配だよ。顔にまで怪我しているし」

「でも、もう痛くないよ。薬も貰ったから大丈夫!」


 言いながら、触れた手がとても冷たくて、それが外気だけのせいではないのがわかって、リグレットはグレイペコーの腕に抱きつくと、わざとぎゅうぎゅうと力を込めた。

 森の中で襲われた時、とてつもなく怖かったのは確かなのだけれど、自分が襲われた事で、周囲の人達が苦しそうにしていたり悲しそうにしている方が、もっとずっと辛い、とリグレットは思う。

 だから、とリグレットがいつものように甘えてふざけているように振る舞っていると、かわいい甘えんぼさん、と吐息混じりの笑い声が聞こえている。

 ほっとして顔を見上げようとするけれど、頭の上にそっと頰を押し付けられているようで、動くことがままならず、リグレットはただ視線を俯かせて、自分の指先をじっと見つめた。


「あのね、リグレット」

「うん?」

「後で、リグレットも事情を詳しく聞かれる……と、思う」


 掠れた声が頭上から静かに降ってきていて、今グレイペコーがどんな顔をしているのか、見なくともはっきりとわかってしまった。


 「大丈夫だよ。ペコー達が助けに来てくれたから、もう怖くないもん」


 腕に力を込めて身体を離すと、そう、と呟いたグレイペコーは予想通り、悲しそうな顔で笑っている。

 きっと、事件の事を掘り返されて、また怖い思いをするのでは、と危惧しているのだろう。

 その思いを払拭させるように、リグレットはもう一度「大丈夫だよ」とにっこり笑って見せた。

 それを見たグレイペコーはそっと息を吐き出すと、戸惑うようにグラウカへ視線を向けている。


「あ、の……、グラウカ先生」

「うん?」

「森での事件の事、ですけど……」


 グレイペコーにしては歯切れのよくない話し方に、リグレットは首をことりと傾けた。

 グレイペコーが犯人を捕まえた、という事は、犯人の少年と接触した際、何か情報を得ているのかもしれない。

 二人を交互に見ながら、リグレットは自然とシーツを握り締めてしまう。


「ああ、森の中で襲われた、と聞いているが」

「はい。犯人は、リグレットくらいの年齢の少年でした」

「登録されていない抗体持ちか……。そんな人物が森で特殊配達員を襲うだなんて、前代未聞だな」

「登録されてない抗体持ちなんているんですか?」


 驚いたリグレットが聞くと、グラウカは眼鏡を指で押し上げながら、静かに頷いている。


「ああ、だが、ほぼ稀な事だよ。通常なら出生時に検査を行うが、三区のスラム街辺りでは出生届けを出さずに産んだ赤ん坊を放置する事すらあるらしいからね」

「抗体持ちだったら特殊配達員になれるのに?」


 特殊配達員として働いたなら、相応の給与が支払われるのだ。

 それが分かっているならば、子供を放置をしたいとは思わないのではないか。

 考えて、リグレットが問いかければ、グラウカは頭を緩やかに横に振っていた。


「目の前の生活がままならない者もいるし、いくら国が多額の給与を支給していても、特殊配達員の仕事は強制労働だと批判する人だっているんだよ」


 悲しそうに眼鏡の奥の目を細めるグラウカは、「ただ、いくら抗体持ちだからといって、そう簡単に森には入れない筈なんだが……」と、唸るように呟いてから、口を引き結んだ。

 グラウカが言う通り、ブルーブロッサムの森は国が管理をしている。

 毒素を取り込んだ量によっては死に至る可能性があるので、特に出入りをする門の施錠と鍵の管理に関しては、厳しい取り決めがある。

 だからこそ、森の中では襲われない、とリグレットは思っていたし、誰もがそう考えるだろう。

 犯人の少年は、ヴァニラの名前を出してから、明らかにそれまでとは違う、迷子の子供のような表情をしていた。

 それに、何故かヴァニラのハンカチを持っていて、尚且つ、それをとても大切そうに握り締めていた、のだ。

 少年とヴァニラに何らかの関係があるのは確かだけれど、もし、その事を自分が周囲に言ってしまったら、ヴァニラは一体、どうなってしまうのだろう。

 爪先からだんだんと体温が奪われていくように怖くなって、胸元を握り締めると、リグレットは視界に映った光景に青眼を瞬かせた。

 ベッド脇に置かれた椅子に座るグレイペコーが、膝の上に乗せた手のひらを強く握り締めている。

 指先が微かに震えているように見えて、思わず見上げたその横顔は、緊張感で張り詰めているようで、いつもより青白く見えた。


「……、先生。一般人が一時的に抗体を持つ、というのは可能な事ですか?」


 グラウカは驚いた顔をしたまま絶句して、それから、力なく頭を振りながら、そんなまさか、と絞り出すような声で、呟いた。


「なくはないかもしれないが……、難しいだろう。君達のような抗体持ちでさえ、ブルーブロッサムの毒素に脅かされているのが現状なんだ。一般人が到底耐えられる筈がない」

「そう、ですよね……」


 グレイペコーの発言にまだ戸惑っているらしい、グラウカは少し腰を浮かせるようにして、問いかける。


「まさか、その少年は抗体持ちではなかったのかい?」

「いえ、まだ結果までは聞いていなくて……。すみません、疲れてあれこれ考え過ぎているのかもしれないです」


 両手で口元を押さえて俯いた、グレイペコーは眉を顰め、顔を青ざめさせている。

 グレイペコーは犯人の少年を確保した、とノルは言っていた。

 だとしたなら、それに関する事で何か不安になるような情報を得てしまったのかもしれない。

 自分の中でじっと気持ちを押し殺してしまうような生き方をしてきたグレイペコーが、問い詰めた所でそれを吐き出す事はないだろうけれど、それでも、何もせずにいられなくて、思わずリグレットがそっとその背中を撫でた。

 は、と顔を上げたグレイペコーは、困ったように眉を下げて、それから、やっぱり視線を地面へと俯かせてしまっている。

 普段ならば直ぐに隠そうとする筈なのに、取り繕えなくなっていると言うなら、それだけグレイペコーは思い悩んでいるのだろう。


「グレイペコー、きっと君も疲れたのだろう。少しここで休みなさい」


 お茶でも淹れてこよう、と言って、グラウカは腰に手を当てて立ち上がる。

 診療机の側で丁寧にカルテをしまう姿を見て、それから、リグレットはグレイペコーの腕に額を押し付けた。


「ペコー、ごめんね」

「どうしてリグレットが謝るの。悪いのは襲ってきた犯人でしょう?」


 そうだけど、と答えながら、それでも上手く言葉が出て来なくて、リグレットはぎゅうと胸元を握り締める。

 もしも自分が襲われなかったら、ノルが無理に森に入る事も、グレイペコーがこんな風に思い悩む事もなかったかもしれない。

 それに、あの少年の狙いが自分だったとしたなら、それらは自分のせいで引き起こしてしまったのかもしれないのだ、余計に罪悪感は増してしまう。


「もう大丈夫だから。そんな不安な顔しないの。ね?」


 思考に深く沈み込んでいたせいで、逆に気遣われてしまったらしい。

 申し訳なさそうな顔で頭を撫でてくれるグレイペコーの表情を見て、リグレットは慌てて何か言わなくては、と顔を上げた。

 焦る気持ちから両手をぐっと握り締めた瞬間、くうう、と間抜けな音が医務室に響いていて。

 リグレットはぱちぱちと瞬きを繰り返して、音の出所を辿っていく。

 くうう、くうう、と続けて響いたその音が、自分のお腹から発せられた音だとリグレットが気付いた時には、隣で座るグレイペコーや、診療机の側で片付けをしていたグラウカまで、声を上げて笑っている。

 なんて緊張感のない……、そうリグレットは恥ずかしくて顔を両手で押さえてしまう。


「ふふ、安心したらお腹空いちゃったの?」


 じゃあ、キナコ達のおやつも買って、みんなでお昼ご飯美味しいものいっぱい食べようね、とグレイペコーがいつものように笑ってそう言うので、ほっと息を吐き出したリグレットも、同じように笑って元気よく頷いていた。

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