第30話 カーマインと三日月のヴィクセン

 フリルがついたスカートの裾をふわりと翻して、リグレットは軽やかな足取りで廊下の先を歩いている。

 未だ幼さが残る丸みを帯びた頰には大きなガーゼが貼られ、健やかに伸びた手足にはきっちりと包帯が巻かれていて、見ているだけでも痛々しい、とグレイペコーは思う。

 昼食を食べている間も、リグレットは狼達におやつを与えながらやけに元気そうに振る舞っていて、その様子が余計に痛ましさを浮き彫りにしているかのようだった。


「リグレット、本当に大丈夫?」

「うん! ご飯いっぱい食べてお腹いっぱいだし、キナコ達の顔見て安心したし、元気出てきた!」


 頰にかかった淡いピンクの髪をそっとどかし、ずれた帽子を整えてやると、リグレットは「ありがとう」と言ってにっこりと笑っている。

 森の中で見知らぬ少年に襲われ、あちこちに怪我をしているというのに、その表情は明るく、いつもよりはしゃいでいるように見える。

 その事に酷く罪悪感を覚えて、グレイペコーは緩く唇を噛んだ。

 リグレットは能天気そうに見えるけれど、案外周りの変化に敏感で、周囲が落ち込んだり悲しそうにしていると、自分がどう動いたらいつものように笑ってくれるのか、どうやったら重くなった空気を変えられるのかを考えて、わざと幼い言動をしたり、無理矢理元気そうに振る舞う時がある。

 きっと自分の様子がおかしいとわかっていて、そうしているのだろう。

 色々な事を考え過ぎて引き摺られそうになるのは自分の悪い癖だ、とわかってはいるものの、グレイペコーは不穏な気配を振り払いたくても振り払えきれずに、密やかに息を吐き出した。


 森で捕まえた犯人の少年は、橙の髪を深い青でうっすらと染まっていた。

 それはほんの僅かな時間で、まるで幻でも見ていたかのよう、で。

 この目ではっきりと見てるのだから間違いはないのだけれど、とグレイペコーはその事実を思い返して、揺れる睫毛に縁取られた赤眼をすっと細めた。

 青、という色は、この国では特別な意味を持つ色だ。

 王族だけに許された、特別な色。

 ブルーブロッサムと同じ、鮮やかな青。

 だからこそ、グレイペコーは調書を取る間も、それだけは絶対に口にはしなかった。

 否、出来る筈もない、それを口にしたなら、不敬罪でこっちが捕まりかねないのだから。


『王様が侍女だか庶民だかに手を出して出来た子供が、密かに国内で隠れて暮らしているんじゃないか、って』


 以前、フィスカスが言っていた事まで思い出してしまい、どうも思考がぐちゃぐちゃに掻き乱される。

 彼が言っていた事が真実だとしても、僅かな時間だけ髪が青に染まる、というのは、一体どういう事なのだろう。

 王族と関わりがあるのか、それとも別の何かなのか。

 それに、抗体持ちの特殊配達員達でさえ、森の中を行き来するには慎重に時間をかけて身体を慣らすのだ。

 あの少年のように、走り回って戦闘まで行う、という事は、普通ならば難しい筈だ。

 だからこそ、さまざまな可能性を考えてグラウカに問いかけたりもしたのだけれど、それすらも手がかりにはなりそうにない。

 それに、リグレットが無事であったから良かったものの、もしあのまま間に合わなければ一体どうなっていたのだろう。

 ノルが以前見せてくれた書類を見た限りでは、彼女ほど酷い怪我を負わされた者はいなかった。

 あの時、何かを探しているように感じたのは、狙いが判別つかなかったから。

 狙いがリグレットなのだとしたら、何故狙われなければいけなかったのか。その理由は未だにわからないままだ。

 それに、何より引っかかって仕方ないのは、と考えて、グレイペコーは肺の奥から空気を押し出すように息を吐き出した。

 国が厳重に管理している筈の森の中へ入り込む事が出来る、というのが、そもそもおかしいのだ。

 森の中へ入る為の鍵を持てるのは、その管理を任されている者達と、伝言局だけ。

 国の内部で良からぬ動きをしている者がいるのか、それとも、もしかしたら、もっと近くに……?

 行き着く先の思考を遮るように、グレイペコーはぎゅうと手のひらを強く握り締めた。

 皮膚に爪が食い込んで、痛みがじくりと広がっていく。

 どうしてこんな事に頭を悩ませなければいけないのだろう。

 とりあえず、次に会った時には余計な事を言ったフィスカスは蹴り飛ばさないと気が済みそうにない、などと物騒な事を考えたグレイペコーが溜息を吐き出すと、リグレットが顔を覗き込んでいて。


「それにね、仕事に集中してた方が、色々考えなくて済むでしょう?」


 だから、そんなに心配しなくて大丈夫だよ、と困ったように眉を下げて笑うリグレットに、グレイペコーは申し訳なく思って、その綺麗な丸みを描く頭を撫でた。

 ともかく、今は被害を受けたリグレットを気にかけてやる事が最優先だ。


「わかった。けど、絶対に無理しちゃ駄目だよ」

「はあい」


 元気よく返事をして、跳ねるようにして歩き出すリグレットの後ろを、苦笑いを浮かべてグレイペコーはついていく。

 時刻はお昼を少し過ぎた辺りではあるけれど、先程通りかかった食堂もまだ賑わいを失っていなかった。

 伝言局は朝から夕方まで受付業務を止める事はなく、その為、局員達は交代で昼休みを取っている。

 グレイペコーが入局するもっと前には食堂などなかったそうで、少ない休憩時間を削って街まで買いに行ったりだとか、事前に用意をしたりだとかしなければならなくて大変だった、と古くから勤めている局員から聞かされている。

 こうした食堂を作ったりだとか、各区画で単身働く局員の為の宿舎を建てたりだとか、そういった福利厚生を充実させたのはイヴルージュだそうで、それらが揃えられた今の環境で慣れているグレイペコーからしてみたら、それらは当然の権利としてあるべきではないのだろうか、とは思う程である。

 一体それまではどれだけ劣悪で過酷な環境だったのか、と古参の局員に聞く勇気は、けれど、流石にグレイペコーは持ち得ていない。

 二人で歩く廊下は柔らかな陽光に照らされていて、視界に差し込むような眩しさに眼を眇めると、カツン、と床を鳴らす高い音が響いた。

 音の出所を辿るようにして振り向くと、見えたのは、折れそうな程に華奢なヒールのアンクルストラップパンプス。

 視線を上向かせれば、ぴんと背を伸ばした身体が纏う豪奢な金の刺繍で彩られた真っ赤なドレスは、太腿が露わになる程の大胆なスリットが入っていて、陽光を弾く長い金の髪は綺麗に一つにまとめられている。

 自分と同じ色をした赤い瞳は、揺らぎを知らない真っ直ぐさで、前しか見つめていない。

 肩に羽織った紺色の制服を靡かせるようにして歩くその人——イヴルージュは、真っ赤な口紅で彩られた唇を、三日月のように綺麗な形に持ち上げた。


「グレイペコー、リグレット! 元気にしてたかい?」

「マザー!」

「おかえりなさい、イヴ」


 嬉しそうにはしゃいだ声を上げて駆け寄ったリグレットを抱き留めると、途端にイヴルージュは子供のような無邪気さで、リグレットの頭に頬を押し付けている。

 見た目こそ二十代半ばから三十代ほどにしか見えないが、実際の年齢はもっと上の筈だ。

 但し、その年齢をはっきりと聞いてはいけない、というのを、グレイペコーは過去の経験——大量の酒を買い込み次々と開けて水のようにぱかぱかと飲み続けながらべろべろになった挙句、朝を迎えるまで管を巻いていたのだ——から痛い程に知っている。

 彼女は手足や首や耳元に至るまで、大振りなアクセサリーを身につけているので、動作に合わせてじゃらじゃらと音が鳴っていて、それがまるで自身の存在を強調するようで、彼女らしい、とグレイペコーは微笑ましく思う。

 ある一点を除いては、だが。

 イヴルージュは嬉しそうに声を上げて笑うリグレットをぎゅうぎゅうと抱き締めていたけれど、頬に貼られたガーゼに気がつくと、そっと指先で触れていて。


「何だ、リグレット。ここ怪我してるじゃないか」

「えっと、ちょっと転んじゃった、っていうか……」


 えへ、と笑いながらもしどろもどろになって狼狽えるリグレットは、助けを求めてグレイペコーに視線を向けるが、イヴルージュは然程気にしていないような素振りで、おてんばもほどほどにしないと駄目だぞ、と笑いながら頭を撫でている。


「イヴ」

「ああ、少し待ってな。あいつらに挨拶だけしてくるから」


 何かあったの、と聞こうとしたグレイペコーをやんわりと遮って、イヴルージュは局員達の集まる食堂へ颯爽と足を向けた。

 わかっていてわざと避けたな、と思わず眉を顰めて溜息を吐き出すと、気づかわしげに見つめてくるリグレットが、ぎゅうとグレイペコーの服の裾を握り締めている。

 幼い頃からの、不安になった時に現れる、彼女の癖、だ。


「もう、相変わらずなんだから」


 呆れたように言って苦笑いを浮かべると、グレイペコーは彼女の頭をそっと撫でた。

 やはり森の中で襲われた事もあり、いつもより気持ちが不安定になっているのだろう。

 だからこそ、自分の中にある揺らいだ気持ちは、絶対に彼女に伝わらないようにしなければいけない。

 とにかく、今は何も気にしないようにしよう、と緩やかに頭を振って気持ちを切り替えると、リグレットの顔を覗き込んだ。

 本当に仕方ない人だね、と笑うと、リグレットも困ったように笑っている。


 イヴルージュは食堂へと颯爽と入っていくと、カツン、と高いヒールで床を鳴らした。

 騒がしかった食堂はたったそれだけであっという間に静まり返り、一斉に向けられた視線に臆する事など全くない彼女は、悪戯っぽく口端を持ち上げた。


「おーい、お前ら! 局長様が帰ってきたぞー!」


 よく通る声で、ただいま、と告げると、わっと人が集まってくる。

 やっと帰ってきた、と素直に喜んでいる者もいれば、暴君が帰ってきた、だの、さっさと引退しろ、だの、散々文句を吐いている者も少なくはないが、その誰もが皆、嬉しそうに笑っている。


「あっはっは! よーし、文句言った奴らは覚悟しとけよ。あたしはノルと違って優しくないからね! 滅茶苦茶働かせてやろうじゃないか!」


 えええ、と一部から笑い声と共にブーイングが聞こえるが、それがじゃれあいのようなものだと理解しているイヴルージュは、上機嫌にからからと笑ってそれを受け流している。

 じゃあな、と本当に挨拶だけを済ましてひらひらと手を振って戻ってきたイヴルージュは、満足げな顔をして食堂を出て廊下を進んでいくので、リグレットと一緒にその後をついていきながら、グレイペコーは問いかける。


「ねえ、イヴ。その髪はどうしたの?」


 出発前、イヴルージュの金色の髪は、腰まで届く程の長さのあったのだ。

 それが、髪を一つに纏める事で上手く誤魔化しているようだけれど、明らかに短さが変わっている。

 下ろせばリグレットと変わらない程度の長さか、肩より少し長いくらいかもしれない。

 丁寧に髪を手入れしていた筈の長い髪を、家を空けていた期間に何故切り落とす必要があったというのだろうか。


「何か、あったんでしょう?」


 追求しようとすると、きょとんと眼を丸くしていた彼女は、何故だか突然「あはは!」と身を捩らせて笑うので、グレイペコーは思わず溜息を吐き出してしまう。


「グレイペコー」


 名前を呼ばれて顔を上げれば、イヴルージュは子供扱いをするかのように慈しみの込めた眼で見つめると、そっと頭を撫でてくる。

 誤魔化されているのは、それで十分過ぎる程に理解した。

 これ以上は入ってこないよう、線を引かれたのだ。

 ここから先は絶対に入ってくるな、と、言外に彼女は告げている。

 悔しさよりも淋しさを覚えるのは、それでもその先へ踏み込めないでいる自分の弱さをよくわかっている、から。

 考えて、グレイペコーは思わず唇を噛み締めた。

 彼女は自分を突き放しているわけではない。

 ただ、危険から遠ざけようとしているだけ。

 自分がリグレットに過保護気味に接してしまうのも、こうした彼女の影響なのだろう、とグレイペコーは改めて理解してしまい、辟易してしまう。

 だからこそ、今悩んでいる事さえ、彼女に相談する事は出来ないのだ。

 そうすることで、彼女は余計に自分を遠ざけようとするに違いないだろうから、と。

 まるで慰めるように何度も何度も頭を撫でられるので、グレイペコーがむっとして腕をどかせば、イヴルージュは楽しそうに笑っていて。

 ふわりと鼻先を擽るのは、慣れ親しんでいるのに、何だか懐かしく感じる、瑞々しくて甘やかなバラの香り。


「あたしはお前のそういう細かい変化に気づいてくれる所も心配しいな所もめちゃくちゃ愛してるよ」

「ボクもイヴを愛しているけど、そういう所は本当に何とかしてくれないかなって心底思ってるよ」


 そうやっていつも誤魔化そうとするんだから。

 不満げにそう呟くと、彼女は真っ赤な唇の端を引き上げて、それはそれは嬉しそうに笑って見せた。

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