第26話 転回する境界線の果て

 夕焼けにも似た色の髪を揺らした少年は、灰青の鋭い眼を細めてリグレットを眺めると、小さく息を吐き出した。

 耳には地肌を埋める程のたくさんのピアスを身につけ、首には細い鎖のついた首輪が嵌められていて、動く度に、ちゃり、ちゃり、と音が響いている。


「やっと、見つけた」


 話慣れていないのか、それとも、言葉を知らないのか。

 わからないけれど、少年は幼い子供のように、たどたどしく言葉を紡いだ。

 どうして彼がこの森の中へ入ってこれたのか、一体何の目的で動いているのか、リグレットには全く検討がつかない。

 けれど、この少年が配達員を襲っているという事件の犯人ではないか、と思わずにはいられない。

 グレイペコーはあの時、まるで何かを探しているようだ、と言っていた。

 そして、少年の言葉の通りならば、それは、自分、という事になる。

 何で? どうして、私が?

 そう考えた所で、掴まれた髪を引かれ、ぶちぶちと嫌な音と共に強い痛みを感じ、リグレットは奥歯をぐっと噛み締めた。

 そして、髪から手を離されたかと思えば震える腕を掴まれ、引きずるようにして何処かに連れて行かれそうになり、リグレットは手足をばたつかせてどうにか逃れようとするが、少年は細身でありながらびくともしない。


「……っ、離して!」


 リグレットは必死に抵抗をしながら、ぎり、と片手に持っていた小瓶を強く握り締める。

 本来ならばそれなりの距離をおいて使うよう指導されているが、この状況ではそうも言っていられない。

 リグレットは意を決して片手で瓶の蓋を開けると、タイミングを見計らって、少年に向かってそれを投げつけた。

 中に満ちていた液体は外気に広がると同時に白い煙を発生させ、薬品特有のきつい刺激臭が辺りに立ち込める。

 咄嗟の事に驚いたのか、ぱっと手が離されたので、リグレットは口と鼻を服の袖で押さえて距離を取ろうとしたが、僅かに流れてきた煙を吸い込んでしまい、思いきり咳き込んでしまった。

 とにかくこの間に逃げないと、と顔を上げたリグレットは、けれど、目の前の光景に愕然としてしまう。

 まともにあの煙を被っている筈の少年は、顔を顰めるばかりで、平然と立っているのだ。


「効、か、ない……?」


 少し吸い込んだだけでもあんなに咳き込んでしまったのに、どうして、と、目の前の状況にリグレットは呆然としてしまい、咄嗟に動く事がままならず、完全に逃げる隙を見逃してしまっていた。

 見上げる少年は、ただ平然と、淡々と、リグレットに近付くと、腕を大きく振り上げていて。

 目の前が一瞬真っ白になり、周囲の音が聞こえなくなってようやく、頰を叩かれたのだ、とリグレットは何処か他人事のように思い、流れる風景がやけに緩慢に見えたが、それが瞬間的なものなのか、それとも通常の速度なのか全く判別がつかない。

 わかるのは、頰が酷く熱く感じられる事、だけ。

 叩かれた反動で地面へ倒れ込んでしまったリグレットは、逃げようと地面に手をついて立ち上がろうとするが、上から強い衝撃が襲いかかって、声にならない悲鳴を上げた。

 腹部に硬い靴底がめり込んでいる、という事はわかったけれど、あまりの苦しさに身体を丸めて蹲る事しか出来ない。

 空気を求めるように身を捩らせれば、くぐもった呻き声が唇から漏れ、ざり、と砂利と頬とが擦れて、強く痛んだ。

 涙で滲んだ視界に、無感情に見つめる男の顔が映るが、先程まで灰青であった筈の瞳は、次第にその色を深く、より深く、青に染めていく。

 次第に、底のない暗闇にも似た青色へと変化した瞳は、じっと自分を見つめていて。

 その事に、とてつもない恐怖心を感じて、ひ、と喉の奥から声が漏れ出てくる。

 いっそ、気を失った方がどんなに楽だろう。

 かたかたと奥歯が、身体中が震え、胸底がぎゅうと押し潰されそうに、なる。

 たすけて、と微かに呟いた時、不意に、ひら、と視界に森では見慣れない色彩が映った。

 地面に落ちたのは、淡い紫色の生地に白い小花が刺繍された、ハンカチ。

 銀色の長い髪を揺らして振り返る、少女のようなあどけない顔をした女性を思い出し、リグレットは震える唇をゆっくりと動かした。


「……そ、れ……、ヴァニラ、さん、の?」


 その瞬間、暗い海の底にも似た瞳が、光を取り戻すように大きく瞬いている。


「おまえ、ヴァニラ、知ってる……?」


 なんで、と呟いて、男はリグレットを踏みつけていた足をふらりと退けた。

 その途端、堰き止められていた空気が一気に肺に入り込んできて、リグレットは咳き込みながら涙を滲ませて少年へと視線を向ける。

 先程までの威圧感や恐怖感は感じられず、戸惑いを隠せずにいる少年は、地面に落ちたハンカチをぱっと拾い上げると、どこか幼さを滲ませるように怯えた顔で後退りをして、リグレットを見つめていた。

 暗い青で染まっていた瞳は、光の加減だったのだろうか、灰青に戻っていて、動揺を表すかのように揺れている。


「あ、なた……、ヴァニラさんにも、何かしたの? 何が目的? 何でこんな事をするの?」


 距離を取ろうと、踏みつけられていた腹を押さえてずるずると後退りをしながら、リグレットは問いかけた。

 少年は手のひらに持ったハンカチを、何故だろうか、大事そうに握り締めている。


「もしかして、ヴァニラさんの知り合い? 私はヴァニラさんと一緒に働いている仲間だよ。どうしてこんな事をするの?」

「なか、ま……?」


 逃げる事は難しい、が、出来るだけ時間を稼がなければ、と次々に疑問を投げかけるけれど、まるで叱られた子供のように、泣き出す瞬間にも似た表情を浮かべて、少年はその場に立ち尽くしている。

 一体、どういう事なのだろう。

 混乱した頭では上手く思考を働かせる事が出来なくて、リグレットはただ、少年との距離を少しずつ離すのが精一杯だった。

 少年は何かを必死に否定するように頭を振り、泣き出しそうな顔のまま、躊躇うように手を伸ばしてくるので、リグレットは腕で頭を守るようにすると、ぎゅっと目を瞑った。

 どうしよう。

 どうしよう、何か、どうにか、しなきゃ、誰か、怖い。

 焼き切れそうな程に、思考を回転させて考える。

 息が荒くなっていき、心臓の鼓動が身体を突き破りそうになる程、大きくなる。

 その時、どん、と突然鈍く大きな音がして、リグレットは頭を守る腕に更に力を込め、身を固くさせた。

 目蓋の淵から涙があふれ、つう、と腫れ上がってしまった頰へと伝って行くのが、わかる。


「リグレット!」


 呼び声と共に鼻先を擽るのは、慣れ親しんだ、茉莉花の香り。

 眼を開けてぼんやりと視線を持ち上げると、目の前で夜明け色の髪が揺れている。

 弾けるように瞬きをしたグレイペコーは、悲痛そうな表情を浮かべて駆け寄ると、ぎゅうとリグレットを強く抱き締めた。


「……ペコー?」

「遅くなってごめんね」


 いつの間にか冷たくなっていた身体に、湿気を帯びた皮膚の感触と、熱い体温が伝わってくる。

 きっと、急いで駆けつけてくれたのだろう。

 そう思うと、先程とは違う涙があふれてきそうになって、じわりと一気に視界が揺らいでしまう。

 グレイペコーにしがみつくようにして視線を周囲へ巡らせたリグレットは、いつの間にか桜の木々の向こうで蹲っている少年を見た。

 キナコとミゾレが少年との間に立ちはだかり、並んで唸り声を上げながら威嚇をしている。

 小さな呻き声を上げ、よろめきながら上体を起こした少年を見て、グレイペコーはそっとリグレットから身体を離すと、唇を噛み締めて睨みつけていた。

 その横顔に怒りが満ちていくのがすぐ側で見ていてはっきりと解り、ハンマーを握る指先が、真白くなる程に力が込められている。

 少年はさっと視線を周囲に巡らせると、地面の土を掴み、正面へそれをぶち撒けた。

 狼達が怯み、グレイペコーがリグレットを背に庇うと、その隙に少年は近くに落ちていたナイフを掴んで、木々の向こうへと駆け出していく。


「待て!」


 グレイペコーが声を上げて追いかけようとするので、リグレットは思わず縋るように見上げてしまっていた。

 一瞬、躊躇うようにしていたグレイペコーは、後ろを見やると、困ったように笑っていて。


「ノル、リグレットをお願い!」


 長い三つ編みを揺らし、森の奥へと少年を追っていく後ろ姿をぼんやりと見送りながら、リグレットはぽつりと呟いた。


「……え、ノル?」


 ぱちり、と瞬きをして、リグレットはゆっくりと後ろを振り返る。

 リグレットが入局してからは、ノルが配達員として働いている所など見た事がない。

 その時にはもう既に副局長であったからかもしれないが、言われてみれば、彼が紺色の制服を着用しているのは、彼が抗体持ちである証拠だ。

 そうして木々を抜けて姿を現したノルは、は、とくたびれたように息を吐き出して、側に駆け寄っていた。


「どうして自分じゃなく、狼だけを逃すんだ、お前は……」


 普通逆だろう、と呆れたようにそう言った彼は、リグレットの側にしゃがみ込むと静かに長い指先で髪や頰についた土や花びらなどを払ってくれる。

 グレイペコーはともかく、ノルが来るとは思わなくて、リグレットは思わず顔を俯かせてしまう。

 柔らかな石鹸と、苦い消毒液の匂い。

 医務室の匂いとおんなじだ、と、ずるずると頭を彼の胸元に額を押し付けると、大きな手のひらが優しく頭を撫でてくれる。

 少しずつ、ゆっくりと、呼吸も気持ちも、落ち着きを取り戻しているのが、わかる。

 さっきまで、あれほど怖くて堪らなかったのに、と考えて、リグレットは静かに目蓋を閉じていた。

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