第25話 青と世界が繋がる方法論
特殊配達員がメッセージカードをそれぞれの区画に配達するのは早朝で、朝礼が始まる前である事もあって、廊下を歩いていてもすれ違う人もまだいない。
夜明け色の長い三つ編みを揺らして歩くグレイペコーは、ふ、と顔を上げて、長く続く廊下から窓の外を見た。
空は雲一つない快晴で、突き抜けそうな程の青で満たされた空は、ブルーブロッサムの森の鮮やかさを、より一層際立たせているように思える。
いつもと変わらない景色である筈なのに、何故だか違和感を感じて、だけれど、それが何なのかはっきりとわからなくて、グレイペコーは立ち止まり、目を凝らして耳を澄ませた。
「……、キナコ?」
遠くの方で、狼の鳴き声が聞こえている。
今現在伝言局にいるのはミゾレで、キナコはリグレットと一緒に二区へ配達に行っている。
ポケットから金色の懐中時計を取り出して時間を確認すると、丁度帰ってくるだろう時間だ。
だが、賢く大人しい性質の狼達は、滅多な事で鳴き声を発する事はない。
あるとしたなら、それは、彼らにとって何らかの緊急事態が発生した時だけ。
そう考えが至った瞬間、弾かれるように顔を上げたグレイペコーは、すぐさま森へと続く裏口へと駆け出した。
廊下を全速力で走っても誰にもぶつからずに済むのは幸いだったが、近づく程に鳴き声が近づいてきて、焦燥感でいっぱいになり、胸が押し潰されそうになる。
勢い良く音を立てて裏口の扉を開ければ、早朝の空気は咽せ返るような緑の香りで満たされていて、閉じた大きな門の側では、キナコが懸命に鳴き声を上げていた。
共に配達に出ていた筈のリグレットの姿は其処になく、その事に、ぞく、と背筋が冷える。
焦って取り落としてしまわぬよう、ポケットに入れている鍵束を慎重に取り出して門を施錠している鍵を全て開けば、体当たりをするような勢いでキナコが飛び出していて。
「キナコ、どうしたの? リグレットは?」
興奮している様子のキナコを落ち着かせるように声をかけるが、ぐるぐると周囲を駆け回ったキナコは、一吠えすると、グレイペコーの服の裾を咥えてぐいと引っ張り、早く早くと急かすように森へと促している。
その時、咄嗟に頭に浮かんだのは、ノルが言っていた、配達員が襲われている事件。
それは、あくまでも森の外側でしか起きないと思っていた。
抗体を持っていなければ森に入る事は出来ないのだし、国が管理をしている森に入れる筈はない、と思っていたから。
けれど、実際、それが出来る人間がいたら?
自分ならばどうとでも対処出来るけれど、襲われたのが、訓練も受けていない配達員だったら?
それが、自分の家族だった、なら?
「グレイペコー!」
呼び声に、思考に囚われていたグレイペコーがふらりと視線を上げると、白い毛並みを靡かせたミゾレを伴って、ノルが駆け寄ってくる。
「ノル……! キナコだけ森から戻ってきてる! リグレットに何かあったんだ!」
泣き出しそうな気持ちでそう告げると、指先が無様に震えているのがわかって、グレイペコーは唇を噛み締めた。
自分の立場が速達担当の以上、何があったとしても、上長の許可と代理がいない限り、勝手には動けない。
例え、自分の家族に危険が及んでいたとしても。
いっそ、リグレットのように、感情のままに動けていたら良かったのに。
不測の事態や感情の揺らぎに自身の心の弱さがはっきりと浮き彫りになるようで、思わず視線を俯かせると、ノルが用意していてくれたらしいハンマーを手渡してくる。
鈍く光る金属の柄は冷たくて、確かめるようにして握り込むけれど、上手く力が入らない。
「先に行け。俺もすぐ後に行くから」
「っ、でも……」
戸惑うように顔を上げたグレイペコーに、ノルは落ち着かせるように、グレイペコーの肩を軽く叩いた。
「あの人が帰ってきた。だからもう、平気だ」
その言葉を聞いた途端、グレイペコーの赤い瞳が大きく瞬いた。
あの人——イヴルージュが帰ってきた。
たったそれだけで、それまでの揺らぎは消え、もやのかかったような不安感は一気に霧散していく。
例え何があったとしても、彼女ならば、ありとあらゆる手を尽くしてどうにかしてしまう。
それは、二人が共通して理解している事で、だからこそ、視線を向ければノルは迷う背中をそっと押してくれるかのように、もう一度背中を叩いた。
あの人は、本当に、狡い。
グレイペコーは唇を噛み締めて、ふ、と息を吐き出した。
いつだって、本当に辛い時に、こうやって目の前を明るくしてくれるんだから。
グレイペコーは困ったように笑うと、ノルに向かってしっかりと頷いた。
そうして鮮やかに背を翻して、狼と共に森の中へと走り出していく。
***
グレイペコーが森の奥深くに駆けていく姿を見つめて、ノルが視線を足下に戻せば、ミゾレが鼻先を上げて見つめていた。
まんまるの青い瞳が真っ直ぐに向けられていて、命令を待っているのが、わかる。
ふ、と口元をほんの少しだけ緩めてその頭を撫でると、ノルはポケットから小さな瓶を取り出した。
手のひらの中に収まる程度の小さな瓶の中には、うっすらと赤みがかった液体が満たされている。
いのちのいろだ、と思い、ノルは暫しそれをしっかりと握り締めて見つめると、まるで祈るかのように、それを握る手を、額に押し付ける。
そして、深く長く息を吐き出したノルは、その中身を一気に飲み干した。
ふ、と、ゆっくり開いた金色の瞳は燐光のように淡く光り、その癖のある黒髪は、うっすらと青く染まっている。
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