第24話 行きも帰りも此処には一つだけ

 二区へメッセージカードを届けた後の帰り道、青い桜の木々を抜けて歩くリグレットはとてもご機嫌だ。

 それは、二区へ行くといつも焼きたての美味しいお菓子を食べられるからで、二区の特殊配達員のまとめ役であるジルバはお菓子作りが趣味であって、リグレットが配達で訪れる度に用意してくれている。

 今日はパウンドケーキで、外側がサクッとしているのに中身がふわっとした食感や、中に入れられたナッツとドライフルーツの甘味を活かした優しい甘味が絶妙でとても美味しく、あれならきっとパウンド型の半分くらいは食べられるかも、と思い出すだけでリグレットは笑みが零れてしまう。

 けれど、以前お菓子を食べ過ぎて夕食が入らなくなってしまい、お菓子は一つまでだよ、とグレイペコーに怒られてからは、リグレットもきちんとその言いつけを守っている。

 ジルバは穏やかで優しい人、と彼を知る誰もがそう言うけれど、幼い頃から彼を知るグレイペコーからしてみれば、優し過ぎる、という所であり、それもあってか、お菓子が好きだと言えば好きなだけ食べさせようとしてくる事もままあるのだ。

 気をつけていないと、誘惑に負けてもう一つくらいは、と食べてしまいそうになった事は、一度や二度ではない。

 でも、だからといって、お昼ご飯を食べられなくなるのは嫌だしなあ、と曲がりくねった根っこを跳ねるようにして避けながら、リグレットは考える。

 伝言局にも食堂があるにはあるが、昼時はどうしても混雑するので、リグレット達はあまり利用していない。

 昼食は大抵、ノルが忙しい時以外はグレイペコーを含めた三人で取っていて、それは元々食の細いノルの習慣を崩さないよう、少し強引にでも食事をさせる為にグレイペコーが提案した事らしい。

 ノルは子供の頃などスープ一杯でさえ食べ切るのに苦労していて、酷い時には、二、三口食べた辺りで「もう疲れた」などと呟いてスプーンを置いてしまう事さえあったのだ。

 食事が疲れるとは一体、どういう事なのか。

 例え寝起きだろうと、夕食並の重い料理を平然と食べられるリグレットにとっては全く理解出来ないし、そもそもそんな食生活でどうして身長があれだけ高く伸びたのかは、未だに謎だ、とは思うが、それはさておき。


「キナコ、お昼ご飯を外に買いに行く時、ついてきてくれる?」


 ふんふんと鼻を動かして前を歩くキナコに声をかけると、キナコはぱっと顔を上げて振り返り、リグレットの周りをくるくると戯れるように歩いている。

 まんまるの眼がきらきらして見えるのは、気のせいではないだろう。


「勿論、キナコとミゾレのおやつも買おうね」


 ぱたぱたと嬉しそうに尻尾を振るキナコに、リグレットも一緒に嬉しくなって笑顔になり、中央広場のパン屋さんにお肉屋さん、それからお菓子屋さん、と鼻歌混じりに歌いながら、昼食の買い出しに行く店を次々に思い浮かべていく。

 自然と軽やかになった足取りで、あと数分も経てば一区へと辿り着くだろう、という所で、不意に先を歩くキナコが立ち止まった。

 ぴんと立てた耳と濡れた鼻を忙しなく動かし、周囲を警戒し始めたキナコに、リグレットは「どうしたの」と声をかけようとして、止めた。

 突然、そのしなやかな背をぐっと低くしたキナコが、鼻に皺を寄せて歯を剥き出しにし、グルル、と威嚇するような声を上げたからだ。

 人懐っこいキナコが、ここまで警戒心を露わにしているのは、見た事がない。

 そう思った途端、不安が押し寄せてくるようで、リグレットは胸元のリボンをぎゅうと握り締めてしまう。

 ブルーブロッサムの森は、抗体を持たない人は勿論、狼以外の動物や虫などでさえ近寄る事のない場所だ。

 それに、森は厳重に管理されているし、二区や三区の配達員が迷う事はあるかもしれないが、リグレットよりずっと経験を積んでいる先輩である彼らが、そんな事になるとは思えない。

 何より、彼らだとしたなら、キナコがこんなにも威嚇をする筈がないのだ。

 だとするなら、一体、「何」がそこにいるのか。

 リグレットは少しでも気持ちを落ち着かせようと深呼吸を繰り返し、深く長く息を吐き出すと、腰のベルトにつけている小さな瓶を手に取った。

 それは特殊配達員が携帯を義務付けられている護身用品の一つであり、中には揮発性の高い催涙剤が入っている。

 使い方は研修でも教わっているが、実際使うとなると、上手く出来る気が全くしない。

 だとしても、ここには自分しかいないのだ。

 何とかしなくちゃ、と緊張感で張り詰めた空気の中、周囲に慎重に視線を巡らせた瞬間、突然、横から黒い腕が伸びていた。

 スローモーションのように世界がやけにゆっくりに感じられ、何が起こったのか全く判別がつかない。

 けれど、どうにか仰け反るようにして避けると、リグレットは地面に手をついて身体を捻り、急いで体勢を立て直す。

 は、は、と荒く短くなる息遣いをどうにか抑えようとするが、激しく拍動する心臓の音が鼓膜にまで響くようで、少しも落ち着かない。

 キナコが吠え立てながら側に駆け寄り、その背にリグレットを庇うかのようにして目の前の人物を威嚇している。

 ぐらぐらと揺れる視界越しに立っているのは、目深にフードを被った黒い服を身に纏う、背の高い、人間、だ。

 どうしてこんな所に、と思わずリグレットは呟くが、突然起きた出来事に驚いているせいか、はくはくと唇が動くばかりで声にはならない。

 青い桜の森に入れるのは、その抗体を持つ特殊配達員だけであって、国が厳重に管理しているので、門を開く為の鍵を持たなければ森に入る事すら出来ないというのに、何故この人物は此処にいるのだろうか。

 わからなくて、リグレットはじりじりと後退るが、その人物はそれに合わせるかのように、一歩ずつゆっくりと近づいてくる。

 その人物が足を踏み出す度に、ちゃり、ちゃり、と金属音が聞こえるけれど、それがやけに神経に響き、ぞわ、と、皮膚が粟立つような感覚が全身に広がっている。

 喉を低く鳴らして威嚇をしているキナコの名前を微かな声で呼び、リグレットは視線をちらと一区に向かう方角へと向けた。

 多分、機会は一回きり。

 これが失敗したら、きっと、逃げられない。

 わかっているからこそ、リグレットは歯を食い縛り、爪先に力を込める。

 ざり、と地面と靴が擦れる音がやけに響いて、いて。


「キナコ、行くよ!」


 声を上げたと同時にすぐさま身を翻し、一区を目指して駆け出した。

 後ろから鎖が跳ねるような金属音が聞こえて、追いかけてきているのがはっきりとわかる。

 こわい。

 唇が、音にならない、思考にまで追いつかない言葉を紡いでいる。

 一度でもそれを認識してしまえば、噴き出すように次から次へと言葉が溢れていった。

 いや。なんで。こわい。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖、い!

 ひたすらにその言葉だけが頭の中で犇めいている。

 今まで一度だって訪れた事のないとてつもない恐怖心が、身体の中いっぱいに広がって、はち切れそうになるまで膨れ上がっているのが、わかる。

 震えてもつれる足では上手く走れず、思わず転びかけてしまい、それでもどうにか地面に手をついて、前へ前へと足を踏み出した。

 森の中はまともな整備がされていないので、道らしい道はなく、地面も平らではない。

 その上、黒い幹から四方に枝が伸びていて、無我夢中で走れば嫌でも頰や手足に当たり、鋭い痛みを齎している。

 でも、もう、それすらも気にはしていられない。

 とにかく今は一区に戻る事だけを考えなければ、と爪先に力を込めて更に加速しようとした瞬間、ぐん、と伸びてきた腕に驚いて、リグレットは思わず叫び声を上げてしまった。

 咄嗟に逃れようとしたリグレットは無理に体制を崩してしまい、思いきり地面に倒れ込んでしまう。

 恐怖からか、痛みさえ既に感じられず、爪に土が入り込む事さえ構わずに立ち上がろうとすると、黒服の人物が近づいて、手を伸ばして、いて。

 ひ、と喉の奥から悲鳴になりきらない声が漏れ出た瞬間、しなやかな身体を翻したキナコが勢いよく黒服の人物に飛びかかった。


「キナコ!」


 倒れた拍子に挫いてしまったのか、ずきりと足に痛みを覚えながらも、リグレットは顔を歪めて叫んだ。

 目蓋の淵に滲んできた涙が、視界を揺らしている。

 腕に噛みついたキナコを振り払おうとした黒服は、それでも混乱から暴れるような事はなく、ただただ冷静に、鋭い刃物を取り出している。

 白い霧が広がる森の中でも、ぎらり、と鈍く光る刃物——大振りのナイフだ——を見て、ぞわ、と背筋が冷えていき、身体中から血の気が一気に引いた。


「止めて!」


 キナコが傷つけられる!

 そう思った瞬間、足の痛みに悶えながらも、リグレットは勢い良く黒服の人物に体当たりをして、そのまま上にのしかかるようにして身体を強く押さえ込んだ。

 黒服の手からは刃物が弾き飛ばされて、くるくると地面の上を滑っている。

 有らん限りの力と全体重をかけて地面に押し付けたその身体からは、然程屈強さがあるようには感じられない。

 身長差はあるようだが、これならどうにかなる、と確信したリグレットは、ばっと顔を上げた。


「キナコ、逃げて!」


 耳をぺたんと下げ、躊躇うように片足を浮かせているキナコに、リグレットは泣き出しそうな気持ちを必死に抑え込みながら、思い切り息を吸い込んで叫ぶ。


「8—6—34! 一区に戻りなさい!」


 狼達は番号で管理され、厳しく躾けられている。

 その為、番号で呼ばれた際に告げられる命令は、彼らにとって最重要の権限を持つ。

 リグレットの叫んだ言葉に、キナコからは一瞬で戸惑いが消え失せた。

 直ぐに薄茶色のしなやかな身体を翻し、あっという間に森の中へと消えていく。

 その瞬間、どうしようもなく後悔や不安が押し寄せてきて、リグレットはぎゅうと手のひらを握り締めた。

 だけど、例え自分がどうなったとしても、目の前でキナコを傷つけられるのだけは、絶対に嫌だ。

 それに、此処は一区からそう離れてはいない。

 助けを呼べたとしても、森に入れるのは抗体を持つ人間、つまり特殊配達員達だけだ。

 上手くグレイペコーを連れてきてくれればいいけれど、と息を吐き出した瞬間、ぐらり、視界が回った。

 足を払われたのだ、とリグレットが気付いた時には、身体は地面に叩きつけられ、擦れた頰がじりっと痛んだ。

 歯を食い縛り、痛みに耐えながらも立ち上がろうとするものの、そのまま髪を掴まれ、無理矢理に頭を持ち上げられてしまう。


「や、あ……っ!」


 痛みで目尻から涙が滲み、必死に腕を伸ばしてもがくけれど、びくともしない。

 ぐ、と握り締めた手の中には、催涙剤入りの小瓶。

 涙で揺れる視界越しに睨みつけたその人物は、橙色の髪と灰青の眼をした少年だった。

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