第56話 気づかずにそのままでいて

 目の前にあるのは、煌めくように綺麗に煮詰められたブルーベリーのソースが添えてある、チーズケーキ。

 一口分をフォークで切り取り、ソースが落ちないよう気をつけて頬張れば、チーズの濃厚さが口いっぱいに広がって、それなのにふわりと溶けてしまう軽やかさがある。

 ブルーベリーのソースは甘酸っぱく、それがとびきりのアクセントになっていて、まろやかなチーズケーキととても良く合っている。


「やっぱりすっごく美味しい!」


 全部食べちゃいたいくらい、と頰を押さえて言えば、お茶を用意していたアルティがにこにこと笑って頷きながら、あたたかい紅茶が入ったカップを差し出してくれていた。

 彼女の側には数種類の菓子が用意されていて、その中の一つだけを選ぶには本当の本当に苦労したものだ、とリグレットは思う。

 だって、ツヤツヤの表面が綺麗なタルトタタンも美味しそうだったし、ほんのりとラム酒の香りがするカヌレや、ドライフルーツやナッツがぎっしり入ったビスコッティだって、とっても美味しそうだったのだ。

 二区の特殊配達員達が集まる業務室には、いつもこうして甘いお菓子と紅茶の匂いがして、リグレットは来る度に笑顔になってしまう。

 それは勿論、迎えてくれるジルバやアルティもとても優しいから、というのもあるのだろう。

 ここはいつも、穏やかで優しい時間が流れている。


「確か、お菓子は一日一個って先輩に決められちゃってるんですよね」


 アルティはそう言って、奥の席に座っているジルバにお茶を差し出している。

 それを眺めつつ、また一口チーズケーキを頬張ると、リグレットはしょんぼりと肩を落としてみせた。


「そうなんです。それに、マザーやペコーもジルバさんのお菓子食べたいだろうし、持って帰れたらいいんですけど」


 森の中に持ち込めるのは、メッセージカードや速達担当が持つ武器など、許可を得て認められたものだけだ。

 毒の霧が蔓延している森の中を行き来するのだから仕方がないのかもしれないが、特に飲食物のような口に入るものを持ち込む事は厳禁で、発覚した際は厳重な罰を与えられているという。

 森の中央付近に置いていた手紙に関しては、母親から手紙を貰ってから回収してあるから大丈夫の筈、と密かに怯えつつ、リグレットは不安を紅茶ごと喉の奥へと流し込んだ。

 リグレットの不満を聞いていたジルバは、目を通していた書籍から顔を上げると、ふわと笑みを浮かべている。


「持って帰る事は出来ないけれど、次来る時は少しずつ色んな種類を食べられるようにしておこうか」

「本当ですか?」

「それくらいなら、きっとグレイペコーも許してくれると思うよ」


 わあっとリグレットが喜ぶと、ジルバも嬉しそうに頷いてくれている。

 二区で振る舞われるお菓子は、全てジルバが作っているそうで、その腕前がどれ程のものなのかは、毎回それを食べているリグレットにはよくよく理解出来たものだ。

 一区でお店を出したら確実に売れる筈。しかも、絶対行列が出来るに違いない。

 うんうん、と納得して頷きながら、ふと浮かんだ疑問を、リグレットは口にする。


「そういえば、ジルバさんって前からお菓子作るの得意だったんですか?」

「いや、そんな事はないよ。グレイペコーと会ってからだから、そんなに前ではないかな」

「ペコーと会ってから?」


 意外な答えに、リグレットは青眼をぱちぱちと瞬かせた。

 グレイペコーはチョコレートが好きだけれど、特別甘いものを好んでいるというわけではない。

 どちらかといえばそれはリグレットの方で、家で菓子を作るとなった時は、リグレットが言い出すのが常だ。


「あの子は甘えるのが上手い子じゃないからね。せめて甘いものでも食べたら気持ちも和らぐんじゃないかと思って作り始めたんだ」


 初めは砂糖を入れ忘れて全然甘くなくて膨らまなかったパサパサのケーキを作ってしまって、複雑そうな顔をされたけれど、あの子はそれをちゃんと全部食べてくれたんだよ。

 そう言って、懐かしさで眼を細めながら、嬉しそうな顔でジルバが話してくれるので、リグレットも何だか嬉しくなってしまう。


「凝り性というかな。どうやったら美味しくなるのか色々と試しているうちに、楽しくなってきてしまってね。今ではなくてはならない趣味になってしまったんだ」

「でも、二区の皆はもう師匠のお菓子なしでは生きていけないですよ!」


 いつも師匠がお菓子を配ってくれるのを楽しみにしてるんですから、とアルティは言って、嬉しそうに笑ってみせた。

 その笑顔から、二区での様子が手に取るように見て取れた。


「皆が幸せになる趣味っていいですね」


 優しいきっかけから広がって、皆が喜んでいるというのなら、それはとても素敵な事だ、とリグレットは思う。

 その言葉に、ジルバは気恥ずかしそうに首の後ろを撫でていた。


「そんな大層なものではないけれど、そう言って貰えると嬉しいよ。ありがとう」


 皆が笑い合って和やかな空気の中で、リグレットは最後の一口を食べ切って、紅茶を口にした。

 まろやかなチーズの味でいっぱいになっていた口の中が、紅茶の爽やかさで満たされていく。

 ほっと息を吐き出すと、アルティがふと顔を上げて口を開いた。


「そういえば、三区に新しく入った子もお菓子好きですよね」


 アルティの言葉に、リグレットは驚いて彼女を見た。


「アルティさん、会ったんですか?」

「はい! とっても働き者でいい子ですよ!」


 テッサとはカードでのやり取りを続けているけれど、先の事件から顔を合わせないよう徹底されている。

 ジルバは元々戦闘に長けている人だし、アルティはそのジルバに育てられているのもあって、テッサに会うにも制限がないのだろう。


「リグレットさんと一緒で、お菓子は一日一個までって決められてるみたいです」


 カードでのやり取りをしていて親近感があるからか、そういった共通点を知ると嬉しくなってしまう、とリグレットは思う。

 そもそも周りが年上ばかりの中で育ってきたし、伝言局では同い年の同僚がいない事もあり、テッサとの交流は貴重で新鮮な経験なのだ。


「伝言局に来るまで色々あったみたいで、薬が効きにくい体質なんだそうです。だから、面倒を見ているヴァニラさんが食事とかにも気を使ってるらしいですよ」

「そうなんですね。何だかノルみたい」


 ぽつりとリグレットが零すと、アルティが心配そうに緑の眼を向けている。


「そういえば、副局長さんはお身体が弱いんでしたね」


 アルティの元気と頑丈さを分けてあげたいです、と両手を握り締めて言うので、リグレットは思わずふふと吐息混じりに笑ってしまった。

 ノルは幼い頃からグラウカの処方する薬を服用していて、薬の配合によっては食べてはいけない物がある。

 薬の知識はないけれど、医薬品はそういった食品との相互作用などもあるのだ、というのは、そういった経験から知った事で、リグレットも注意するようになっているのだ。

 テッサも同じような状況なら、ヴァニラが気をつけているのも頷ける。


「副局長は、最近も体調が悪いのかい?」


 ジルバはそう問いかけると、心配そうに灰色の瞳を細めている。


「少し前に倒れたけど、その後は大丈夫そうです。グラウカ先生もいるし、ペコーも私もちゃんと見てるので」

「それなら、安心だね」

「はい!」


 リグレットが元気よく頷くと、ジルバも柔らかに笑ってくれている。

 カップの中身を全て飲み干し、窓の向こう、一区の方面へと視線を向ければ、青い桜の森が見えた。

 青に満ちた桜の森は、いつもと変わらず、リグレットの目に映る。

 ぼんやりと見つめていると、こんこんと咳をする音が聞こえて視線を戻せば、ジルバが口元を押さえて咳き込んでいるのが見えた。

 慌てたアルティが、その大きな背中をゆっくりと撫でている。

 豊穣祭で会った際にも同じような事があったと思い出して、リグレットも心配になってジルバを見たが、彼は困ったように笑って、少し咽せただけだから、と言って片手を振っている。


「ジルバさんも身体大事にして下さいね。ペコーもマザーも心配してました」


 その言葉を聞いて、ジルバはぱちぱちと目を瞬かせてから、苦笑いを浮かべている。


「はは、流石にイヴルージュに言われてしまうと、気をつけないといけないね」


 あの人こそ相変わらずお酒ばかり飲んでるんだろう、と困ったように言うので、リグレットは同じように笑って、頷いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る