第57話 無色透明のイグナイター
リグレットが二区から一区へ帰ってくると、側を歩いていたキナコがふるりと耳を震わせて立ち止まった。
どうしたの、と声を掛ければ、金色の目がじっと裏口から続く廊下の向こうを見つめている。
不思議に思ってしゃがみ込み、キナコを撫でていると、遠くの方で騒がしい声が聞こえてきた。
リグレットが配達を行っているのは早朝で、一区に戻った時には朝礼が始まる少し前になる為、確かに騒がしくはなるのだけれど、今聞こえてくるのは、いつもとは全く違うものだ。
ばたばたと忙しなく走り回る足音、行き交う声は怒号のよう。
明らかに不穏な気配を感じ取ったリグレットは慌てて立ち上がり、声のする方へと走っていった。
森に続く裏口から中庭を抜け、受付がある正面玄関方面へ近づいてくると、ざわつきと共に人だかりが出来ている。
誰もが困惑したり怯えたような表情を浮かべていて、リグレットは思わず胸元をぎゅうと握り締めた。
局員の一人を捕まえて話を聞けば、リグレットが一区へ帰ってくる少し前、入り口付近で暴れていた男がいたらしい。
幸い、イヴルージュが対処をして怪我人も出なかった、という事だったので、ほっとしつつ、教えてくれた局員に礼を言って、リグレットはすぐにイヴルージュの姿を探した。
イヴルージュは速達の経験もあるし、自分の身は自分で守れる程度の実力があるとは聞いている。
それでも、やはり家族がそういった場面に出くわしたとなっては、心配になってしまうものだろう。
ばくばくする心臓を押さえながら人だかりを抜けていくと、見慣れた金色を見つけて、リグレットは急いで彼女の側に駆け寄った。
イヴルージュは周囲の局員達に指示を出していて、その手にはサーベルが握られている。
その事に、リグレットの指先は震えた。
「マザー!」
「おう、リグレット」
イヴルージュはリグレットに気がつくと、赤眼を柔らかに細めて笑った。
「大丈夫? 怪我してない?」
「まさか。あたしがそんじょそこらの奴に負けるわけないだろう?」
寧ろあたしの勇姿をお前にも見せてやりたかったくらいだ、と自信たっぷりに言われて、リグレットは苦笑いを浮かべてしまう。
周囲に人がいなかったら、きっと抱きついていただろう。
そっと息を吐き出すと、手のひらに冷たい感触がして視線を向ければ、キナコが鼻先をグイグイと押し付けている。
いつもなら伝言局の業務が行われる場所には入れないキナコをここまで連れてきてしまっているのに気がついて、リグレットは慌ててしまったけれど、イヴルージュは楽しそうにからからと笑った。
「なんだなんだ、お前まで心配して一緒に来たのか? かわいい奴め!」
イヴルージュに揉みくちゃになるまで撫で回されて、キナコは少しだけ迷惑そうにしていたけれど、尻尾はぱたぱたと振っているので、嫌というわけではないのだろう。
リグレットが苦笑いを浮かべてぐしゃぐしゃになった毛並みを撫でて直してやると、イヴルージュはそっと頰にかかった髪を耳にかけてくれた。
見つめてくる赤眼は、憂いを含めているかのように、細められている。
「そんなに不安にならなくていい。この程度の騒ぎなら、あたしかペコーがいれば何とかなるから」
その後はノルがどうにかしてくれるだろうしな、と、ぱっと笑いながら視線を背後に向けるので、リグレットが振り返ると、顔を顰めたノルがいた。
「面倒事をこっちに投げるのは止めて下さい」
「頼りにしてるって事だぞ」
「そうは聞こえませんでしたが?」
呆れたように言ったノルが頭をぽんと撫でてくれるので、ようやく、リグレットはふっと緊張が解けて、安堵の息を吐き出していた。
***
騒動が収束し、朝礼が終わらせて受付業務が始まると、伝言局の中はそれまであった事などなかったかのように、いつもと変わらない日常が戻っていた。
三区まで速達業務に行っていたグレイペコーが帰ってくると、イヴルージュは特殊配達員達を局長室に集めて、今朝の騒動について話をした。
暴れていた人物は、元々三区の住人だったらしい。
また、重度の薬物中毒者であり、意味不明な言動を繰り返し、意思の疎通もままならないと報告があったそうだ。
ここ最近、国内ではそういった違法薬物の使用及び所持の摘発が増えているらしく、軍の方でも対応に追われているという。
「それって、三区だけじゃなくて一区でも起きていたんだ……」
話を聞いていたグレイペコーは眉を顰めてそう言うと、口元を押さえて何やら考え込んでいた。
イヴルージュはそんなグレイペコーを、意外そうに見つめている。
「何だ、ペコーは知っていたのか?」
「……うん、まあ、ちょっとね」
小さく息を吐き出して地面に視線を移すグレイペコーは、何だかくたびれて見えて、リグレットはそっと顔を覗き込んだ。
いつも無理をしていても隠そうとするので、また何か抱え込んでいないかと心配になったのだけれど、苦笑いを浮かべたグレイペコーは、リグレットの頭を撫でるだけで、何も言おうとはしなかった。言いたくないだけ、かもしれないが。
「各区画で起きている、いうわけじゃなく、もう国全体で起きている事だと考えていいだろうな。軍の方でも手を焼いていると聞いているし」
伝言局の周囲も巡回を強化して貰っているから、と付け足したイヴルージュに、グレイペコーは深々と息を吐き出している。
「お姫様の噂といい、きな臭い話ばかりで頭が痛くなるね」
グレイペコーの言葉に、イヴルージュは苦笑いを浮かべて肩を竦めていた。
彼女は今朝実際それを目の当たりにしたからこそ、現状に悩まされているのだろう。
「それと、これはお前達だけに伝えなきゃならん話なんだが」
イヴルージュはそう言うと、言葉を一旦切って、皆の顔をゆっくりと見回した。
「一部で森の侵食が広がっているとの報告があった」
え、と思わずリグレットは声を零す。
年々侵食が広がっているとは聞いてはいるけれど、実際それが起きているのだと言われても、少しも実感が湧かない。
現に、今日の配達時にも、異変などほんの僅かも感じなかったのだから。
側にいるノルの様子を見てみれば、手にしている資料の束を捲りながら眉を顰めている。
「今までの経過を見る限りでは、少し侵食が早い気もしますが……」
イヴルージュはその言葉に、曖昧に頷いてみせた。
「その辺りは研究所でも調べてはいるようだが、原因がわかっていないらしい。この間の森の解放期間に行われた調査でも、特に森のどこかで木が傷んでるってわけでもないようだし」
この辺はあたしも専門外だしよくわからん、と肩を竦めるイヴルージュに、ノルやグレイペコーも困ったように顔を見合わせている。
「配達の時に何か変化があったり気になる事はないか?」
「私はいつもと変わらないかなあ」
イヴルージュの問いかけに、リグレットはことりと首を傾けた。
森に入ってると安心した気持ちになるのはいつもの事であるし、体調がおかしくなるという事もない。
寧ろ言われなければ何かが変わったなどと気付かなかっただろう、とすら思える程だ。
隣にいるグレイペコーも、それに同意するように頷いている。
「ボクも今の所は平気だよ。森の中も特に変わった様子はなかったし」
「ならいいが、配達中に異変を感じたらすぐにあたしかノルに伝えてくれ。それから、体調面で変化があるようならすぐにグラウカに診せるようにな」
抗体値もこまめに測ってもらえよ、と言われて、リグレットは渋面を浮かべてしまう。
抗体値を測る、という事は、血を採らなくてはいけない、という事だ。つまり、注射をする回数が増える、という事。
そんなリグレットの心情を察してか、グレイペコーが少し呆れた表情を浮かべて顔を覗き込んでくる。
「リグレット、サボっちゃ駄目だよ?」
「わ、わかってるけど……」
でも、注射痛いんだもん。
ぷくと頰を膨らませると、グレイペコーが「リスみたい」と面白がって頰をつついてくるので、リグレットはますます頰を膨らませた。
ノルはそれを横目で見て、呆れたように息を吐き出している。
「グラウカに言って、美味い飴でも仕入れておいて貰うか」
イヴルージュはそう言って、くすくすと吐息混じりに笑っていた。
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