第55話 まずは挨拶からで構いませんか

「グレイペコーさん」


 呼びかけられて、夜明け色の三つ編みを揺らしたグレイペコーは振り返った。

 三区の廊下は一区と同じ作りをしているけれど、やはり何処か違って見えて、何だか自分だけが此処で異物のようだ、とグレイペコーはぼんやりと思う。


「……ああ、ヴァニラか」


 振り向いた先にいたのは申し訳なさそうな顔をしているヴァニラで、それがどうにも叱られている子供のように見えてしまい、先程までの苛立ちはすっかり沈んでいってしまう。

 気持ちを切り替える為に深々と息を吐き出すと、ヴァニラは気遣わしげな視線を向けていた。


「すみません、フィスカスさんがまた何か言ったんですよね」

「君のせいじゃないでしょう。気にしなくていいよ」


 クズの尻拭いなんてつけあがるだけだからやめた方がいい、と辛辣な物言いをすれば、ヴァニラは苦笑いを浮かべてみせた。

 迷惑を被る事も多いようだが、ヴァニラはどうやらフィスカスを信頼しているらしい。

 スラム地区の女性達とやらも彼を気に入っているだとか慕っているだとか聞いてはいるけれど、物好きなものだと思わずにいられない。

 そういえば伝言局で唯一フィスカスにしか懐かない黒狼のキュラもメスだったな……、と思い至って、グレイペコーは再び溜息を吐き出した。

 一体あの男の何処がそうさせるのかは、本気で謎でしかない。一生理解したくもないけれど。


「先日は、すみませんでした」


 グレイペコーが思考に耽っていると、ヴァニラはそう言って、深々と頭を下げていた。

 以前、局長室で口論になった時の事を言っているのだろう。

 リグレットが襲われた事件の犯人である少年とヴァニラは、それ以前に少しだけ交流があったと聞いている。


「あの時に言った事を撤回つもりはないよ」


 だけど、と一度言葉を切って、グレイペコーは手のひらに少しだけ力を込めた。


「ボクもきつい言い方をしていたから……、それについては、ごめん」


 気まずい空気に耐えきれずに視線を俯かせると、吐息が零れる音がする。

 顔を上げれば、ヴァニラは困ったように笑っていた。


「いえ、お気遣いありがとうございます」


 ヴァニラは入局した頃から、その幼い容姿から、人より少しだけ目立っていた。

 庇護の対象として見られがちではあるが、本人は至って真面目でそつがなく、報告書の文字からしてお手本のような几帳面さが見て取れる。

 時間通りにきっちりと仕事をこなし、大家族の長子として日々の生活に追われているという話は、三区の局員なら殆どが知っているという。

 別の区画で働いているグレイペコーにもそれが伝わっているのだから、それだけ真面目にコツコツと働いているのだろう。

 元々、年下の弟妹の面倒を見ながら家の中の事をこなしていかなければならない、という似たような状況に置かれていたせいか、グレイペコーはヴァニラに対して嫌悪の感情を抱く事はなかった。

 寧ろ、同情に近い感情を持っていた程だ。

 先日の件とて、頭に血が上った状態でなければ、もう少しやんわりと否定出来ていただろう、とグレイペコーは思う。


「君がそこまで庇うからには、そう悪い人間ではないんだろうとは思ってるけど」


 そう言うと、ヴァニラは視線を俯かせて、緩やかに瞬きを繰り返している。


「リグレットさんに怪我をさせてしまったのは事実ですから、納得がいかないのは理解しています」

「そのリグレットがああだからね。君やフィスカスがきちんと教育してるって話はイヴやノルからも聞いているし、ボクだっていつまでも怒り続けたりしないよ」


 怒るのって力を使うし疲れるもの、とグレイペコーが言うと、ヴァニラは困ったように眉を下げると、小さく頷いた。

 リグレットはあれからあの少年——テッサとメッセージカードのやり取りを続けているけれど、見ている限りは困った様子もないどころか、楽しそうですらある。

 伝言局の中では同年代の局員が少なく、交流する機会もないので、きっと嬉しいのだろう。

 グレイペコーがそんな事を考えていると、ヴァニラは視線を自らの足元へと俯かせている。


「リグレットさんの献身は……、少し心配になりますね」


 他人の為に自分を犠牲にしてしまうのは、優しく正しい行いのように見えるけれど、その反面、残酷で淋しい事だと思う、とヴァニラは言う。

 命が呆気なく失われてしまう恐ろしさを、ヴァニラは身内の死を体験して痛いほどに知っているからで、だからこそ危険に対して敏感でいるけれど、リグレットはまだそれを知らないだけなのかもしれない、と。

 幼い弟妹達も自ら危険に飛び込むような事ばかりしているから、と困ったように言う彼女のその表情は、きっと自分も家族の前でよく見せるものに似ているのだろう、とグレイペコーは思う。


「君も大概だと思うけど」


 グレイペコーが言うと、ヴァニラは緩やかに首を振った。

 二つに結んだ銀色の髪が、動作に合わせて揺れている。


「私は狭量な人間ですよ。その僅かな隙間に、テッサが入って来ただけです」


 ヴァニラはそう言うと、窓の向こうに視線を向けた。

 紫色の瞳は、柔らかに細められている。


「信頼は、築いていくものですから……、だから、どんなに時間がかかっても、皆さんに理解して貰えるよう、頑張るだけです」


 グレイペコーはその言葉に何も返さなかった。

 返せなかった、だけなのかもしれないけれど。

 ヴァニラの視線の先を辿るように窓へ眼を向けると、遠くに中庭が見える。

 其処では狼達の世話をしているらしい、テッサの姿があった。

 その顔付きは、グレイペコーが森で対峙した時とは別人のように見える。

 少年らしいあどけなさが抜けきらない、年相応の、顔。

 構って貰えて嬉しいあまり、飛びついてきている狼達の勢いに負け、テッサは地面にころんと転がってしまっているけれど、楽しそうに笑っている。

 狼達はそれなりに訓練を受けているから、誰にでも懐くわけではないが、それでも、あの好かれようは何だかノルに近い気がする、とグレイペコーは思う。

 何より、伝言局にいる狼達の中では特に警戒心が強く、フィスカスにしか懐かない筈の黒狼のキュラが、珍しく少年には気を許しているらしい。

 ねえ、と呼びかけると、ヴァニラは不思議そうに首を傾げている。


「毎日リグレットに届いてるあのメッセージカードは、君が提案したの?」


 その問いかけに、ヴァニラはぱちぱちと紫色の瞳を瞬かせると、いいえ、と首を振って、柔らかに笑みを浮かべた。


「テッサがリグレットさんに謝りたいと言っていたので、何か方法がないかとフィスカスさんに相談したんです」

「なるほどね」


 謝罪の手段にメッセージカードを選ぶ辺りが、軽率な癖に狡猾なあの男らしい、とグレイペコーは呆れたように溜息を吐き出した。

 直接顔を合わせずとも謝罪を形にする事が出来て、第三者がカードの内容を精査出来る上、仕事で使用する仕組みを利用するのだ。

 実に模範的な行動で、周囲から文句を言えないよう徹底していると言えるだろう。


「確かに、毎日欠かさず謝罪の言葉を書いたカードを出してるのは、信用を得るにはいい行動ではあると思うよ」


 最近は何故か美味しい食べ物の情報交換ツールになりつつあるけどね、と呆れたように言うと、ヴァニラは顔を赤らめ、慌てた様子で口元を押さえている。


「す、すみません。念の為に内容は確認しているのですが、その、微笑ましいやり取りに見えたので……」


 恥ずかしさのあまり肩を縮こませて小さくなっていくヴァニラに、グレイペコーは思わず吐息を零して笑ってしまっていた。


「まあ、リグレットが喜んでいるから、いいんじゃない」


 いつも楽しみにしているみたいだし、と付け足せば、ヴァニラは赤みの引いていない顔を押さえながら、笑って頷いていた。

 じゃあ、と廊下の先へと足を向けると、ヴァニラが笑顔で手を振ってくれる。

 緩やかに手を振り返したグレイペコーは、背を向けると森に続く裏口の方へ足を向けた。

 途中にある中庭では、他の狼達に混ざってミゾレが駆け回っていたのを、先程も確認出来ている。

 本来なら顔を合わせるのを避けた方がいいのだろうけれど、と思いながら、中庭を通りかかると、グレイペコーは深く長く息を吐き出して、顔を上げた。


「ミゾレ、帰るよ」


 声をかけると、ミゾレは耳をピンと立てて顔を上げ、嬉しそうに尻尾を振って駆け寄ってくる。

 他の狼達も声に気付いたのか、グレイペコーの方へ顔を向けるけれど、決して近付こうとはしなかった。

 グレイペコーの存在に気が付いたらしいテッサが、その場で固まってしまっているからだろう。

 森の中で対峙した経験からか、警戒心を露わにしたような態度を取るかと思いきや、予想に反して、テッサは怖がるような困ったような、複雑そうな顔をした。

 グレイペコーは冷ややかな顔で彼を見つめていたけれど、彼は意を決したようにぎゅうと眼を瞑ると、ぱっと頭を下げている。

 ボサボサだった髪は綺麗に整えられていて、細い鎖がついた首輪も、もう身に付けてはいないらしい。

 狼達に囲まれているせいか、こうしていると叱られた狼みたいだな、とグレイペコーは思いながら、足元で戯れついてくるミゾレを撫でた。

 視線を上げて再びテッサを見れば、気まずそうな顔をして肩を縮こませていて、狼達がきゅうきゅうと鳴きながら心配そうに顔を覗き込んでいた。

 これを演技でやっているなら感心するし、本来の姿なのだというなら、確かにあのヴァニラが絆されてしまった気持ちも、まあ、わからなくもない。


「挨拶」

「え」

「挨拶は?」


 少し突き放したようにかけたグレイペコーの言葉に、テッサは困惑したような顔で視線をうろつかせると、おずおずと口を開いた。


「こ、こん、は……こん、に、ちは?」


 発音が難しいのか、それとも突然の事に慌てているのか、もごもごと口にした挨拶は、何とも辿々しい。

 けれど、聞き取り理解する事は出来ているようなので、慣れていけば言葉もすんなりと話せるようになるだろう。


「此処で仕事をしているなら、挨拶くらいちゃんとしないと駄目だよ。話し慣れる為なら、尚更」

「う、うん」


 戸惑ったように頷きつつも、グレイペコーが声をかけた事で安心したのか、テッサは気を緩めたらしい。

 ほっと息を吐き出してから、ありがと、とはにかんで笑っている。

 自らが疑い深い性分なのはもう今更直しようがないし、大切な人達を守れるのなら、それでいい、とグレイぺコーは思う。

 だからきっと、今はこの距離感でいいのだろう。

 グレイペコーは頷いて静かに息を吐き出すと、ミゾレを伴って一区に戻る為に足を踏み出していた。

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