第54話 闇夜に踊るならどうぞお一人で
長期の休暇が終わり、桜の花が咲き始めると、森は閉鎖され、伝言局の仕事も通常通りに再開される。
特殊配達員達の業務もいつものように行われているが、速達の配達業務は週に一度あるかないか程度で、普段は局内の仕事をメインにしている。
だが、ここ最近は毎日のように頻繁に駆り出されていて、それはつまり、何か国内で良からぬ事が起きている、という事なのだろう。
ただでさえ、少し前に起きた事件のせいで頭が痛いのに、と考えて、グレイペコーは紅茶の入ったカップを持ち上げた。
ふう、と息を吹き、揺れた湯気の先に見えるのは窓際の席に座るフィスカスで、相も変わらずにやにやとにこにこの間を絶妙に混ぜ合わせた表情を浮かべているのが、腹立たしくて仕方がない。
「違法薬物、ねえ……」
「あ、信じてないな? これはかなり信憑性の高い情報なんだけど」
また面倒な噂を吹き込まれて、グレイペコーは心底うんざりとした顔をした。
碌でもない男から教えられた噂など心底碌でもない事は、今までの経験からよく分かっている。
分かってはいるけれど、その内容についてどうにも聞き流せないのが、腹立たしくて仕方がない。
彼曰く、今現在三区では一部に違法薬物が蔓延し、それに伴った騒ぎが起こっているという。
基本的に他の地区では伝言局の外には出ないので、そう言われた所で、グレイペコーはその異変を感じ取る事は出来ないのだけれど。
「何人か実際に薬物依存に陥っている人物も確認出来てる」
「へえ。じゃあまともな情報なんだ」
「うん、だから、さっきからそう言ってるんだけどなあ」
「君に人徳が無さすぎて、信用に欠けるのは仕方ないんじゃない?」
酷い酷い、と言いながら、ちっとも傷ついた様子など欠片も見せない男に、グレイペコーは手にしていたカップを机に置き、じろりと赤い眼を向けた。
「前回の件、ボクはまだ根に持っているんだよ」
君、絶対に知っていたんでしょう、とグレイペコーはつかつかと彼の側まで近づき、胸ぐらを掴んで睨みつけるが、フィスカスは肩を竦めてへらりと笑っているばかり。
あの噂を伝えてきた時、彼は何の根拠もなく、
間違いなく、全てを知った上で情報をこちらへ流していたのだろう。
さぞかし楽しかったに違いない、とグレイペコーが睨みつければ、彼は笑いながら両手を上げていた。
「そうは言っても、突拍子もない話だしさあ、リグレットちゃんだって戸惑っちゃうだろ? まあ、お姫様みたいに可愛いって意味なら言ってもいいけどさ」
「何で君がその事を知っているのかは追求しないけれど、リグレットに少しでも近づいたら叩き潰すから」
うわ、目が本気すぎて怖ーい、などときゃっきゃしているフィスカスを蹴り飛ばしたい衝動をどうにか押さえ込み、グレイペコーは彼の胸ぐらから手を離した。
大袈裟な程に息を吐き出し、席に戻ると、気分を変える為に机に置いてあった焼き菓子を物色する。
クッキーとマドレーヌ、それからフロランタン。
いつもより種類が豊富なのは、少し前に森の行き来が出来ていた関係で、物資が蓄えられているからだろう。
「だからこそ、今回はちゃんと信用に値するまともなネタを提供してるんだけどなあ」
フィスカスはそう言って、態とらしく肩を竦めて見せる。
哀れっぽく見えないのは、彼の人となりがその身から滲み出ているからだろう、と思いながら、グレイペコーはフロランタンを手に取った。
「って事は、実物も手に入ってるとか?」
「流石に全部は教えてあげられないさ。俺だって、無闇に同僚が危険にあうのは避けたいし」
「白々しい」
バッサリと切り捨てるように言っても、彼は少しも気にせず、けらけらと楽しそうに笑っている。
それを呆れた顔で横目で見たグレイペコーは、溜息混じりにフロランタンを口にした。
ザクっとした食感が心地よく、バターとナッツの風味が口の中いっぱいに広がっていてとても美味しい。
苛立って仕方がないこの状況下でも、ありがたい事に、甘味は気持ちを和らげてくれるらしい。
「違法薬物っていうのが、またとんでもない名前でね」
「何、そんなに変な名前なの?」
グレイペコーの問いかけに、フィスカスは口端を引き上げた。
「ブルーブロッサム」
フィスカスの発した言葉が、しんと静まり返った部屋に響いている。
グレイペコーは嫌悪の感情を隠す事なく面に表して、唸るように呟いた。
「悪趣味すぎ」
「流石に俺もそれには同意する」
間違いじゃないの、って話を聞いた子達には何回も聞いたんだけど、どうやら本当っぽいんだよなあ、と楽しげには言っているものの、フィスカスもその事についてはあまりいい感情を持ってはいないらしい。
そもそも、それをいいネーミングセンスだと言うような人間がいたのなら、確実にその人物は信用しないけれど。
「話を聞く限りはよくありがちな幻覚症状の出る薬みたいだな。頭がふわふわして気持ちよくなっちゃう、っていう」
「で、依存性が高くていずれ廃人状態になるんでしょう? 分かっていながら、どうしてそんなものに手を出すのかな」
詐欺も薬も、どうして怪しいと思いながらも手を出してしまうのか、グレイペコーにはさっぱり理解が出来ない。
何も知らない無知な子供や、年老いて判断が鈍くなってしまう老人であるのならわからないでもないけれど、大の大人があっさりひっかかってしまうのだからどうしようもない、と思わずにはいられないのだ。
けれど、フィスカスはそんなグレイペコーの様子に、苦笑いを浮かべている。
「知識や経験が足りないって言うのもあるだろうけど……まあ、殆どは色々とやるせない事があるんでしょうよ。引っかかっている大半がスラム化してる地域の者らしいしな」
その言葉に、妙な違和感を覚えて、グレイペコーはフィスカスへと視線を向けた。
「それって少し変じゃない? そういうのって普通、お金を目的に売り捌くものでしょう?」
そういった薬は大抵が高額で、スラムに住む人間達には手が届かない程の金が必要になる。
金を目当てに強盗をするなどの騒ぎになるようなら話は別だが、スラム地域をメインとして貧民層にそれらがひっそりと広まっているのは、些か妙だ。
フィスカスはグレイペコーの言葉を肯定するように、ゆっくりと頷いている。
「そう。だからこそこの件は局長にも報告済みで、局長経由で王城の方にもこの話が行ってる筈。まあ何せその薬物自体、初めての人にはタダで配ってるっていう胡散臭さだからな」
タダより高いものなんてないのにさ。
そう言って、フィスカスは皮肉げに笑って見せた。
「最近、速達業務が異様に多いのはそのせいか……。リグレットが襲われた件といい、厄介な事にならないといいんだけど」
「ま、今の所は各地区での警備強化くらいしか出来そうにないだろうけどな」
そう言って肩を竦めるフィスカスを見て、グレイペコーはそれまでの事がただの連絡事項でしかないと気付いて、思わず顔を顰めてしまっていた。
「どうりで珍しく真面目に情報提供してくれると思った」
「俺だって流石にそこまで不真面目じゃあないんですけど?」
「だから言ってるでしょう、君は日頃の行いが悪過ぎるんだよ」
人徳って言葉をそろそろ正しく理解した方がいいんじゃない、とグレイペコーが棘のある言葉を投げつけるけれど、彼はへらへらと笑うばかりで全く気にもしていない。
食べかけのフロランタンを全て食べ切り、溜息を吐き出しながら食器類を片していると、フィスカスが机に肘をついて楽しそうに口を開いていた。
「そうそう。一個忠告があるけど、聞いておくかい?」
「忠告?」
何、と眉を顰めて先を促すと、彼は勿体ぶって、にやりと笑った。
いい加減にしろとでも言ってやりたいが、彼が大人しくそれを聞き入れる筈もないだろう。
グレイペコーは深々と溜息を吐き出すと、片手を振って、どうぞ、と吐き捨てるように言った。
「お菓子の食べ過ぎには注意した方がいい」
「……、どういう意味?」
予想外の言葉に、グレイペコーが訝しげにそう聞き返せば、フィスカスは笑いながら肩を竦めている。
貼り付けられたような笑みが苛立ちを助長させていて、どんどん身体の中に蓄積していくのがわかる。
「そのままの意味だよ」
「言葉の通りになったらいい、って事?」
「受け取り方によるかな」
追求した所で、彼はそれ以上に答えるつもりはないらしい。
これでは忠告どころか謎かけではないか、と、側にあったハンマーを掴んで投げつけてやりたくなる。
けれど、グレイペコーは緩やかに瞬きを繰り返して彼の言葉を反芻すると、ふう、と深く長く息を吐き出した。
「……気をつけるよ」
グレイペコーが静かに地面を見つめてそう呟くと、フィスカスは驚いたように緑の眼を瞬かせている。
「へえ、珍しい。怒らないんだな」
「君がそんな事を言い出す時は、大抵何かある時だけだからね」
それに、気になってる事もあるし。
そう言って、グレイペコーは唇を噛み締めた。
出来るなら考えたくないけれど、先の事件から、国、もしくは伝言局内部で情報を流出させ、手を貸している人間がいるのではないかと、グレイペコーは疑いを持っている。
そして、彼がその手がかりを持っているのではないか、とも。
何処をどう掻い潜って見つけてきたのかは定かではないが、リグレットの出生についての情報すら知っていたのだ。
だとしたなら、内部の情報など、簡単に見つけてしまえるのではないか、と、思わずにはいられない。
それを、簡単に教えてはくれそうにないし、頭を下げて媚びへつらってまで教えて貰おうとも思わないけれど。
「グレイペコー」
ふと名前を呼ばれて、グレイペコーは顔を上げた。
彼に名前を呼ばれるなど、数えるほどしかない。
珍しく表情らしい表情はそこになく、まるで何の感情さえ映す事を拒んでいるかのようだった。
それは、グレイペコー自身が馴染みのあるものだと思える程に。
「人間なんそう簡単に信じない方がいい。こっちが傷だらけになって必死になって築いてきた信頼を、いとも簡単に一瞬で打ち砕いてくるんだからな」
フィスカスの明るい緑の瞳は奥底が見えず、けれど、決して逸らされる事はない。
「心を尽くして優しくしてくれるのに、突然崖から突き落とすように人を傷付ける事をする。そういう奴って必ずいるんだよ、悲しい事にさ」
本当に悲しいとは思っていないくせに、そんな事を言うフィスカスは、とてもではないが誠実な忠告をしているとは思えなかった。
彼自身、何度もそういう目にあってきたから、なのかもしれないが。
こうして彼に苛立ちを覚えるのは、きっとそうした、人を信用しきれるまで何度も疑ってかかってしまうという、似通った部分があるからに違いない、とグレイペコーは思う。
それを認めるのも口にするのも、絶対にしようとは思わないけれど。
「……、そう言って、」
「ん?」
呟くと、フィスカスは明るい緑色の眼を眇めるようにして、グレイペコーを見た。
ぴり、と空気が、皮膚の内側が、震えるような感覚がして、酷く不快だ。
「そう言って、君だって結局、一人きりにはなれないくせに」
よく言うよ、と彼をきつく睨みつけ、吐き捨てるように言い放つと、グレイペコーは踵を返して扉の向こうへと足を踏み出していた。
ヒールの音が、やけに響いて内耳の奥にまで反響している。
*
「めちゃくちゃ怒ってるじゃないか」
は、と息を短く吐き出して、フィスカスは椅子の背もたれからずるずると落ちていく。
気怠げに視線を向け、暫く考え込むと、机の引き出しの一番上から出したのは、アニーから手渡された小さな瓶だ。
「……何も知らないでいた方が、傷つかないで済んだのにな」
閉じられた扉の先に向かって舌を出したフィスカスは、瓶に閉じ込められた青く輝くような液体を揺らして小さく呟いていた。
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