第53話 過不足の計算ばかりなの

 三区の中央にある大通りを抜けた先の先、ベビーピンクとパステルオレンジを基調とした建物を抜けて、奥へ奥へと進んでいく。

 足を踏み出す度に灰がかったくすんだ色合いの家屋が増えていくのは、この場所が三区の中でも特に荒廃しているからで、落ちぶれて社会から吐き出された人間達や、貧しくて行き場のない者達が辿り着く、ゴミ溜めと呼ばれても過言ではない場所でもあるからだろう。

 ねずみのようにぐるぐると同じような所を歩いているようで、順序通りに正しく規則的に建物の間を歩いていくのは、自分の足取りを捕捉されない為。

 少女は小さく息を吐き出し、背後に誰の気配もない事を確認しながら、慎重に先へ先へと進んでいく。

 ポケットの中に入れたものを思い出すと、いっそ駆け出してしまいたくなるけれど、絶対に誰にも気付かれてはいけない。

 それに、こんな事でビビってるなんて思われるのは、絶対に、嫌だ。

 顔を顰めたくなるのを堪え、つんとすました顔をした少女は、もう何度目になるのか判らない角を曲がると、突き当たりにある扉を見てそっと息を吐き出した。

 軋む音を立てて開いた扉の奥には、ぼんやりとした明かりを灯したカウンターがあり、後ろには酒瓶がずらりと並んでいるが、所々に化粧品や香水瓶、ぬいぐるみなどが置かれていて、荒れ放題で雑多な印象にしか見えない。

 元々、そう見えるように作ってはいるのだけど、と少女が周囲を見回せば、カウンターの奥からひょっこりと一人の女性が現れた。


「アニー、おかえり」


 その声を聞くなり、少女——アニーは大きく息を吐き出した。

 これまでの緊張感が、一気に開放されていくのが分かる。


「ただいま、シンシュ」


 シンシュと呼ばれた女性は、ひらひらと右手を振って笑っている。

 その手は手袋に包まれているけれど、薬指と小指の部分だけが切り取られたかのように欠落していた。

 生まれつきのものであるからか、生活に支障をきたす事はないし、何より、彼女は料理上手で手先が器用だ。


「はは、疲れた顔してんね。後で美味いもの食わせてやるから待ってな」

「あと甘いものも頂戴!」

「わかったわかった」


 フィスカスならそっちにいるよ、と言われてアニーが視線を向ければ、所々が剥げてしまった革張りのソファーに座る女性と、その前にしゃがみ込むフィスカスの背中が見えた。

 よく見れば、緩く巻いた長い髪の女性が、フィスカスの肩にしなだれかかっている……、ように、見える。

 こんな朝っぱらから何をしているのよ、と文句でも言ってやろうとした瞬間、女性が顔を上げた事で、アニーはぐっとそれを飲み込んだ。

 彼女は、アニーより三つ年上のエルダだ。

 おっとりとしていて明るい性格をしている女性で、皆の姉のような存在である。

 スカートから覗くしなやかに伸びた右足は艶やかだが、反対の左足は、膝から先がない。

 フィスカスが触れているのは、その左足と連結するように取り付けられた義足部分で、つるりとした頑丈な素材で出来たそれは、自分達が今までどんなに懸命に仕事をしてきたとしても、絶対に手に入れる事が出来ない程の値段がするのだと、アニーは知っている。

 アニーは眉を下げて近づくと、フィスカスの邪魔にならないよう、小さな声でエルダに問いかけた。


「エルダ、義足の調子悪いの?」

「うん。少し合わなくなってきたみたいで、歩く度に痛くてね。フィスカスに頼んで調整して貰ってたのよ」


 そう言って笑うエルダは、生まれつき右足の膝から下が欠損した状態で生まれてきたという。

 この場所にいるのはそんな女達ばかりで、そのせいで、自分達はこのゴミ溜めに捨てられたのだ。

 たった、それだけで。

 だけど、ここにいる皆はそれを理解しているし、受け入れてもいる、とアニーは思う。

 理解出来ても、受け入れていたとしても……、納得は、出来ないけれど。


「エルダ、これでどうだい?」


 フィスカスが立ち上がってそう問いかけると、エルダは不安げな顔で恐る恐る左足を動かしている。

 少しの間、ぎこちなく立ち上がったりゆっくり歩いて確認すると、エルダはにっこりと笑って見せた。


「うん、いい感じ! やっぱりフィスカスに頼んで良かったあ」


 ぱっと華やぐように笑うエルダに、フィスカスはごく控えめにだけれど、確かに嬉しそうに笑っている。

 アニーはその様子を見て、フィスカスの腕に抱きつくと、ぷくと頰を膨らませてみせた。


「ねえ、フィスカス! 例のヤツ手に入れんのめっちゃくちゃ大変だったんだけど!」

「悪い悪い。で、手に入ったんだな?」


 フィスカスが問いかけるけれど、アニーは上手くそれが聞き取れなくて、首を傾げた。音が湾曲しているようで、上手く聞き取れない。

 眉を下げて笑んだフィスカスは、アニーの目を見てきちんと聞き取っているかを確認しながら、ゆっくりと同じ言葉を繰り返した。

 アニーは片耳とその聴覚を失っている関係で、時折、人の話す声を聞き逃してしまう事がある。

 僅かに歪むように聞こえる彼の声と共に、唇の動きを合わせて見ていたアニーは、ああそう言う事か、と納得して小さく何度も頷いた。

 幼い頃は、何で一度で分からないのだと罵られ、殴られる事が当たり前だったけれど、フィスカスや仲間の女達は、全員がこうしてアニーが分からなければ何度だって同じように教えてくれる。

 それが、どれだけありがたい事か。


「あるはあるけど、かなりヤバめだったから追加で報酬が欲しいんだけど。ね、いいでしょ?」

「アニーの追加報酬はエグそう」

「確かに」


 けたけたと笑う二人に、「シンシュとエルダは黙ってて」とアニーは一蹴した。

 だって、今回は本当の本当に怖かったんだから。

 アニーが不満げにしていると、軋む音を立てて扉を開けてまた一人、誰かが帰ってきたらしい。

 中に入ってきたのは、砂色の外套を頭からすっぽりと羽織ってたガーラで、被っていたフードを外すと、短い髪から覗く隻眼がアニーをちらりと見た。


「ガーラどこ行ってたのよ! あたしめちゃくちゃ大変だったんだからね!」

「はいはい。頑張って働いてて偉いな、アニー」


 ひらひらと片手を振って適当にあしらいながら視線を寄越したガーラを労うように、フィスカスは彼女を見つめて小さく頷いた。

 目が合うと、夕焼け色の隻眼は柔らかに細められている。

 ちょっと何見つめ合ってんのよ、とアニーがわあわあと騒いでいると、ガーラが呆れたような顔で頭をがしがしと撫でるので、アニーはますます機嫌を急降下させてしまう。

 子供扱いすんな、やめろ、ばーかばーか、と口汚く悪態を吐くけれど、ガーラは気にせずシンシュとエルダに手を振って挨拶をしていて、全く気にもかけやしない。

 むう、と頬を膨らませたアニーがフィスカスに甘えるように腕を引くと、彼は笑みを浮かべて首を傾げていた。


「ねー、フィスカス。それよりさ、本当に大丈夫なの? アレ、追えば追うほどヤバいやつだよ?」


 先の依頼をこなしてきたものの、今更不安が募ってきてしまって、アニーがそう言うと、フィスカスは肩を竦めている。


「これが俺のお仕事だからね」

「あたし達の、だろ」


 フィスカスの言葉を訂正するようにガーラは言い、エルダとシンシュが同意を示す為に次々と頷いた。


「そうよ、その為に私達がいるんじゃない」

「フィスカスがうちらを助けてくれた時から決めたでしょ。今更そんな事でびびってんじゃないよ」

「それは、そうだけどさあ……」


 確かに覚悟はしているし、これが自分達にとっても彼にとっても最善の選択だという事は、アニーも理解している。

 それに、何を言った所で、彼が生き方を変えるつもりがないのは、誰もがわかっている事だ。


「追加で報酬は払うし、アニーに危険が及ばないよう、暫く身を隠せる所はこっちで用意してあるよ」


 まるでわかっているかのような言葉と、ぽん、と頭を撫でられる感触がして、アニーは不満でいっぱいになっていた顔を上げた。


「いつもありがとう、アニー」


 そう言って申し訳なさそうに笑うものだから、アニーはうぐぐと堪えながらも、結局は感情が爆発してしまって、ぎゅうと拳を握り締めた。

 わかってやっているならタチが悪いし、わかっていないなら始末に負えない。


「あーもー! そうやって言われたら頑張るしかないじゃん!」


 ばーかばーか、と言いながらアニーがフィスカスに抱きつくと、どさくさに紛れて何してんのよ、とエルダとシンシュがぎゃあぎゃあと非難している。


 ここにいる皆は全員フィスカスが好きだし、彼を大事に思っている。

 ——彼が、ある女性の為だけに、動いているのだとしても、だ。

 フィスカスがその人の為に生きようとしていて、その人の為になる事が、こうして皆を助けているのだとしても。

 アニーは考えて、小さく息を吐き出した。

 そんなフィスカスだからこそ、皆は彼を助けになろうとしているし、自分も彼の助けになりたい、と思うのだ。

 何だか不毛な恋でもしてるみたい、と呆れて溜息を吐き出し、口先を尖らせたアニーが顔を上げると、ガーラが不思議そうに首を傾げている。

 エルダとシンシュは楽しそうにきゃらきゃらと声を上げて笑っていて、アニーはその景色を眺めて手のひらをそっと握り締めた。

 自分が此処にいるのは、此処しか居場所がないから、じゃない。

 そう思える事に、まるで、祈るような気持ちになってしまう、とアニーは思う。

 神様なんてこの世界にいないと生まれた時から知っているけれど、それでも、こんな救われたような気持ちになれたのは、こうして此処にいられているからだ、と。


「フィスカス、これ渡しておくね」


 持って帰るの、めちゃくちゃ怖かったんだから、と甘えるようにアニーは言って、ポケットに入れておいた小さな瓶をフィスカスに差し出した。

 アニーが数ヶ月前から大変な思いをして、どうにか手に入れた一品だ。

 中に入っているのは、鮮やかな青色の液体で、光にかざすときらきらと輝いて見える。


「ありがとう」


 フィスカスは瓶を手に取ると、小さく息を吐き出して、ゆっくりと明るい緑の瞳を細めてそれを眺めていた。

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