第2話 深海に沈む欠片たち

 方向感覚を失う程の白い霧で覆われた森の中は、手入れなど一度たりともされた事がないかのように自然のあるがままの姿で育っているので、樹木の枝は四方に伸ばされ、道らしい道はない。

 その為、走り抜けて行く際、頰や足に擦り傷を負ってしまう事も少なくはなく、地面も柔らかいので、少し油断してしまえば花びらに足を取られて滑ってしまう。

 転げてしまいそうになるのをどうにか堪え、走るその先、視界が開けていくのを感じて、少女はずれてきた帽子を被り直し、口端を引き上げた。

 肩まで伸ばした薄紅色の髪を揺らしたその少女——リグレットが身に付けている紺を基調とした制服はまだ真新しく、身体に馴染んではいないので少し窮屈だけれど、気にはしていられない。

 急がなきゃ、と地面から張り出た木の根を軽快に飛び越えていく。

 その傍には薄茶色の毛並みをした狼が駆けていて、時折様子を伺うように、彼女の顔を見上げている。

 青と白に満たされている森の中は、人はおろか、動物や虫の気配でさえ一切しないけれど、リグレットは少しも怖がる様子はない。


 記憶が朧げな程に幼い頃、母親はこの場所へとリグレットを連れてきた。

 

「大丈夫、必ずまた会えるからね」


 そう言って手を離し、去って行った母の顔を、リグレットはもう、思い出せない。

 自分は捨てられたのだ、と理解したのは家族として迎え入れてくれた人達と暮らし始めて何年もしてからだけれど、きっと母には何か事情があったのだろう、とリグレットは母親を恨む事もなく、純粋にあの言葉を信じている。

 人々から忌避される、毒の霧が蔓延した森の中に置いていかれたとしても、あの時の母は、確かに淋しそうな声をしていたから。

 だから、決してこの場所を、恐ろしいものとは思えないのだ。


 行く手を阻むような木々を抜けた先、明るくなった視界に広がるのは、森を覆うようにして設置された背の高い金属製の柵と、聳え立つ大きな門。

 リグレットはぱっと顔を輝かせると、腰に取り付けた容量いっぱいに詰め込まれて膨れている鞄の中を、慌てて漁った。

 鞄には沢山のポケットがついていて、その中から金色に光る懐中時計を取り出すと、リグレットの青い瞳は大きく瞬いている。


「キナコ、見て! 今日は新記録!」


 ぱっとその場でしゃがみ込み、側にきちんと座って待っている、薄茶色の毛並みをした狼に懐中時計を見せた。

 キナコと呼ばれた狼は、けれど視線を逸らしながらぴすぴすと鼻を鳴らしていて、まるで呆れているかのよう。

 そんなつれない態度に、リグレットは負けじと両手を握り締めながら懸命に訴える。


「確かに間に合ってはいないけど、ちょっとは縮まったんだよ?」


 ね、と言いながら同意を得ようと狼の視界に入ろうとするが、無情にもさっと顔を背かれてしまい、リグレットは頰を膨らませながらも、やがて深く長く息を吐き出した。

 新記録を達成していようとしてなかろうと、決められていた時間はとうに過ぎたのだ。

 となれば、この後に起こる事は一つしかない。


「やっぱり、怒られるんだよね?」


 嫌だなあ、と項垂れて溜息を吐き出すと、狼のしっとりと濡れた鼻先が手のひらに押し付けられるので、リグレットは観念したようにへらりと笑って立ち上がり、森と外を隔てている背の高い金属門へと近づいた。

 こうした所が呑気で気楽なリグレットと周囲から揶揄される理由の一つなのだろう、などと思いながら服の中にしっかりとしまい込んでいた鍵束を取り出して、堅牢な門に取り付けてある鎖のついた錠前に差し込んだ。

 がちゃん、とやけに大きい音を鳴らして開いた錠前は一つだけではない。

 それは一つの扉に対して五つも設置されてあり、そのどれをも解錠し、鎖を外して扉を開けると外に出て、リグレットは当然のように再びそれらを開く前と同じように閉じていく。

 最後に鍵がかかっている事、門が開かない事をしっかりと確認したリグレットは、ふう、と息を吐き出すと、森の外に広がる景色を見つめた。

 第一区と呼ばれるこの場所は、この国の中でリグレットが一番に馴染みがあり、淡い白の色合いをした家並みが続いていて、遠くには大きなうっすらと青みを帯びた白い城が佇んでいる。

 城から広がっていくように街が形成されていて、この国一番の人口を誇る区画ではあるけれど、早朝の今はまだ賑やかさは伝わってはこない。

 そもそも、森に近い場所に建物を建ててはいけない、という決まりがあり、その入り口には大きな建物が佇んでいるので、街の喧騒など然程届きはしないのだけれども。

 とん、とん、と爪先を地面に当て、ブーツについた泥を落とし、早まっていた鼓動を落ち着かせるように深く呼吸を繰り返しながら白い建物へと足を向けると、ふと立ち止まって、再び視線を森へと向けた。

 この国ではブルーブロッサムと呼ばれる真っ青な色をした桜は、空に近い場所に行くにつれて彩度を高め、明るい色合いに変わっている。

 散り際が近い事を示しているその色合いに、リグレットはそっと笑みを零した。

 この国は、土地の中央を青い桜が侵食している為に、三つの区画に分かれている。

 それぞれの区画で独立して生活出来るような仕組みにはなっているけれども、桜の開花時期は行き来が出来ない為に、家族や友人知人、恋人など、分かれて生活をしている者も少なくはない。

 そうした人々の連絡ツールは手のひらに乗る程の小さなメッセージカードだけ。

 そして、それを人々に届けるのが、リグレットの所属している伝言局である。

 国が運営する伝言局は、毎日国民達が書いた、一人一枚を限度にした手のひらに乗る程のカードを回収し、それを仕分けして、それぞれの区画を移動した後、受け取る人の元へと届ける、という業務を行なっている。

 その中でも、特殊配達員と呼ばれる者達は、出生時に行われる検査でブルーブロッサムの毒素を受けにくい体質の人間、『抗体持ち』であることを確認され、十五歳になると強制的に伝言局へ連れて行かれ、こうして森の中を横断する配達業務に就かされる。

 強制的に労働を課される為、国民達の間にも賛否両論あるようだが、それでも他の仕事よりも圧倒的に給与がいいらしく、羨ましい、と言う者も少なくはない。

 けれど、抗体持ちは圧倒的にその数が少なく、年齢が上がるにつれて抗体の量も少なくなってしまい、日々人手が足りないのが現状だ。

 まだ自分がその中の一人である事に、実感が湧いてこないのだけれど、と視線を狼に向けると、綺麗な線を描くその頭がふと上向いた。

 その瞬間、やけに大きく長い影が自身の後ろから伸びているのを見て、リグレットはぎくりと肩を揺らしてしまう。

 そのシルエットに怯えてしまうけれど、それと同時に耳に届く聞き慣れた靴音に慌てて振り返ると、予想通りの人物がにっこりと笑って立っている。


「リグレット、おかえり」

「ペコー!」


 最悪の事態を免れた! とぱっと表情を明るくさせたリグレットは急いでグレイペコーへと駆け寄り、その勢いのままに抱きついた。

 馴染んだ茉莉花の香りとほのかな温もりに安堵して思わずぎゅうと力を込めると、そっと骨の形に沿うように頭を撫でてくれている。

 幼い頃からずっと当たり前のようにされていた仕草に安心しきってしまい、リグレットの青い瞳はゆっくり細められていくけれど、グレイペコーは夜明け色の髪を揺らして、そんなリグレットの顔を覗き込んでいる。


「で、リグレット。今何時かわかってる?」

「え?」


 突然の問いかけに、リグレットは浮かべていた笑みを引き攣らせていく。

 グレイペコーは声を上げて怒るような性格ではないが、家族として悪い事は悪いと注意をするし、教育係として説教はするし、何より、絶対に言い訳を許しはしない。

 ええと、あの、と誤魔化すように口から漏れる言葉にならない言葉達に、グレイペコーの笑みは次第に張り付いたもののようになっていくのがわかる。

 助けを求めて傍に控えていた筈の狼を探すが、いつの間にかグレイペコーの側に移動していて、きちんとおすわりをしている。

 耳をぺたんと下ろして尻尾を振り、絶対服従です、と言わんばかりの仕草を見せる狼に、裏切り者、と内心で少女は非難した。

 けれど、そうなるとここには味方など一人もいないのだ、と悟って、リグレットと呼ばれた少女は肩を縮こませると、「ごめんなさい」と呟いていた。

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