その日、さよならを言うために

七狗

第1話 いつか、さよならを言うために

 まだ肌に馴染まない紺色の制服に、揃いの帽子。

 肩の辺りで切り揃えた薄紅色の髪の毛を揺らして、少女は静かに呼吸を繰り返し、そっと視線を上げた。

 目の前に高く聳える門は金属製で、鎖で巻きつけられた頑丈な錠前が五つも付いている。

 首から下げていた鍵束を取り出し、一つ一つに鍵を差し込んで開錠しながら、少女は震える息を吐き出した。

 真白に広がる視界に、はらはらと落ちてくる花びらは、海よりも空よりも鮮やかな、青。

 雪が降った後のようにくまなく地面を青色で覆い尽くすそれに、しっとりと濡れた鼻先を近づけているのは、傍にいる狼だ。

 ふすふすと鼻を鳴らして見上げてくる狼に、緊張でいっぱいだった少女の気持ちはそっと解けてしまい、ふふ、と吐息混じりの笑みが零れていた。

 全ての鍵を開錠し、重い金属門を開いて見つめる場所は、真っ白な霧で満たされた、青い桜の群生する森の中だ。

 水分を含んだ幹は黒く濡れ、手入れの行き届いていない枝葉は四方に伸びている。

 森に足を踏み入れ、先程開いた鍵を全て閉め直し、扉が開かない事をしっかりと確認すると、少女は腰に取り付けた鞄から、小さなコンパスと懐中時計を取り出した。

 少女はそれらを、まるで祈るようにぎゅうと握り締める。


「行ってきます」


 どうか見守っていてね、と唇から零れる言葉は、空気へと溶けていく。



 ***



 穏やかな陽光と心地いい風が吹き込んでくる室内で、癖のある黒髪の男はふと顔を上げた。

 きっちりと着用した制服は金の縁取りが施された紺色で、右耳にはめた龍の鱗を思わせる模様が彫られた銀のイヤーカフが、窓から差し込む陽光で鈍く光っている。

 襟元をほんの少し緩め、処理していた書類を几帳面に整えてから机に置いた男は、小さく息を吐き出して席から立ち上がると、レースのカーテンが緩やかに揺れる窓際に立った。

 外は僅かに肌寒く、室内へ風が入り込む度に、微かに緑の香りがする。

 窓の外には鮮やかな青い色をした森が見え、それを視界に入れた瞬間、男の金眼は微かに揺れていた。


 ブルーブロッサム。

 この国ではそう呼ばれる桜は、その名の通り五つの花弁を鮮やかな青い色で染めている。

 年に二回だけ花が散り、それ以外の時期はずっと開花しているという不思議な桜で、尚且つ、その花からは強い毒性を持つ白い霧が放出されているのである。

 ブルーブロッサムの森は国の中央に広がっており、自由に行き来の出来なくなった国内は、三つの区画に分断されている。

 毒素を取り込んだ量によっては死に至る事もある為、国は森を厳重に管理していて、開花時期でない限り通行は許されない。

 けれど、例外的にそこを通れる者達がいる。

 ブルーブロッサムの毒素に耐性を持ち、ある業務を行う為の訓練を行なった者達だ。

 その者達が所属しているのが、男が現在いるこの場所、『伝言局でんごんきょく』である。


 男が窓から森をぼんやり眺めていると、早朝のしんと静まり返った屋外からコツコツと足音を立ててやってきたのは、夜明け色の長い髪を三つ編みにした人物で、男の存在に気付いたのか、紅い瞳を猫のように細めて笑みを浮かべている。


「おはよう、ノル。今日もご機嫌斜めだね」


 ふふ、と吐息混じりに笑って、室内を覗き込むようにして窓枠に肘を付いている人物——グレイペコーは、口ではそう言いながらもどこか楽しげだ。

 同じ形の制服を着用していた筈なのに、いつの間にかすっかりと改造されてしまって見る影もない服装に、ノルと呼ばれた男は静かに息を吐き出した。

 女性とも男性ともつかないその中性的な容姿に似合っていて、一目見てわかるよう、色までは変更していない。

 制服の改造については上司が各々好きにしていいと言って聞かないし、グレイペコーの在り方を示しているので、ノルとしてもそれに対して何も口にする事はない。


「もしかして、うちの可愛い子はまた迷子?」


 不機嫌な理由を言い当てられ、ノルはグレイペコーをじろりと睨んだ。

 うちの可愛い子、とはグレイペコーの家族であり妹である少女、リグレットの事である。

 伝言局と呼ばれるこの場所の新人局員であり、グレイペコーはその教育係でもある筈なのだが、どうも身内に甘いらしい。

 度々注意をしている所は見かけるのだが、やんわりとした言い方をしてるので、ノルからしてみれば本当にちゃんとしているのか、と言いたくなる程だ。


「どうしてコンパスを持ち歩いているのに迷子になるんだ。本当に理解出来ない」


 ノルの言葉に「あはは!」と声を上げて笑うグレイペコーは、先日起こした彼女の失態について思い出してしまったのだろう、身体を折り曲げるようにして笑い転げているが、ノルには到底そう考えられはしない。


「こないだは東と西を間違えたんだよね。しかもまさか二区に行く筈なのに三区の方まで行っちゃうなんてさ。もー、本当にリグレットはしょうがないんだから」

「笑い事じゃない。方向がわからないどころか、時間も守れないなんて命知らずにも程がある」


 込み上げてくるような笑いを息を吐き出す事でどうにか抑えたグレイペコーは、再び窓枠に凭れながら呑気に伸びをしている。

 新人局員の教育係にするのは間違いだったか、と呆れたようにノルが言えば、ごめんごめん、と軽率な謝罪が放り投げられていた。


「まあ、リグレットは抗体値こうたいちが異常に高いでしょう? あの子だけだよ、あの森で三時間以上潜って平気な顔してるの」

「そういう問題じゃあない。それで給与を貰っている以上、決まりや時間を守れないのは論外だろう」


 伝言局は国が運営しているのだ。 

 国民からの税金で賄われて成り立っている業務である以上、それなりの自覚を持ってもらわねばならない、と言えば、グレイペコーは肩を竦めていた。


「リグレットはちょっと抜けてるけど、一生懸命で頑張り屋さんなんだから、あまり怒らないであげて欲しいな」

「抜けてる? ミスばかりしてるじゃないか」


 グレイペコーは甘やかし過ぎだ。

 避難するような視線を向けてそう言えば、赤い眼を丸くして、戯けたように両手を上げていた。


「もう。ちょっとは愛想良くした方が良いんじゃない?」

「愛想がいるのは受付業務だけで十分だろ」

「……、ねえ、ノル?」


 ちょっと待って、と不思議そうに眼を瞬かせたグレイペコーは、長い指先を伸ばし、ノルの前髪を掻き上げるようにして額に触れる。

 ふわりと鼻先を擽る茉莉花の香りと皮膚から伝わる冷たさに、金眼を細めたノルを見て、グレイペコーは途端に顔を顰めていた。


「やっぱり。君、具合悪いんじゃないか。少し休んでおいでよ」


 自身の状況を言い当てられ、途端にノルは押し黙ってしまう。

 グレイペコーは人の機微に聡い所があり、どんなに誤魔化していても大抵見抜かれてしまうのだ。

 絶対にあの育ての親のせいだ、と溜息を吐き出してノルは室内の机の上を見た。

 まだ処理をしなければならないものが多く残っている。


「いや、いい。これくらいなら問題ない」

「ノル」


 誤魔化そうとすると、グレイペコーが聞き分けのない子供にするように両頬を手のひらで押さえてくるので、じわりと伝わってくる他人の体温に、嫌悪感とまではいかないまでも、どうにも耐え難さを感じてしまって、ノルは思わず眉を顰めてしまう。

 その様子に何か思う所があったのか、グレイペコーは困ったように笑うと、ぱっと手を離して頭を傾けていた。


「君の仕事はいざとなったらボクでも他の人でも出来るけど、君の代わりは君しかいないんだから、無理をしないで、って言っているんだよ」


 わかるよね、と言われて、ノルは黙って視線を俯かせてしまう。

 それはまるで子供を宥めるような言い方で、そんな風に言われたらこちらが悪いようではないか、と思えたからだ。


「リグレットはボクがちゃんと注意しておくから」


 ね、と言いながら、事もあろうに窓から器用に部屋の中へと侵入したグレイペコーは、机の上の水差しとグラスを見つけると、それらをノルに押し付けるようにして手渡した。

 誤魔化していたものの、改めて自身の状況を確かめると、先程まで我慢出来ていた筈の痛みは、目の奥の更にその奥、頭の中をがんがんと殴られているような痛みに変わって広がっていて、思わず顔が歪んでしまう。

 この状態では、机の上に重ねられた紙束に書かれた文章など目を通す事すら難しいだろう。

 右耳にはめた銀のイヤーカフに触れながら、仕事を継続する事を早々に諦めて部屋の扉までふらふらと歩むノルは、振り返る事もせずに開きかけた扉の前で、悪い、と掠れた声で呟く。

 どういたしまして、と軽やかな声が返ってくるのを聞くと、ノルは静かに部屋を出て行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る