第3話 子供じみたエチュード
「リグレット、ちゃんとついてこないとまた迷子になるよ」
余所見をしていたせいでそう言われ、リグレットは慌てて前を向いた。
夜明け色の長い三つ編みを揺らし、ブーツの高いヒールを鳴らして歩く後ろ姿がいつの間にか廊下の先にある。
グレイペコーとは身長差があるので、気をつけていなければすぐ見失ってしまうだろうし、そんな事になったなら、未だに局内を把握しきれていない自分はあっという間に迷子になってしまうだろう、とリグレットは思う。
森のすぐ側にある伝言局の中はとても広く、新人局員であるリグレットはどこに何が配置されているのかという事以前に、現在地が何処なのかすらも理解出来ていない。
流石に職場で迷子になったなどと知られたら、あちこちで笑いの種にされるに決まってる、とリグレットは急いでグレイペコーの側へと駆けていく。
壁や床など建物全体を白で統一された伝言局の中は朝の静けさから少しずつ話し声や物音が増えていき、その騒がしさから局員達が集まっているのを感じられ、すれ違う彼らに頭を下げながら挨拶をしたリグレットは、ようやく朝の始まりだ、と密やかに思った。
ブルーブロッサムの森を行き来するリグレットのような特殊業務を行う配達員達は、一般の局員達に混じって仕事をする事もあるけれど、基本的には森を行き来してカードの回収と配達を行っている。
早朝から青と白に満たされた森の中へたった一人で入るので、どうも夢の中の出来事のように感じられてしまい、一日が始まったような気がしないのだ。
グレイペコーの後をついて行き、辿り着いたのは青い色の扉の前。
そこは特殊配達員だけが使用出来る職務室であり、此処にもしっかりとした鍵が取り付けられている。
リグレット達の業務は機密事項が多く、業務内容を公言しないよう決められている上に、破った者には罰則も与えられる。
その為、一般の局員などに知られないよう、こうして厳しく管理をされているのだ。
室内に入ると中は広く、長テーブルと椅子が幾つも設置されていて、奥には大きな本棚が置かれている。
窓の向こうには綺麗に整えられた中庭が見え、先程まで側にいたキナコが他の狼達とのんびりと日向ぼっこをしている。
その様子を微笑ましく思いながら、本棚の近くの席に座るよう促され、リグレットは素直にそこへ座り、辺りをきょろきょろと見回すが、他に人の気配はない。
「ペコー、ノルは?」
ノルはこの伝言局で特殊配達員を束ねる役目であり、現在不在中の局長の代わりも務めている。
だからこそ人一倍規則や時間に厳しく、失態を繰り返すリグレットは毎回のように怒られているのだ。
怒られるとわかっているからこそ会いたくないのは確かだけれど、一番に怒りに来ないというのもどうにも不安になってしまい、リグレットが問いかけると、紅い眼を柔らかく細めたグレイペコーは指先でとんとんと自らの頭を叩いている。
「おやすみ中。朝礼もあるし、あと少ししたら起きると思うよ」
ノルは睡眠時間が少なくなると頭痛を引き起こす体質であり、僅かな時間でさえ睡眠に費やしていて、いつも睡眠薬や鎮痛剤といった薬が手放せない。
今回も無理をしているノルを見かねて休ませてやったのだろう、とリグレットは思い、「昨日眠れなかったのかな?」と問いかけた。
グレイペコーは少し悩んだように頭を傾けていて。
「それもあるとは思うけど……」
まあ、よく無理をする人だからね、と言って困ったように笑っている。
どういった事情かまでは聞かされていないけれど、ノルは幼い頃からリグレットの家に頻繁に預けられていた。
昔からとにかく病弱で、よく高熱を出したりあちこちに痛みが出てしまったり咳が止まらなくなったり……、と家に滞在中も何かと体調を崩しては、彼と然程年齢の変わらないグレイペコーが、甲斐甲斐しく世話を焼いていたものである。
その体質を彼自身不快に思っているのは、不調を隠そうと無理を重ねて倒れてしまう事からもわかっていて、それ故に事情を知っている者達は大抵彼が症状に悩まされている事に気付いて密かに休ませているのだ。
そんな貴重な睡眠時間を削ったのは、自分の失態のせいもあるのだろう。
そう思うと、ぎゅうと胸の奥が痛み、情けなさで自分の中身が小さくなるような心地になってしまう。
後できちんと謝らないと、としょぼくれていると、ぽん、と帽子越しに頭を柔らかに叩かれて、リグレットは視線を上げた。
「だから、今日はボクが代わりに報告聞くからね」
にこ、と音が鳴りそうな程の笑みを浮かべたグレイペコーを見た途端、説教体制に入ったのをはっきり理解してしまい、リグレットは思わず口端を引き攣らせてしまう。
「え、ええと……、ノル、怒ってた、よね?」
リグレットの問いかけに、グレイペコーはにっこりと笑顔を向けたまま、否定も肯定もしてはくれない。
それが異様に怖さを強調していて、リグレットはじりじりと後退してしまいたくなるが、逃げ道は何処にもない。
「リグレット、ノルが指定した時間は何時だった?」
「……三十分くらい前、かな?」
その答えに、グレイペコーは制服のポケットから金色の懐中時計を取り出すと、文字盤をリグレットに見せつけるようにして、苦笑いを浮かべている。
「四十八分前。ノルから聞いてるよ。時間は正確に見てないと駄目って言ったよね?」
その言葉に、でも、と思わず反論しようと声を上げてしまい、リグレットは慌てて口元を押さえた。
ここは家ではないし、この場所ではグレイペコーは家族ではなく教育係としての立場だ。
言い訳をしたり駄々を捏ねたとしても、それが許される理由にはならない。
そう理解をしている筈なのに、幼さが残る心の内は悔しさの方が強く滲み出てしまって、リグレットは思わずぎゅうと顔を顰めてしまう。
「どうして時間を守らなきゃいけないのか、ノルにも何度も言われてる筈だよね?」
「ブルーブロッサムの毒素は、抗体持ちでも長時間吸い込むと危ないから……」
そう言うと、グレイペコーは静かに頷いた。
ブルーブロッサムの毒素は、体内に取り込まれた後、一定時間を過ぎると身体に異常をきたす。
初めは酩酊感や軽い眩暈、それから頭痛、発熱、嘔吐など徐々に症状が進み、最終的には呼吸困難、心停止さえをも引き起こすのだ。
抗体持ちですら、森の中にいられるのは一度につき三時間を限度と決められているし、それよりも前に体調を悪くしてしまう事の方が多い。
だが、リグレットだけは極端に高い抗体値を保持している為か、三時間を過ぎそうになったとしても、平気な顔で潜っていられるのだけれど。
普通の人間であれば危険を伴う業務という恐怖から必死になって覚える事を、だからこそリグレットは危機感を抱けずにいる。
自分を置いていった母親との唯一の繋がりでもある場所なので、自然と深く潜り込んでしまうのも、その理由の一つなのだろう。
それを理解しているのだろうグレイペコーは、苦笑いを浮かべて小さく息を吐き出した。
「わかってると思うけど、何も意地悪で言ってるわけじゃないんだよ。リグレットの事を心配してるの。幾らリグレットの抗体値が高いからって、もしもがあるかもしれないんだから」
グレイペコーの言っている事は正しい。
正しいからこそ、胸底がじくじくと収縮して痛み、申し訳なさでいっぱいになってしまうのだ。
本当はもっときつく叱られてもおかしくはないのだろうに、とリグレットは冷たくなっていく両手をぎゅうと握り締め、唇を噛み締める。
「……ごめんなさい」
絞り出すように言った言葉に、グレイペコーは「よく出来ました」と呟くと、額から骨に沿うようにゆっくりとリグレットの頭を撫でた。
幼い頃からいつも泣いた後に慰めてくれる時の仕草だ、とリグレットはすっかり安心して表情を緩めてしまうが、目の前に白い紙を一枚差し出され、ぱちぱちと青い眼を瞬かせる。
「じゃあ、今後の対策を考えて実行しようね」
これで今月三回目だから、と言うと、グレイペコーは報告書をひらひらと揺らしてにっこりと笑っている。
リグレットは何も言えず、ただしおしおと申し訳なさそうに頷いた。
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