第21話 ワンダーランドの不在票

 どうしよう。

 地面に転がるように丸まっているそれを遠目に見ながら、ヴァニラは腕いっぱいに抱えた荷物を持ち直して、そう考える。

 少し前に規則を破ったリグレットに付き添ってカードを届ける為に民家を訪れたり、フィスカスのせいで様々な事によく巻き込まれる事が多いのだけれど、それにしたって、自分からわざわざこんな事態に巻き込まれに行くのは、どうなのだろう。

 しなければいけない仕事をして、やっとそれが終わったかと思えば家に帰って食事の用意をしなければいけないし、それから、洗濯物を畳んだり、弟妹達を風呂に入れる準備をしたり、片付けをしなければいけない。

 たくさんの、しなければいけない、に押し潰されてしまいそう、と、思う。

 どんどん積み重なったそれらが、自分の中の空気を奪い取っていって、どんどん息苦しさが増していく。

 そんな状況で人助けまでしていたら、今度こそ倒れかねない。

 三区の大通りから外れた、べビーピンクとパステルオレンジの壁が続く道端で蹲っているその黒い塊は、身体つきから見るに、十代から二十代の男性だろう。

 薄汚れた黒っぽい衣服に身を包んでいるので、浮浪者かもしれないし、こちらが襲われる可能性もゼロではないのだから、無視をするか、警ら隊にでも頼むのが一番いいに決まってる。

 だけど。


(放っておく事も出来ない、よね……)


 病弱な母を持つせいか、それとも、幼い弟妹達に人様に迷惑をかけてはいけませんと言い聞かせているせいか、こうして街角に蹲っている人を放っておくのはどうも良心が痛む。

 もし大きな病気や怪我をしていたら危険だし……、あれこれ言い訳を考えながら荷物を置き、その人物へと近付くと、ヴァニラは恐る恐る声をかけてみる。


「あ、あの、大丈夫ですか?」


 声をかけると、黒い塊になっていたその人物は、ふるりと身体を震わせて、ゆっくりと顔を持ち上げた。

 頭からすっぽりと被っていたフードが脱げ、現れたのは薄汚れた橙の髪。

 その隙間からは、灰青の鋭い瞳が見える。

 丁度リグレットと同じくらいの年齢の少年のようで、痩せてはいるが、背丈はヴァニラの頭二つ分くらいは差がありそうだ。

 頬には乾いた血がこびりついた傷跡があり、口端は腫れてあざが出来ているので、喧嘩でもしていたのだろうか。

 不安になりながら見守っていると、きょろきょろと視線をあちこちにさまよわせた彼は、見下ろしているヴァニラに気がつくと、犬猫のようにぴゃっと肩を震わせるなり、後ろの壁にくっつくように後ずさって、鼻の頭にぎゅうと皺を寄せている。

 その様子から、とりあえずそこまで悪い人間ではないのだろう、と安心して息を吐き出したヴァニラは、ポケットからハンカチを取り出すと彼の前にしゃがみ込んだ。


「大丈夫ですよ。貴方に危害を加えたりしませんから。怪我をしているから、手当が必要じゃないかと思って」


 自分の頰や口元を指差してそう言うと、彼は訝しげな視線を向けながらも、不思議そうに首を傾げている。

 ハンカチを差し出して傷に当てようとすると、すぐに警戒心をあらわにするので、彼が落ち着くまであまり刺激しないよう、ヴァニラはそっと彼を観察した。

 薄汚れたフードがつきの服は真っ黒で、裾や袖はボロボロにほつれている。

 肌は陽に焼けていて浅黒く、行動の幼さとは対照的に、耳には皮膚が見えない程の沢山のピアスが付けられている。

 何より異質なのは、首につけられた、細い鎖のついた首輪だ。

 よくわからないけれど、最近の流行りなのだろうか……、と、ヴァニラは戸惑ってしまう。

 とにかく目が離せない弟妹達の世話や、一日に大量の洗濯物をしたり大量の食事を作ったり弟妹達が片っ端から汚して回る家の中を掃除したりだとか、そういった家事に追われている為に、ファッションというものは一番後回しにしてしまう問題であって、大抵は動きやすくて汚れにくく、無難で目立たない服ばかりを選んでしまっている。

 何より、伝言局では制服の着用が義務である。

 制服はいい、とヴァニラはしみじみ思う。

 毎日着ていく服を考えなくていいし、丈夫で汚れにくい。

 改造して着用している者もいるが、元々のデザインはシンプルで飾り気もないし、襟元や袖にフリルのような飾りがあるデザインのブラウスなどを中に着用するだけでも雰囲気が変わるので、ヴァニラとしても十分自分の出来る範囲で楽しめている。

 思考に深く潜っていると、落ち着いたヴァニラの様子を見ていた少年も、少し警戒心を解いたのか、興味深そうに首を傾げてヴァニラを見つめていた。

 まるで犬猫のようなその動きに、ヴァニラは口元を綻ばせて、少年に話しかける。


「私の方で手当するのが嫌なら、教会に行けば、怪我の手当てと、少しなら食料も分けて貰えると思うけれど」

「きょう、かい?」


 聞き返した言葉はたどたどしく、どこかぎこちない。

 話慣れていないような妙なイントネーションに気付いたヴァニラは、なるべくゆっくりと彼に話しかける。


「ほら、あの建物。見えるでしょう?」


 指差した場所には三区の中でも一番大きな教会で、白い尖り屋根の先端に、小さな星が掲げられている。

 他国と違い、それほど宗教信仰の強い国ではないので、ヴァニラは礼拝に行くどころか中に入った事すらないが、スラムに近い状況に陥っている地域がある三区では、そういった救いを求めている人は少なくはない。

 人々の寄付で賄われているので質素堅実な生活を送っているだろうが、迷いある人間を追い返す事はないだろう。

 そう思って勧めてみたものの、彼はぎゅうと眉を寄せて首を振っている。


「あれ、は、だめ」

「駄目? どうして?」

「言う……、言う、した」

「ええと、言われたって事? 誰に?」


 不思議に思って問いかけるが、彼はそれ以上話す気はないのだろう、口を噤んで顔を背けてしまう。

 困ったな、とヴァニラは溜息を零して口元に手を当てて思案した。

 話し方や人慣れしていない様子からして、外国からの不法侵入だろうか。

 だとするなら警ら隊に引き渡した方がいいのは確かだが、この様子では、暴れてまた怪我をしてしまうかもしれない。

 ううん、と悩むヴァニラは、けれど、ぐうう、と鳴り響く突然の異音に、ぱちくりと目を瞬かせた。

 ぐうう、ぐうう、とまるで大きな生き物の鳴き声のような音を鳴らしているのは少年のお腹のようで、彼は困ったように眉を下げて項垂れている。


「え、と……、お腹、空いているの?」


 ヴァニラは戸惑いつつも、道の端に置いていた荷物の中から、薄紙に包まれた丸いパンを一つ取り出して、彼にそっと差し出した。

 始めは警戒して顔を顰めていた少年も、その匂いに気付くとぱっと眼を輝かせて、それから、顔色を伺うようにヴァニラを見ている。


「良かったらどうぞ。ここのパン、とても美味しいの」


 怖がらないよう笑いかけて彼の手に乗せてやると、薄紙に包まれままのパンにそのままかぶりつきそうになるので、ヴァニラは慌ててパンを取り返すと、薄紙を剥がして再び彼の手にそれを戻した。

 余程空腹だったのだろう、手のひらに乗るくらいの大きさとはいえ、丸ごと飲み込むかのようにパンを口に詰め込んだ少年は、あっという間にパンを食べ切ってしまい、食べ終えた手のひらを見つめた後、灰青の瞳でじっと見上げてくる。

 それは、お腹を空かせた弟妹達の目に、よく、似ていて。

 今でこそお腹いっぱいに食べさせられるようになっているが、伝言局に入るまでは、育ち盛りの弟妹達には大分辛い思いをさせてしまった事を思い出し、そうしてしまうともうヴァニラは抗う事も出来ず、目の前の少年に残りのパンを差し出してしまう。

 明日の分として買ったものだけれど、また明日も買いに行けばいいだけだ。

 そう言い聞かせて、ヴァニラは薄紙を剥がしたパンをまた一つ、少年に与えてやる。

 頬に目一杯詰め込んで食べている彼は、それはそれは嬉しそうに食べるので、見ているととても気持ちがいい。

 ふ、と自然に笑みが浮かんできてしまって、気がついた時には全てのパンを食べ尽くされてしまっていた。

 少年は、けれど、再びヴァニラをじっと見つめている。


「ええと……、もしかして、まだお腹空いてるの?」


 食べ盛りの弟妹達と母親と自分、その家族分として買ってきたパンを全て食べ尽くしたというのに、少年はまだ空腹を感じているらしい。

 こくり、と頷いている少年の灰青の瞳を見てしまうと、ヴァニラはどうしても見放す事が出来なくなってしまっていて、もう、何でこんな事になってしまったのだろう、と深く長く息を吐き出していた。

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