第22話 欠けた地図の続きをどうぞ

「お母さん、ごめんなさい」


 まるで叱られた子供のような、居た堪れなくて心細く、今すぐにでも小さくなって消えてしまいたい、そんな気持ちになって、ヴァニラは顔を俯かせた。

 三区の中央にある大きな通りから少し外れた、ヴァニラが伝言局に勤めて数年後に引っ越した家の中は、それまで住んでいた場所よりそれなりには広い筈なのに、いつもと変わらず弟妹達がはしゃいでいて騒がしいせいか、何処か窮屈で息苦しささえ感じられる。

 父を亡くし、その後を追うかのように病に罹り、床に伏せる事が多くなってしまった母は、日によって日常生活をまともに送るすら難しい時がある。

 恨んだ事は、きっと、ないのだろう、とヴァニラは思う。

 母がそれだけ父を大切に想っているという事なのだろうと思えたものだし、病気に罹ってしまうというのも仕方のない事だ。

 騒がしくて忙しないけれど、あどけなくいとけない弟妹達はどうしたって可愛く思えるものだし、世話をするのも、嫌いではない。

 家の中の事をするのだって、そう。

 だけれど、時折、溺れるように、息がし辛くなる、のだ。


「どうして謝るの。心配だったんでしょう、あの子の事」

「そう、だけど……」


 母親はすっかり痩せ細ってはいるものの、先日メッセージカードを届けた家で見た女性とはやはり違う、未だ生命力を失わずにいる身体、真っ直ぐに向けてくる瞳はヴァニラと同じ澄んだ深い紫色をしていて、その事に、ヴァニラは何故だか居た堪れなくなって、視線を逸らした。

 道端で倒れていた見知らぬ少年を、何の了承も得ずに家に連れて帰ってきてしまった、というのに、母は緩やかに瞬きを繰り返し、いつものようににこりと笑って出迎えてくれたのだ。

 それは、とても有り難い筈、なのに。

 どうしてだろう、きっと反対されると思っていた、と考えて、ヴァニラは唇を緩く噛んでしまう。

 母親はヴァニラのその様子に何か感じたのか、口を開こうとしていたけれど、突然目の前に小さな弟達が飛び出してきて、それをかき消してしまっていて。


「姉ちゃん、コイツめっちゃ臭い!」

「きたなーい」

「こら! そんな事言わないの!」


 揃いの銀髪に紫の眼をした弟達は、少年を指差してそんな事を言うので、ヴァニラは思わず声を上げて叱りつけてしまった。

 が、弟達にとってそんな事は日常茶飯事で、反省しているのかいないのか、ごめんなさあい、と言いつつもきゃあきゃあと声を上げて再び家の中を走り回っている。

 件の少年は、言葉が通じる時もあれば伝わらない時もあるので、意味を理解しているのかは定かではないが、それでも弟達に彼が傷付くような事を言って欲しくはない、とヴァニラはそっと少年に眼を向けた。

 家に連れて帰ってきてしまった少年は、忙しなく動き回る幼い弟妹達に囲まれて困惑した顔をしているものの、ヴァニラと会ったばかりのように警戒はしていない。

 ほ、とヴァニラが息を吐き出すと、それを見た母親は柔らかに目を細めて、ヴァニラに言った。


「お湯を沸かしておくから、お風呂に入って貰ったら?」

「私がやるから、お母さんは休んでいて」

「今日はとても調子がいいから、大丈夫よ。それに、皆にも手伝って貰うわ」


 母親はヴァニラを安心させるように優しく笑いかけると、服の袖を捲っている。

 酷い時には青白く見える横顔も、今日ばかりは血色も良く、表情も明るいので、嘘ではないのだろう。


「ほら、皆手伝って頂戴。お姉ちゃんがいつもやってるのを見てるから、もう皆も出来るでしょう?」


 部屋の中を駆け回っている弟妹達に母親がそう呼びかけると、えええ、だの、はあい、だの、各々好き勝手に返事をしている。

 手伝いをさせるにも、こんなにも落ち着きのない子供達に言う事を聞かせるのは至難の技だ。

 それを日々痛い程身に沁みて感じているヴァニラは、はらはらして思わず母親を見るが、彼女は子供達と風呂の用意をしながら、穏やかに笑うばかり。

 どうしよう、と思いながらも買い込んだ食材を台所へと運んでいると、楽しそうな声が聞こえてくる。


「髪は櫛で梳かしてからじゃないと」

「この汚れは何度か洗わないと駄目かも」

「予備のタオルどこにしまったんだっけ?」


 こっそり様子を見てみれば、母親にくっついたり一生懸命に話をしながら、子供達はそんな事を言って楽しそうに母親を手伝い始めていて、どうやら母の言う通り、小さいながらもいつの間にか様々な事を覚えていたらしい。

 時間がかかるから、だとか、余計に面倒が増えるから、と、いつも何でもやってしまっていたけれど、やらせてあげなければ何事も覚えられないのだし、そうした機会を奪ってきたのは自分自身なのだろう。

 それなのに、自分ばかり、と決めつけていたのではないか、とヴァニラは自らの考えを恥じて、唇を噛み締めてしまう。

 ヴァニラの視線に気がついたらしい母親は、子供達に何ごとかを言いつけてから、ヴァニラの側までゆったりと歩いてくると、やわらかに笑い、両手をそっと握り締めた。

 それは、幼い子供の頃を思い出すような感覚を呼び起こすのに、あたたかさが伝わる乾いた皮膚からは、確かに過ぎた月日を感じられる。


「ずっと我儘も泣き言も言わずに頑張ってきたヴァニラが、そうしたいと言うのだもの。協力出来る事は何でもするわ」


 だからそんな顔をしないでね、と少し淋しげに母親は言い、握る手のひらにそっと想いを伝えるように力を込めるので、ヴァニラは緩やかに瞬きを繰り返して、その手を握り返した。

 そんな風に想われていたのだと、目の前ではっきりと、言葉に、形にして貰えた事で、喉の奥に詰まっていた空気がそっと抜けるよう、で。


「ありがとう、お母さん」


 むず痒いような面映いような不思議な感覚に戸惑いながら、ヴァニラは困ったように笑った。



 ***



「ヴァニラちゃん、今日は何だかご機嫌だね」


 三区の伝言局、その中でも奥まった場所に設置されたこの部屋は、特殊配達員だけが入る事の許されている青い扉の向こうにある。

 奥に設置された本棚には綺麗に揃えて並べられた書籍が詰まっていて、その中から一冊を取り出したヴァニラは長く伸びた銀の髪を揺らして顔を上げると、一番向かいの席に座るフィスカスを見た。

 明るい緑の目を細め、にこりと笑うフィスカスの言葉に、ヴァニラは「そうですか」と言いかけて、止める。

 彼の軽口に乗ってしまったら、そのままペースに飲まれてしまうのは明白で、だからこそヴァニラはいつものようにすました態度を崩さない。


「フィスカスさんが真面目に仕事をして下されば、いつでも機嫌はいいと思いますが」


 その言葉に、フィスカスは悪びれる事もなくけらけらと笑っている。

 今にも手にしている書籍を投げつけてやりたいのを掻き集めた理性で精一杯押さえ込んでいると、彼は笑みを止めはせず、視線を床へと落とした。

 翳りを見せる睫毛の影は、ほんの少しだけ、何かを案じているかのように見えて、ヴァニラはぱちりと紫の目を瞬かせる。


「何だかいつもより楽しそうだからさ。犬とか猫でも拾って来たのかなって思って」


 フィスカスの言葉に、どきり、と心臓が跳ねる。

 一瞬、家に連れてきてしまった少年の事を思い出してしまったからだ。

 フィスカスは、ヴァニラちゃんって動物好きでしょう、と頭の飾りを指差しながらそう言い、その事に、困惑したままのヴァニラは訝しげに眉を寄せた。

 妹達が毎朝選ぶ髪飾りは大抵が動物や花の形をしたもので、今日はうさぎを模した髪飾りをつけているが、別段ヴァニラ自身が好んでいるものではない。

 だが、それをフィスカスに伝えるのも面倒であるし、何より、自分の考えを見透かされたようだと思われるのも気に入らない、とヴァニラは密やかに息を吐き出した。

 昨日出会った少年はどうも言葉を知らないらしく、子供達よりもずっと少ない語彙でしか会話が出来ない。

 その僅かな単語を掻き集めてどうにか話をしてみても、何故だか彼は彼自身に関する事を頑なに話そうとはしなかった。

 ただ、弟妹達よりもずっと聞き分けが良く、やってはいけないと言った事はやらないし、暫く周囲の動きを見て観察したかと思えば、すぐに家事を覚えて手伝ってくれるようになり、尚且つ要領が良いので、ヴァニラとしては率先力の手助けになっているのだ。

 弟妹達も、年上だけれど言葉や慣れない生活の習慣を教えてあげられる上に、家事で手一杯になっている姉に甘えられない所に構えば応えてくれる存在が現れたとなれば興味が湧かない筈もなく、彼をすっかり気に入ってしまったらしい。家に出る前も、皆できゃあきゃあ笑いながら遊んでいた程である。

 母親も、少し様子を見てからこれからの事を一緒に考えてあげたらいいんじゃないかしら、と慈愛に満ちた眼差しを向けながらそう言うので、ヴァニラもその言葉に賛同し、暫くの間、彼を家に置くようにしようと決めたのだ。

 そもそも、少年の事は家族以外に知る者はいない筈なので、誰に何を言われても、知らぬ存ぜぬを突き通せば、何も問題はないのだけれど。

 ヴァニラは冷静を保ちながら、「ええ、まあ、そんな所です」と適当に相槌を打ちながら、内心を悟られないよう震えそうになる指先をぎゅっと握り締める。

 フィスカスがそれを知っている筈はないが、妙に勘がいい所があるので、平静を保たなければいけない。


「でも、野良の子なら、気をつけないとね」

「……、どういう意味ですか?」


 何故いちいち癇に触る言い方をするのか、と、神経を尖らせていたヴァニラは眉を顰めてフィスカスへとそう問いかけた。

 さぞかし反応を面白がっているのだろう、とばかり思っていたが、フィスカスは何故か、少し淋しげな顔をしていて。

 見慣れないその表情に、思わずヴァニラはことりと首を傾けてしまい、銀色の長い髪が、動作に合わせてふわりと揺れた。


「ほら、野良ってそうそう新しい環境に慣れないって聞くからさ。何かあった時、お互いに悲しい思いをしちゃうのは、嫌じゃない?」


 フィスカスの言葉に、そういえば、自分はあの少年の事を何も知らない、とヴァニラは思う。

 名前も、年齢も、何処から来たのかも、何故あの場所で倒れていたのか、も。


「……そう、ですね」


 傷が治るくらいまでなら、家に置いていく事も許されるだろうか。

 そうしたらきっと彼も話をそれなりに出来るようになるかもしれないし、その後にでも国の然るべき機関へと引き渡せばいいだろう。

 彼が酷い目に合わないよう、事情をちゃんと説明して、それから、それから……?

 ぼんやりとする頭で、鈍い思考を働かせても、その先がどうしても上手く考えられない。

 それはただの逃避なのか、それとも、彼に対する同情なのか。

 よくわからないけれど、このままではいけないのだというのは解っている、とヴァニラは思い、手にしていた書籍をぎゅうと握り締める。

 リグレットに偉そうに説教をしていたくせに、と、随分と甘い自分の考えに、ヴァニラは思わず、深く長く息を吐き出していた。

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