第23話 その音が届いたら応えて
夕食を競うように食べ、騒がしいままに風呂に入り、髪を拭くのも間に合わずにそこらで走り回っていたかと思えば、途端にエネルギーが切れたように眠ってしまった、幼い弟妹達。
それでも、何に脅かされる事なく安心して健やかに過ごせているのなら、それはとても喜ばしい事だ。
そんな事を考えながら小さく笑みを零したヴァニラは、それぞれ違う寝相をしている弟妹達に柔らかなブランケットをかけ直して、そっと子供部屋から出た。
隣にあるのは母親の寝室で、今日は少し調子が悪いようで寝たきりであったが、先程様子を見に行った時には少し落ち着いていたので、明日には起き上がれるくらいにはなるだろう。
音を立てないよう気をつけてリビングへ戻ると、ソファーを寝床の代わりにしている少年が、気に入っているらしいふわふわのブランケットの肌触りを確かめていた。
少年がこの家に来てから数日が経ったが、相変わらず、名前も年齢も、どこから来たのかも、わかっていない。
始めこそ周囲を警戒し、慣れない環境にそわそわとしていたが、本来は穏やかでのんびりとした性格をしているように、ヴァニラには感じられた。
子供達が喧嘩をしていても、無理に止めるのではなく、言葉が然程わかるわけではない筈なのにそれぞれの話をゆっくりと聞いているらしく、そうしているうちに子供達も落ち着いてくるのか、変に長引く事なく仲直りしてしまうのだ。
落ち着きのなかった弟妹達も、彼の真似をして自主的に家の手伝いをやってくれるようにさえなっている。
家の事は一度でも教えれば覚えてくれて、子供達の面倒を見てくれて、母親の様子が変化すれば、そっと教えてくれる。
今までそれら全てに神経を研ぎ澄ませていなければいけなかったヴァニラにとって、彼の存在はまさに僥倖と呼べるものだった。
ただ、心配なのは、彼が時折ふらりと何処かに行ってしまう事。
大抵朝から昼頃の間に姿を消して、遅くとも夕方には戻ってくるようだが、その間に何をしているかは、誰も知らない。
それに、と考えて、ヴァニラは少年の背中に視線を向ける。
初めてこの家に連れてきて、傷の手当をした時、彼の身体には無数の傷跡があった。
殴られたような痣だけでなく、刃物で傷付けられたようなものまであり、それらの中には、どう考えても自分ではつけられないような位置にまであったものもある。
何かに巻き込まれたのか、虐待でもされていたのか……、わからないけれど、この先、彼が再びこうした目に遭わないよう、どうにかしなければならないだろう。
ヴァニラは自然と顔を顰めてしまい、その様子に気付いたらしい少年は、灰青の眼で不思議そうに見つめている。
「ヴァニラ?」
「その髪も、そろそろどうにかしないとね」
「かみ?」
一体今までどうしていたのか、彼の髪は伸び放題で、適当に切られているらしく、長さもまちまちだ。
ぼさぼさではあるものの、本来の色なのだろう鮮やかな橙の髪は、この家にはない色彩で、ランプを灯す夜になると、柔らかで優しい色合いに映る。
ヴァニラは少し考え込み、リビングのキャビネットから必要なものを取り出すと、彼の前にそれらを並べた。
「鋏は、やっぱり怖い?」
刃物だからやっぱり怖く感じるだろうか、と鋏を手に取り、髪を切る動作をしてから少年の髪を指差すと、少年はふるふると首を振ってソファーの端に張り付くようにして後退っている。
「オレ、悪いこと、してない! ばつ、しない!」
ぎゅうと鼻の頭に皺を寄せ、懸命にそう訴える少年に、ヴァニラは驚いて聞き返してしまう。
「ばつ、って……、罰の事?」
唖然として少年を見るが、不安そうにじっと見つめ返してくるばかりで、答えは返ってこなかった。
虐待でもされていたとしたなら、刃物や鋭利なものは、確かに怖く感じられるのかもしれない。
ランプの灯りに照らされた鋏の反射光に、灰青の瞳が怯えるように揺れていて、ヴァニラは慌てて鋏をしまい、両手に何も持っていない事を示す為に、彼の前の前に手のひらを見せてやる。
「違うわ、大丈夫。あなたを傷つける為じゃないの。髪が目に入りそうだし、邪魔でしょう?」
話す言葉はたどたどしいが、彼は驚くような速さで言語を覚えている。
子供達とたくさん話しているせいか、それとも、元々の学習能力が高いのか。
わからないけれど、始めこそジェスチャーを交えて言葉をかけていた事もあったが、飲み込みがいいので、日常会話程度ならばすぐに理解してしまっている。
だから、きっとわかってくれるのではないか、と、どうにか説得を試みたものの、どうしても鋏だけは嫌がるので、髪留めや髪飾りを収納している可愛らしい飾りのついた収納箱を取り出して、ヴァニラは考え込んだ。
「切るのが嫌なら、結ぶかピンでどうにかするしかないかな」
髪に触れる事を予め少年に伝えてから、彼の背中側に回ったヴァニラは、その橙色の髪を手に取って、痛めないようゆっくりとブラシを通した。
ごわごわとしているのかと思いきや、少年の髪は猫の毛のようにふわふわで柔らかい。
顔を覆うようになっている髪を一房取り、捻ってピンでとめていくと、視界が開けた事に気付いた少年が頭を動かしてあちこち向いてしまうので、少しだけ大人しくしていて、とヴァニラは言って、彼の頭を両手で固定する。
始めこそ困ったような顔をして後ろを振り向こうとしていたが、やり取りを繰り返していく内に落ち着いてじっとしていた。
寝る前なので適当に前髪を上げただけだが、視界が開けた事に気付いたらしい少年は、しぱしぱと眼を瞬かせている。
「どう?」
「あかるい……」
「ふふ、明るいって」
その言い方が何だか可笑しくてヴァニラが笑うと、少年は不思議そうにしていたものの、目元を和らげて頷いていた。
吊り目がちな眼をしているので、黙っていると少し怒っているような顔立ちをしているが、そうして柔らかな表情をしていると、年相応だろうあどけない印象を受ける。
「ねえ。あなたの名前、やっぱり教えて欲しいな」
だって不便なんだもの、とヴァニラは広げていた道具を収納箱に納めがら、そう言った。
少年は暫く押し黙っていたけれど、やがて困ったように眉を寄せると、じっとヴァニラを見つめている。
困らせたかったわけじゃないんだけどな、とヴァニラは思い、安心させるように、小さく笑った。
何かを確かめるような不安げに揺れる灰青の眼は、躊躇うように視線を地面に向ける。
部屋に灯るランプの灯りが、ゆらり、揺れていた。
「ルプス」
静かなリビングの中で、少年がぽつりと発したたった一つの言葉に、ヴァニラは絶句して、抱えていた収納箱を落としてしまいそうに、なる。
身体が固まってしまったかのように、強張っているのが自分自身でもよくわかった。
「ルプス、は、みんな。みんなも、ルプス」
「え、ちょっと、待って……、ルプスって、本当に?」
それは、この国の古い言葉で、狼を意味している。
狼は青い桜の森に入れる稀有な生き物であり、王家に伝わる従属の獣だ。
いくらなんでも、親が子供に名付けるようなものではない。
似たような名前という繋がりからだろう、不意にリグレットの事が頭を過ってしまい、思わずヴァニラは唇を噛んだ。
後悔を意味する名前を、リグレットは自ら受け入れて使用していると聞いているが、それでも、ヴァニラは悲しくなってしまう。
名前というものは、この世に生を受けた時、一番に与えられる祝福の筈、なのに。
「ヴァニラ?」
「え、あ……、ごめんね」
いつの間にか思考に深く潜り込んでしまったようで、少年は心配そうに顔を覗き込んでいた。
その動きに合わせて、彼の首輪についた鎖が、ちゃり、と音を鳴らしている。
首に嵌められた鎖のついた首輪は、鋏を嫌がった時と同じように、頑なに彼が外そうとしなかった。
それが、狼を意味する名を付けられた彼を、縛り付けているようにさえ、感じられてしまう。
「みんな、って、もしかして家族とか兄弟の事?」
その人達が彼をそう呼んでいるのか、全員がルプスと呼ばれているのかは、言葉が単語の連なりに近いので判別がつかないが、彼がルプスと呼ばれている事、みんな、という存在がいる事、は確かだ。
どうにか真相を突き止めたいけれど、少年はじっと身体を強張らせるように固くして、押し黙ってしまう。
少年は質問をすると、こうして途端に黙り込む時があった。
それは大抵、彼自身に関する事を質問した時で、そうなってしまうと絶対に口を開かないし、視線を合わせる事もしない。
そうなってしまうと、ヴァニラも追求する事は憚られ、曖昧に笑ってしまうばかり。
頑なに自分の事を話そうとしなかった彼が、ほんの僅かであっても、こちらを信じてくれて、話してくれたのだ。
それはとても嬉しい事である筈なのに、どうしても、胸底から込み上げてくるような淋しさや悲しさから、思わず視線を地面に向けてしまう。
沈黙が部屋の中に落ち、ぼんやりと灯るランプの灯りだけが、揺れている。
柔らかに、溶けるような、色。
「ねえ、私が新しい名前をつけるのは、駄目?」
突然のヴァニラの言葉に、少年は不思議そうに首を傾げている。
「あた、らしい、名前?」
「そう。此処での、あなたの特別な名前」
せめて、自分達の側にいる間くらいは、何かに縛られたようにいて欲しくないから。
そうヴァニラは考えて、ううん、と唸り、思考を巡らせる。
少年は意味が理解出来ていないのだろう、傾けた頭を更に傾けようとして、ぽすりとソファーに身体を預けてしまい、そのまま少し眠たげに瞬きを繰り返している。
「……そう、テッサ。テッサ、っていうのはどう?」
ランタンに似た形の花の名前なのだけれど、あなたの髪色に似ているから、とヴァニラは思いついた名前を、はしゃぐ子供のように口にした。
「幸せを運ぶ花とも言われているの。あなたがうちに来てから、家の中が明るくなった気がするから」
少しだけ、息がしやすくなった気がするの。
呟きともいえない、本当に微かな声で紡いだ言葉は、彼の耳に入ったかどうかはわからない。
けれど、少年は瞬きを繰り返すと、自分を指差して、はくはくと唇を動かしている。
「それ、オレの、名前?」
「そう、テッサ。あなたの、新しい名前。だめ、かな?」
「テ、サ……、テッ、サ?」
辿々しく紡がれる音の連なりに、彼の反応を見つつどきどきとしながらヴァニラは根気よく付き合い、発音を教えてやる。
弟妹達に教えるよりもずっと飲み込みが早いので、彼は何度か音を調整するように呟くと、ぱっと顔を上げてヴァニラを見つめた。
「ヴァニラ」
「なあに?」
「ありがとう」
ふわ、とやわらかく表情を緩めて、彼は笑う。
その年相応のあどけない笑い方に、ヴァニラはようやく、安心したように笑みを浮かべていた。
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