第60話 指を切ったらもう会えないの

 頭が軋むように、痛い。

 ノルは上がってしまった息を整えるように咳を零すと、顔を俯かせて大きく息を吐き出した。

 リグレットの話から中央広場周辺を探し回っていたけれど、彼女・・の姿は一向に見つけられずにいる。

 焦りからか、それとも、無理をしているせいで体調が悪化しているのか。先程から酷く頭が痛み出していて、ノルは思わず額を押さえていた。

 もし、彼女が本当に生きているのだとしたら。

 ノルは痛みでぼんやりとしてきた頭で考える。

 忌まわしき日々から抜け出したあの日から、自分が手にしてきたもの、抱え込んでしまったもの、それら全ては決して無駄ではなかったのだし、その為に、こうして生きながらえてきたのだ。

 幼い頃から身体を蝕み続けてきたこの耐え難い痛みにも、息をする度に肺がへしゃげていくような苦しみもにも、耐えて。その為だけに。

 ぐらぐらと足元から崩れ落ちそうになる程の眩暈を感じて目を瞑ると、ふ、と幼い頃に見た、目一杯涙を溜めた大きな青眼を思い出した。

 熱で朦朧とする意識の中で見た、彼女——リグレットは、まるで自分自身が辛く苦しいのだと言わんばかりの顔をしていた。

 自らの痛みなど、自分以外の誰にも理解される筈はない。

 どんなに言葉を尽くしたって、どんなに時間を共にしたって、所詮は分かたれて生まれ落ちた生き物である以上、決して痛みを分かち合える事などないと、ノルはよく理解している。

 見たものだけで判断されて、その者の内側にある痛みや苦悩など、絶対に他者に理解される事はない、と。

 けれど、リグレットは違った。

 自らを苦しめる痛みを教えて欲しい、と。そう思ってしまうのを許して欲しいと、彼女は言うのだ。

 そして、自らの命を惜しまず、その身を投げ出してでも他者を助けてようとしてしまう。

 それはまるで、自分自身を見ているようで、いつも目を背けてしまいたかった。

 自分がしている事が、ただの自己犠牲でしかない、と、知らしめているようだった、から。

 そんな事を考えてしまう自分が、どんなに愚かなのかと思い知らされているようだったから——。


「ノル!」


 深く沈み込んでいた思考を打ち消すように、突然、後ろから声がかけられ、ノルは弾かれるように顔を上げた。

 声がした方へ振り向けば、シスター服を着た女性が首に抱きついてきて、楽しげに声をあげて笑っている。

 元より触れられる事を苦手にしているノルにとって、この状況で抱きつかれたならば、すぐさま振り解いてしまっただろうが、彼女にはそうする事が出来なかった。

 触れるどころか、額と額を合わせ、鼻先がつきそうな程に顔を近づかせても、それは変わらない。

 不敵に笑い、細められたその金色の瞳は、自らと同じ形をしていたものだ、と、ノルにはわかる。


「ネム? ……本当に?」


 うわ言のように問い掛ければ、彼女は呆れたように眉を寄せて溜息を吐き出している。

 同じ高さではなくなってしまった故に見下ろす彼女の姿は、確かに大人の形をしているけれど、はっきりと過去の姿を思い起こさせてくれていた。


「嫌だわ、私の事を忘れてしまったの?」


 そう言って、彼女は頭を覆っていたシスターベールを外した。

 滑らかな黒髪が、ノルの目の前で、さらりと揺れる。

 腰にまで届きそうな程に長い黒髪は、少し癖があるノルの髪質とよく似ていた。


「いいえ、わからない筈がないわ。だって、あなたは私で、私はあなたなのだもの」


 そうでしょう、と再び額をくっつけて、ネムは楽しそうに笑っている。

 双子として全てを分け合って生まれ落ちたのだ、と彼女は信じていたし、何よりも誰よりも、それを大切に思っていた。

 そして、自分とてそれは同じだ、とノルは思う。

 小さな事にさえすぐに怯え縮こまっていた自分と違い、確固たる自分を形成し、誰にも屈する事のない強さを持っている、かけがえのない半身。ほんの少しだけの時間、早く生まれてきた姉、ネム。


「ふふ、こんなに大きくなってしまっても、何も変わらないのね。淋しがりやで怖がりで甘えたがりな、私のはんぶん。かわいい子」


 そう言って頰を撫でる、ネムは少しばかり肌が青白く、痩せているように見えるけれど、自分とは違い、痛みに苦しめられているようには見えない、とノルは思った。

 否、彼女はいつだって、自分にはそういった姿を見せようとはしなかったのだ。

 苦い薬を飲んで顔を歪めた事も、ぎらりと光る鋭い注射針に怯えた事も、冷たい金属の台座に頭を押さえつけられた時でさえ、決して恐れず、視線を揺らさず、真っ直ぐに前を見据えていた。

 それをノルは改めて感じて、そっと息を吐き出した。

 もし再び出会う事が出来たなら、その時はきっと、溢れんばかりの喜びが胸から湧き上がるものなのだ、と思っていた。

 それなのに、何故だろうか。

 現実感が消失してしまったかのように、現状を上手く受け止められずにいる。

 あの時からずっと、こうして彼女が見つかるのを、信じていた筈なのに。

 ネムはノルが手に持っていた銀のイヤーカフに気がつくと、嬉しそうに金眼を細めてそれを手にした。

 確かめるようにして眺めてから、それを自分の左耳にはめている。ノルと向き合う時、鏡合わせになるように。


「ネム、今まで何処にいたんだ?」

「何処って、ずっとあそこにいたわよ?」


 ずきりと痛む頭を押さえて、ノルは彼女のしなやかな指先が示した方向を見た。

 その瞬間、ノルはぎくりと顔を強張らせてしまう。

 彼女が指し示したのは、——ブルーブロッサムの森、だ。

 人間はおろか、動物や虫でさえ、その花が撒き散らす毒素によって生命を脅かせてしまう、忌まわしき地。

 そんな場所で、ずっと過ごしていたのだ、と彼女は言っている。

 有り得るはずがない事を言ってみせた彼女は、不思議そうにノルを見つめ返していて、嘘を吐いているようにも、冗談を言っているようにも思えなかった。

 その事に、ノルは困惑した表情を浮かべてしまう。


「森で彷徨っている時にね、姫様に助けて頂いたの」

「……、姫様?」


 一体、どういう事なのだろう。

 森にいたという事も、姫様という人物の事も、意味がわからなくて、頭がずきりと痛んで、ノルは顔を俯かせた。

 以前、ヴァニラが聞き出したというテッサの情報の中に、それと類似したものがなかったか。

 頭を軋ませるような痛みに混じって、記憶の断片がふと思い出される。

 そう、確か。


(——青い桜の森の、お姫さま)


 思い出すと、ぞくりと背筋が冷えた。

 瞬きを忘れて見つめた地面は、日が陰ってきたせいか、暗く、自らの影が飲み込まれていきそうだった。

 緊張感からノルがこくりと喉を動かすと、白い指先が前髪をそっとどかして、額に触れてくる。

 冷たい体温が、痛みと熱を和らげているのだと気付いたノルがぼんやりと顔を上げると、ネムはにこりと笑っていて。


「ノルもあの子に助けて貰ったんでしょう? 姫様のプリムヴェリーナに。プリムヴェリーナの父親、だったかしら? 私にとっては、どちらでもいいのだけれど」


 どうしてその名前を、と、ノルは問いかけようとして、上手く声が出せずに、咳を零した。

 何故リグレットの本当の名前を知っているのか。

 姫様という人物は一体誰なのか。

 それに、彼女の言う、姫様の・・・という意味が、よくわからない。

 リグレットが姫だというのならまだしも、わざわざ、姫様の・・・とつけているのは、何故なのか。

 そして、その姫様という人物とリグレットに、どういった関わりがあるというのだろうか。

 リグレットの父親の事でさえ、彼女は知っているように話しているが、それは国が決して外に漏れる事がないよう、秘匿にしている情報だ。

 それを、何故、彼女が知っているのか。

 何一つ、彼女の言っている事も、考えている事も、わからない。

 ノルが困惑した表情を向けて見つめていると、彼女は何かに気づいたかのように、ああ、と呟いて、呆れたように笑っている。


「やっぱり、何も知らされていないのね?」

「どういう事だ?」

「ノルはね、あの人間達に騙されているの。だって、伝言局はあいつらの犬なのよ?」


 そう言って、ネムは瞳をゆっくりと細めていく。


「それなら、私が教えてあげる。ノルが助かったのはね、プリムヴェリーナの父親の命を使ったからなのよ」


 一瞬、周囲の音が、明るさが、温度が、全て消えてしまったかのようだった。


「…………な、にを……、」


 何を、言っているんだ?

 動揺し、上手く言葉を紡げないノルを見て、ネムは慈しみを持った表情を浮かべて、ノルの頰を優しく撫でた。

 触れた皮膚からは、弟を案じた姉の優しさを確かに感じられるのに、その指先は、温度を抜き取っていくかのように、ひどく、冷たい。


「だから、ノルの命はね、あの子の父親がいたから助かったの。その命を対価にして、ノルは助かったのよ。薬を、飲んだのでしょう? あれがそうよ」


 まあ、そのせいで死んじゃったみたいだけど。

 付け足された言葉が、人の死について語られるものとは思えない程に、呆気なく、軽々しい響きをしていた。

 彼女が得体のしれない何かになってしまったかのようで、ノルは目眩を覚えて、ふらりと彼女から距離を取る。

 ネムが嘘を言っているとは、思えなかった。

 彼女は決して、嘘を言ったりはしない。そこに隠されたものを、酷く嫌っていたから。嘘は裏切りだと、思っているから。

 もし、彼女の告げる全てが真実だとしたら。


(薬、を、飲んだ?)


 森に入った際、服用した薬を思い出し、ノルは身体を強張らせた。

 グラウカやイヴルージュに手渡された、特別な薬。

 あれは、確かに、命の色をして、いて。


(そう、いのち、の)


 ノルは思わず口元を手で塞ぎ、込み上げてきそうなものを押さえ込んだ。

 どくり、どくり、と、自身の内側だけが、激しく拍動し、身体の中から食い敗れそうな程に、煩い。

 理解出来ない。理解したくない。

 は、は、と、息が荒くなっていく。

 胃の中身を全て吐き出してしまいたく、なる。胸底が煮え滾るようで、とてつもなく、気持ちが悪い。


「本当に酷いわよね。自分達の身内じゃなくなったからって、そんな役目を押し付けるなんて」


 ネムはそう言って、空いてしまった距離をゆっくりと縮めた。


「この国もこの国にいる人間も、本当に穢らわしい。全て消してしまうべきなのよ。だって、姫様もそう言ってたもの」


 嬉しそうに、楽しそうに、ネムは笑っている。

 本当に、彼女は自分と同じ生き物であったのだろうか、とノルは恐ろしささえ感じて、彼女を見つめた。

 痛みで歪む視界に、ぱた、と、水玉が落ちてくる。

 きっと、雨が降り出しているのだろう。

 けれど、ノルは頬に落ちてくるそれを拭う事すら出来ずに、呆然と立ち尽くしていた。

 地面にはぽつりぽつりと雨の跡が描き出されて、歪な染みを作り出している。


「ノル、苦しいの? ノルは悪くないのよ? だって、悪いのは全部あの人間達だもの」


 ネムの言葉は、降り出してきた雨の中で、それでもはっきりと聞き取れた。


「……違、う」


 ノルが喉の奥から絞り出すように否定をすると、ネムは小さく息を吐き出している。


「違わないわ。だって、ノルは知らないじゃない。ノルに都合の悪い真実を教えたくないだけ。それって、ノルを騙そうとしてるって事なのよ?」


 諭すようなネムの言葉に、ノルは聞き分けのない子供のように、頭を振った。


「ちが、う。ネムは、何か、勘違いを……」

「違わないわ。あいつらは私達がどんな目に遭ったのかを、それを目の当たりにして、白日の元に晒されるのを恐れてるだけ」


 こっちを見なさい、と頰を両手で包まれながら引き寄せられ、ノルは怯えるように瞳を揺らして彼女を見た。

 見つめてくる金色の瞳は、あの日に見た頃と何も変わらない、真っ直ぐで、何にも臆する事はない。


「忘れる筈がないでしょう、あの痛みを。あの苦しみを。あの地獄を」


 囁かれる言葉に、声に、呼応するように、あの忌まわしい記憶が溢れ出してくる。

 処刑場のようにつめたくて、凄惨で、惨たらしいその情景を、いつまでも、いつまでもいつまでも忘れられない。忘れられる筈もない。


「ここにいる私達二人だけがそれを知っている。——忘れたなんて、言わせないわ」


 あの日に見た、憎しみに満ちた、瞳。

 ずきり、ずきりと頭が痛んで、ノルは顔を歪めた。

 嘘吐き、と、凶弾する彼女の声が、耳の奥から離れていかない。

 あの時、彼女を助ける為にこの手を離したのに、どうして、いつも、上手くいかないのだろう。

 何が悪かったのだろう。

 どうすれば良かったのだろう。

 どうすれば、どうすれば、どうすれば。


「ノル、あなたの気持ち、私はわかるわ。だって、ノルはたった一人の大切な家族で、私の弟で、私の半分だもの」


 ネムはそう言って、ふ、と笑みを浮かべた。

 金色の瞳は、優しく歪められている。


「許して欲しいのでしょう? 許されたいのよね、かわいい子。もう一人の私」


 もう、痛いのも、苦しいのも、嫌だものね?

 ノルがずっと願って欲していた言葉を、彼女の唇はわかっていたかのように、紡いでいく。

 空から降り注ぐ雨が、少しずつ身体を蝕んでいくように、皮膚を濡らしていた。


「ねえ、約束を覚えている?」

「やく、そく……?」

「そう、約束したわよね? あの時」


 ノルはネムの言葉に引きずられるように、記憶を辿った。

 ずっと一緒にいるのだと、あの真白の世界で、彼女に告げた事。

 彼女を助ける為に、幼い指先を離してしまった時の事。

 それを思い出す度に、嘘吐き、と凶弾する彼女の声が、内耳の奥から響いて、離れていかない。

 ノルが思い出したのだと確信したのだろう、ネムは優しく笑って、ノルを抱き締めた。


「あの時、ノルは私を置いていったんじゃない。私を裏切ってなんていない。私はね、それを証明して欲しいの」


 そう囁いて、手のひらに小さな瓶を手渡される。

 ほのかに輝く、青い液体。

 その色は、まるであの青い桜にも似て、いて。


「そうしたら、許してあげるわ。何もかも」


 ねえ、ノル。許されたいのでしょう?

 優しく微笑まれて、ノルはぼんやりと、手のひらの中にある小瓶を見つめた。

 そっと手を包んでくれるネムの手のひらは温度を感じる事がない程に冷たく、同じであった筈の黒髪も、瞳も、底の無い暗闇にも似た青色へと染まっていた。

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