第63話 その部屋には何が残っていたの

 最初の記憶は、薄暗い部屋の中。

 窓はなく、限られた光の中で、じっと息を潜めるようにして、生きていた。

 白いベッド、白い椅子、白い本、白い積み木、白いクッション、白いブランケット、白いカップ。

 揃いの白い服を着せられた同じくらいの年齢の数十人の子供達が、その中で自由に遊んでいる。

 幼いノルにとって、其処は世界の始まりで、終わりでもあった。


 決まった時間に現れる、白衣の大人達。

 一日三回与えられる、甘くて苦い食事。

 体温をゆっくりと奪っていく、冷たい床。

 赤から青、青から黒と変化していく注射針の跡。

 皮膚の内側を走っていく、輸液の冷たい感触。


 寄る辺のない生き物だけが打ち捨てられているような場所で、ぼんやりと床を眺めていると、手のひらにあたたかさを感じて、ノルは隣へと視線を向けた。

 自分と全く同じ容姿をした子供が、にこりと笑って首を傾けている。

 双子の姉であるネムは真っ直ぐな人で、どんなに苦しく辛い時でさえ、泣き言ひとつ言わない人だ、とノルは思う。

 自らは弟を守り模範であるべきものだと考えていたのだろう彼女は、感情を表に出す事を良しとしなかった。

 長い年月が経ち、分別がつくようになって思い返してみれば、それはいっそ、姉というよりは母に近いものではないかとノルには思えたものだけれども、ノルは勿論、ネムでさえ母というものがどういったものかを覚えていないようだったので、確かめようはないのだが。


「ねえ、知ってる? 扉の向こうに行ける日は、特別なお菓子を貰えるのだって」


 部屋の中、誰かが言ったその言葉に、ノルは隣にいるネムをちらりと見る。

 ネムはつまらなそうな顔で、毎日必ず一度は読んでいるせいで、一字一句諳んじる事が出来る程に覚えてしまった絵本の頁をぱらぱらと捲っている。

 この部屋から外へと繋がる唯一の扉は、大人しか開ける事が許されていないし、幼い子供達にとっても、部屋の中だけが自分達の世界だと信じていて、出ていこうとする者は一人もいなかった。

 そんな子供達にとって、扉の奥へ行ける日は、特別なお菓子が貰える日だと信じられていた。


「ねえ、そういうの、誕生日って言うのでしょう?」


 誰かがそう言って、ネムは気付かれないよう、小さく息を吐き出して呟いた。


「誕生日なんて、私達には関係ないのにね」


 だって、私達は人間じゃないのだから。

 だって、私達はただの実験動物なのだから。

 ばかみたい、と言いながら、けれどネムは決してそれらを彼らには伝えなかった。

 ネムは聡い性質であった為か、自分達が何らかの薬を作る為に生かされているのだと、よくノルに言い聞かせていたのだけれど、彼らには一度もそれらを教えた事はない。

 この限られた世界でさえ、知らない方がいい事なんてたくさんあるのだから、と、そう言って。


 扉の向こうに行った子供達は皆、その後、異様な症状を引き起こしていた。


 手足を噛み千切ろうとした為に口を塞がれ、両手足を拘束された子。

 意味を伴わない言葉の羅列を、壁に向かって延々と叫び続けている子。

 異様な角度で首を曲げて笑いながら、虚ろな目で天井を見上げている子。

 真白の服を真っ赤に染めながら、身体の震えが止まらず蹲っている子。


 薄暗い部屋の隅で、ノルはそれらが見えないように眼を瞑り、耳を塞いで、膝を抱えて縮こまるしか出来なかった。


「ねえ、ノル。ノルは、死ぬってどういう事だと思う?」


 引き摺っていた毛布をノルの頭に被せ、隣に滑り込んで来たネムは唐突にそう問いかける。


「よくわからないけど……怖い事、だと思う」


 外界を遮る毛布の中に広がる暗闇にほっとしてノルは答えながら、ネムの真意を探ろうとして隣を見るけれど、彼女はつまらなそうに前を見ているだけで、視線を合わせようとはしてくれなかった。


「私は、何もかもなくなってしまう事だと思うわ」

「なくなる?」

「そう。目の前が真っ暗になって、灯りがふっと消えるみたいに、この世界の全部から私が消えていなくなるの」


 彼女の唐突さと、その言葉の意味を考えてみて、ノルはふるりと身体を震わせた。

 もし彼女の言う通り世界から消えた瞬間、自分はどうなってしまうのだろう。

 暗闇に溶けて消えてしまうのだろうか。其処に自分の意思はあるのだろうか。

 考えるだけで、怖くて泣き出しそうになってしまう。


「ネム、怖い事言わないでよ……」

「怖くないわよ。だって、何もないんだから。怖いって気持ちもなくなるのよ?」


 双子である筈なのに、ネムは平然とした顔をしてそんな事を言うので、ノルは慌てて彼女の肩に額を押し付けた。

 ネムはいつだって、痛いだとか怖いだとか口に事も、そうした感情を表に出す事もなかった。

 本心からそう思っているだけなのかもしれないし、聡い人であるから、既に感情を麻痺させていたのかもしれない。

 それでも、ネムはノルにとって唯一の家族であって、唯一の味方でもある彼女がそんなふうに自分とはかけ離れた言葉を口にしていると、その存在が遠くに感じられてしまって、どんどんと恐怖心が増していってしまうのだ。


「ネム、もう止めよう。他の話をしよう? 怖いよ」

「もう、ノルは怖がりね」


 おいで、抱っこしてあげる。

 仕方なさそうな顔をして笑うネムに、ノルはようやくほっとして、彼女が伸ばしてくれた腕の中におずおずと入っていった。

 皆はそれぞれ一人きりだけれど、自分達は違う。

 二人で一つ。特別ないきものだから、離れ離れにはならないのだし、怖い事も悲しい事も苦しい事も、分かち合えるのだと、ネムは言う。

 

「ノル、よく聞いて」


 ネムは言い聞かせるようにして、抱き締めている腕の力を少し強めた。


「私達は、ああはならない。一緒に此処を抜け出して、自由になるの」

「本当? ずっと一緒にいてくれる?」

「勿論、ずっと一緒に決まってるじゃない。約束よ」

「うん」


 頷きながら、それでも、自分達の世界はこの部屋の中だけで、それ以上のどこにもいけないのだと、ノルはうっすらと気付いていた。

 彼女の言葉は、弟を慰める為の優しい嘘なのだという事も。

 けれど、彼女はそうは考えていなかった。

 それがわかったのは、それから幾日か経った後の事だった。



 *



 その日、ネムはどこか落ち着かず、終始緊張したような気配と表情を浮かべていた。

 部屋の中には白衣を着用した大人が一人いて、いつものように子供達の体調を調べては、手にしている書類に几帳面そうに書き込んでいる。

 体温や脈拍、口腔内を診て、採血をし、簡単な受け答えをするだけの作業だから、ノルにとってはただの日常の一部だ。

 けれど、ネムは手にしている絵本をぎゅうと握り締めたまま、周囲に気付かれないよう、深呼吸を繰り返している。

 不思議に思ったノルが声をかけようとした瞬間——突然、ネムは悲鳴を上げていたのだ。

 いつもなら声を荒げる事のないネムの変化に、ノルは勿論、白衣の大人も驚いた様子でネムを見ている。

 眼を潤ませたネムはむずがるように首を振ると、すぐさま部屋の隅で蹲るような格好で眠っている子供を指差した。

 必死に何かを訴えているネムに、大人も流石に困惑したのだろう、落ち着くように声をかけてから、その子供の側へと駆け寄っている。

 ネムはその大人の後ろに縋るようにくっついているけれど、普段は決してそのような事をしたりはしない。

 一体どうしてしまったのだろう、と不安になったノルがゆっくりと近づくと、ネムは大人の着ている白衣のポケットから、金色に光る何かを慎重に取り出して、いて。


「何をしているんだ!」


 大人が叫ぶと、ネムは後ろ手に持っていた絵本を大人の顔面に目掛けて思い切り叩きつけた。

 丁度絵本の角にぶつけてしまったのか、大人は痛みに悶絶して顔を両手で覆い、床に蹲ってしまっている。

 真っ赤な血がぽたりぽたりと白い床に落ちていくのを、ノルが呆然と見つめていると、ネムはノルの手を掴んで強く引いて、扉へと走った。

 勢いよく扉を開け放つと、目の前から部屋の中よりもひんやりとした空気がぶわりと流れ込んできて、首筋を抜けていく。


「ノル、絶対に手を離さないで」


 ネムはそう言って手を掴んで走り出すので、ノルはつられるようにしてその後ろを駆けていった。

 後ろから大人が叫ぶ声がするけれど、ネムは決して振り返らない。

 振り返ったら恐ろしいものが見える気がして、ノルはネムが促す通りに彼女に連れられて、ただ走り続けた。

 突然の状況にも、走る中で見える同じような景色にも、ノルは何一つ理解が出来ずに、混乱したまま、指先から微かに伝わる鼓動の音がどくどくと早くなっていくのを感じている。

 ノルが知らない間に、ネムはたった一人で、密やかに計画を立てていたのだ。

 大人達にも、他の子ども達にも、ノルにさえ、気付かれないように。

 慎重に、入念に、注意深く、計画を立てて、実行してみせたのだ。


「ネ、ネム、何処に行くの?」

「逃げるのよ」


 逃げる、なんて、一体何処に?

 ノルの問いかけを遮るように、ネムは緊迫した横顔で前を見つめたまま、走り続けている。


「いいから、前を向いていなさい」


 遥か後ろの方で、恐ろしい化け物のような怒号が聞こえている。足音だって、どんどんと増えていく気がして、ノルはかたかたと歯を震わせながら、ネムの背中に声をかけた。


「ネム……!」

「大丈夫よ。あいつらは、森の中には入れないって言ってた。だから、森にさえ入れば、逃げ切れるの」


 何個目になるのか既にわからなくなっていた扉を開くと、其処は今までの無機質な白い部屋のような場所とは違い、絵本で読んだような、色のついた世界が広がっていた。

 裸足の足でひたりとついた地面は今までより柔らかでほんのりとあたたかく、足裏はあっという間に茶色く染まってしまう。

 それが土なのだとは知らなかったノルには、得体の知れない生き物の上を歩いているように感じられていたが、ネムはそれを気にする事もせず、ただ前に進んでいく。

 少し先には金属の柵越しに、自分よりずっと大きな背丈の木が並んだ場所があって、鮮やかな青色をした花が咲き誇り、見上げているとくらくらと目が回りそうだ、とノルは思う。

 嗅ぎ慣れない青々とした匂いと、ひんやりとした空気にノルが戸惑っていると、ネムはまたノルの手を引いて、先にある金属の柵の方へと走っていった。

 柵には数個の錠前が取り付けられ、ネムはしっかりと握り締めていた鍵の束から、青い紐がついた鍵を選んで、素早く錠前へと差し込む。

 緊張した面持ちをしたネムが唇を噛み締めた瞬間、がちゃん、と小気味い音がした。


「開いた! やっぱり、此処の鍵で間違いなかった!」


 ネムは嬉しそうな顔をして、急いで他の鍵も開けていく。

 そうして金属の門が開くと、ネムは再びノルの手を引いて、森の中へと促した。

 離れた場所からは、少しずつ確実に、大人達の足音が近づいてくるのが、聞こえてくる。


「……ノル、行くわよ」


 しっかりと繋いでいる手は、微かに震えている。

 普段、怯えも恐れもしない彼女が、震えている。

 それが、どれだけの恐怖心からきているものなのか、ノルには理解出来てしまって、金色の瞳を大きく瞬かせた。


「ネム?」

「大丈夫。大丈夫よ。私達は、必ず外に出るの。二人なら、大丈夫……」


 必死に言い聞かせるような言葉に、ノルは視界が水分で歪んでいくのを感じていた。

 彼女一人ならば、きっともっと上手く逃げる方法を考えただろう。

 こんなにも彼女らしくない方法を選んでいたのは、そして、いつもすました顔をしていたのは、怖がりで臆病な弟という存在がいたからで、それを絶対に守らなければいけない存在だと思っていた、から。

 この時になって、ノルはそれらをやっと理解していた。

 彼女にとって、自分こそが重荷になっているのだ、と。


「……ネム、逃げて」


 呟いて、ノルはネムの手を離した。

 思わぬ行動に、ネムは困惑した表情を浮かべている。


「ノル?」


 何をしているの、と言って、再び掴もうとする手を緩く振り解いて、ノルはネムをしっかりと見据えた。

 自分と同じ造りをした金色の瞳が、不安げに見つめ返してくる。


「俺は、ネムみたいに強くない、し、足だって、早くない。きっと上手く逃げられないから……、だから、せめてネムだけは逃げて」

「何を言ってるの、ノル。止めて。大丈夫よ、一緒なら……」


 泣き出しそうになっているネムの手を握り締めて、ノルは額に押し付けた。

 いつも自分を守ってくれていた彼女に出来るのは、こうする事しかなくて。

 今までずっと自分を守る為に、全てを隠そうとしていた彼女を守るには、こうする事くらいしか、思いつかなくて。

 痛いのも、怖いのも、苦しいのも、寂しいのも、嫌だけれど。

 この手を離すのは、もっと、嫌だけれど。

 それ以上に嫌なのは、彼女が自分の為に無理をして、いつか命まで投げ出してしまいそうな事。


「大丈夫。きっと、必ずまた……会えるから」


 さようなら、ネム。

 そう言って、ノルは手を離して背を向けると、研究所の方と走り出した。

 息が苦しくて、目の前がぐらぐらして、足が痛くて、胸の底がひりついている。

 後ろからネムが必死に名前を呼んでいるのが聞こえるけれど、ノルは決して振り返らなかった。

 振り返ってしまったら、きっとまた、縋ってしまいたくなる、から。


「嘘吐き! ずっと一緒にいるって言ったのに!!」


 耳の奥で、彼女の泣き叫ぶ声が、いつまでも消えていかない。 

 目蓋が熱くて、じわりと水分が滲んできて、痛くて痛くて仕方がない。

 再び入った白い建物の中は、汚れた足には冷たく、ノルはそれでも、わざと数人の足音が聞こえる方へと走っていった。

 胸の奥がやけに冷たくて、その得体の知れない塊が、ずっと自分の身体を蝕んでいるのを感じている。

 走って行く内に、身体中を侵食するかのように痛みが広がっていくけれど、どんなに痛みが強くなっても、意識は遠退きそうで消えていかない。

 そのくせじわりじわりと押し寄せてくる吐き気に脅かされて、ちかちかと視界は白く点滅していく。

 やがて白衣の大人達が焦った様子でノルを取り押さえると、ノルはぼんやりと後ろを振り返った。

 白い廊下の先には閉じられた扉だけが佇んでいて、自分と同じ姿は見つけられない。

 それが、とてつもなく淋しくて、どうしようもなく悲しくて、それなのにどこかほっとして、ノルは目蓋を閉じていた。

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