第68話 あの日の言葉を覚えているのなら

 空にまで届きそうな程に大きな青い桜の木の下で、子供が一人、泣いている。

 はらはらと雪のように青い花弁が舞い散る中、本来の桜の花と同じ、薄紅色の髪をした少女は、自分を置いて去ってしまった母を想って泣いている。

 心細さと淋しさでいっぱいになってしまった少女の大きな青眼からは、大粒の涙が次々とあふれていた。

 白い霧が充満した視界の中でも、桜の木々は大きく手を広げているかのように枝を伸ばし、青い花は色鮮やかに咲き誇っている。

 少しずつ身体を蝕んでいくような息苦しさから、少女はこんこんと咳を零すけれど、此処には優しく背中を撫でてくれる母も、心配そうに顔を覗き込んで声をかけてくれる父もいない。

 それを思い出してしまえば、少女の青眼からはまた生温かい涙が次々と頰を伝って零れ落ち、地面にまだらな模様を描いていた。

 全てを拒むかのような静かな森の中で、少女の泣き声は誰にも聞き咎められる事はない。

 ——その筈、だった。 

 ちりん、ちりん、と不思議な音が響いて、少女はぼんやりと顔を上げる。

 身体を預けていた桜の木の側から、ふわりと一つの人影が現れていた。

 暗い青の世界でも尚、色鮮やかな青の長い髪を揺らし、顔を覆う白のヴェールから覗くのは、空虚でありながら硝子玉のように奥底まで覗き込めそうな程に透き通った青い瞳。

 裾と袖の長い独特の衣服を見に纏い、それらに包まれた肌は生気を感じられない青白さで、そのほっそりとした指先まで青に染められていた。


「プリムヴェリーナ……?」


 彼女はそう呟いて、ちりん、ちりん、と不思議な音を鳴らして近づいている。

 プリムヴェリーナ。

 私の、名前。

 少女が首を傾げて自らを指差すと、その人物は青い瞳をふわと細める。


「わたしの、プリムヴェリーナ」


 だあれ、と少女が問いかけるけれど、彼女は優しく頭を撫でてくれたきりで、答える事はない。

 この人は誰なのだろう、と少女は思うけれど、彼女は問いかけに答えてくれる様子はなく、ただ少女を見つめているばかり。

 青で彩られた人であるからか、無機質にも思える姿形は、けれど、恐ろしさを感じる事はない。


「あなたも、さよならを言われてしまったの」


 それは問いかけというより、確認のように、ぽつりと呟かれた。

 少女が何も答えられずにいると、彼女は視線を俯かせ、座り込む少女に合わせるように、しゃがみ込んでいる。


「悲しいのね、苦しいのね、辛いのね」


 かわいそうに、と、頰を撫でられて、青で彩られた唇が、額に押し付けられる。

 触れた部分が凍える程に冷たくて少女はびっくりするけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなくて、それどころかなんだか恥ずかしくなってしまって、額を両手で押さえてしまっていた。

 彼女は、その様子に小さく笑っている。

 先程までの無機質さとは全く違う、幼さが滲み出た笑みは、子供の心をすっかりとほぐしてしまっていた。

 そのせいだろうか。先程までの息苦しさがすっかりとなくなってしまっている事に気が付いて、少女は青色の彼女をそっと見上げた。

 さよならを言われてしまった、と彼女は言っていた。

 悲しくて、苦しくて、辛くて、自分と同じように、こうして、此処に一人きりでいるのだろうか。


「……ううん、ちがうよ」


 だって、と言って、少女は彼女の手を握り締めた。

 冷たくて、強張っていて、柔らかさは全く感じられない。

 寒くはないのだろうか、と、少女は自らの頬に、彼女の手を押し当てる。

 彼女はそれにほんの少しだけ青い瞳を揺らしていたけれど、瞬きの間に、柔らかに細められていた。

 さよならは、淋しい言葉だ、と、少女は知っている。

 けれど、それだけではないのだ、とも。


「だって、だってね、さよならは——、」



 ***



 何だか最近、妙な夢を見続けているらしい。

 リグレットがそれに気が付いたのは、ノルが倒れて三日後の事だった。

 青い桜の森で、幼い頃の自分が泣いている。

 そして、ある少女と出会う、不思議な夢。

 それを、繰り返し繰り返し、何度も見ているのだ。

 もしかしたら、血液を多く採った影響、なのだろうか。

 よくわからないけれど、と、部屋の隅に置かれた椅子を引っ張ってきて腰掛けたリグレットは、ベッドで眠っているノルの顔を覗き込んだ。

 顔は相変わらず青白く、寝息も静か過ぎて心配になる程だけれど、微かに上下する胸をみれば、彼がきちんと生きているのがわかって、リグレットはそれを確認するまでいつも安心出来ずにいる。

 一命を取り留めたノルは、医務室からその隣にある部屋へと移されていて、あれだけ繋がれていた管も一つきりで済んでいる。

 ノルは意識はあるものの、うとうとしているか眠っている事が多く、まともに話をしていられる状態が殆どないらしい。

 グラウカが言うには、あの薬は、身体の中身を無理矢理作り替えている状態を整えてくれるようなもの、なのだそうだ。

 元々ノルは抗体持ちではないという事もあり、身体に多くの負担がかかり、体力を消耗しているのだろう。

 リグレットは眠っている彼を起こさないよう、静かに彼の手を取った。

 伝わる体温はひんやりとして、皮膚は乾いていて、握り返してはくれる事はない。

 あの夢の中に出てくる彼女に似てはいるけれど、違う、確かさがある。

 その事に、心底安心してしまう。


 血液を多く採った為に、二週間は絶対に無理をしないよう言われてから、リグレットはずっと伝言局の中で過ごしていた。

 本来、特殊配達員は強制的に業務に従事させられているのだが、年を取った者や出産などで生活に支障が出てしまう場合、予備の人員としてそれぞれの区画に配置されているという。

 今回のように何らかのアクシデントが起きた際、彼らに一定期間出て貰うようにしているらしく、一区では五十代の男性配達員が、リグレットの代わりに出ているそうだ。

 年齢を重ねる毎に抗体値が低くなってしまっているので、本来なら引退を考えてもいいそうだけれど、今回ばかりは仕方がないだろう、とイヴルージュが申し訳なさそうに言っていたのを、リグレットは思い出す。

 リグレットとしても早く本来の仕事に戻りたいけれど、過去の件からも無理をして周囲を不安にさせたくはないので、言いつけを守り、大人しく局内で身体に負担がかからないような仕事をこなす事に専念していた。

 イヴルージュやグレイペコーも、リグレットに危害が加えられる事がないよう酷く警戒していて、未だにずっと緊張感が抜けない状態であるし、ノルがきちんと眼を覚さないので、リグレット自身、彼の側からなるべく離れたくないという気持ちもある。

 リグレットはノルの手を握り締めたまま、うとうとと眠気に誘われていくのを感じて、思わず上体を倒し、ベッドの隙間に頰を押し付けて、緩やかに瞬きを繰り返した。

 夢の中に出てくるあの人は一体、誰なのだろう。

 青い世界の中に溶け込みそうな、深い青色をした、一人の少女。


 (私、あなたに会った事が、ある……?)


 あれはただの夢などではなく、記憶の残骸なのだろうか。

 全てがぼんやりとしていて、上手く思考が纏まらない。


 (私、あの人と、何か……、何か、約束を、しなかったっけ……?)


 ずるずると地面に引き込まれるような強い眠気を感じて、リグレットは目蓋を閉じてしまう。

 約束? 誰と? あの人と?

 青い桜と、お姫様と、約束と、それから、それから……?

 ぐらりと深い眠りに沈んでいきそうな瞬間、僅かに手を握り返されたように感じて、リグレットは眠気をどうにか断ち切って、緩やかに頭を振りながら眼を開けた。


「……ノル?」


 リグレットがおずおずと顔を覗き込むと、ノルは睫毛を震わせて、ゆっくりと目を開いた。

 ぼんやりとして焦点が定まらなかった金色の眼がリグレットを映すと、掠れた声で、彼は呟く。


「……、リグ、レット?」

「ノル、大丈夫? どっか痛い?」


 彼が目を覚ました事に、リグレットはパッと顔を輝かせた。

 思わず前のめりになったリグレットが顔を近づけると、ぼんやりとしていたノルの顔つきが、変化して、眉間に皺が寄っていく。


「…………、近い」


 軽く咳を零しながらぽつりと呟いた彼の言葉に、リグレットは「ごめん」と慌てて身を引いた。

 勢いに任せて前のめりになってしまい、息がかかりそうな程に近づいているとは、思わなかったからだ。

 流石に恥ずかしくなって、赤らんできた頰を押さえたリグレットが俯くと、何故だかノルの手が腕を掴むので、ますます顔に熱が集まっていく。

 ひゃあ、と上擦った声が出て、心臓がばくばくと煩い。


「……リグレット。その髪、どうした?」

「え?」


 ノルの言葉の意味を汲み取れず、リグレットが呆けていると、彼は手を伸ばしてリグレットの髪を一房指で摘み上げた。

 薄紅色の髪が揺れる中、その一房は、はっきりとリグレットの眼に焼き付いている。

 鮮やかな、青。


「……えっ? え、嘘。何、これ?!」


 リグレットが慌てて窓に眼を向けて自らの姿を確認すると、光に反射したガラス越しに見える自分の髪が、筋のように部分的に青くなっているのが見えた。

 今朝見た時は、こんなふうにはなっていなかったのに。

 リグレットが髪を押さえてふるふると震えてノルを見やると、彼も僅かに動揺しているのだろう、ゆっくりと視線を周囲に巡らせ、深く考え込むように額を押さえている。


「誰か……、いや、グレイペコーか、グラウカ先生を呼んできてくれ」

「わ、わかった」


 髪を押さえて狼狽えながらも椅子から立ち上がり、ドアの方へと視線を向ければ、ノックの音が響いて、グレイペコーが顔を出していて。


「リグレット? ノルの目が覚めたの?」

「ペコー、どうしよう!」


 リグレットがわあわあと泣きつくようにして抱きついて助けを求めると、グレイペコーは呆然とした顔をして、目覚めたばかりのノルと顔を見合わせていた。

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