第67話 今はただ深く沈んでいくだけ

 冷たそうな金属製のトレイへ必要な器具を一つ一つ用意している音が響く度、神経が過敏に反応しているみたいだ、と思う。

 リグレットはベッドに身体を横たわらせながら、それらを眺めてぎゅうと手を握り締めた。

 医務室の隣に設置された部屋で、血液を採る為の処置を行う準備をしているグラウカは、くたびれた顔をしているけれど、手つきはいつものようにしっかりしている。

 ベッドの側にはサイドテーブルより大きい机が置かれ、通常の採血ならば使用していない器具や薬品も多く並べられていた。

 用意されたそれらの中に、ぎらりと光る大きな針を見つけて、リグレットは思わず胸元を握り締める。

 いつも血を採っている注射針より針が太く、長さもある。

 たくさんの血液を採る為には仕方がないのだと理解はしていても、怖さを感じてしまうのは致し方無い事だろうし、父親に関する話を聞いていたから、気にしないよう努めていても、どうしても不安が過ってしまうのかもしれない。

 心臓がばくばくして、胸底はじくじくして、指先がぶるぶると震えているのが、自分でも見てわかった。

 リグレットは何度も何度も深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出しながら、それらをどうにか宥めている。


「……リグレット、すまないね」

「グラウカ先生」


 グラウカはそう言うと、申し訳なさそうに、視線を自らの足元へと向けている。

 いつも採血の時に怖がっているから、きっと、今はもっとずっと怖い思いをしているのだと気付かれているのだろう。

 リグレットは自分とグラウカのどちらも安心させるように、へらりと笑った。

 上手く笑えている自信はないけれど、それでも、そうせざるを得なかったのだ。

 器具を用意し終えたらしいグラウカは、ベッドの側にある小さな椅子に腰掛けると、ほんの少し首を傾けた。眼鏡の奥の瞳は、優しく細められている。


「リグレットは知らないかもしれないけれど、実はね、ノルも注射が苦手なんだよ」

「え、本当ですか?」

「慣れたからといって、平気というわけではないだろうからね」


 思わぬ事を聞いたリグレットは、「ノルもそういうの、怖いとか痛いって思うんだ」と呟いて、慌てて口を押さえた。

 それはそうだろう、幼い頃など身体の症状が酷い時には、泣き喚いていた事もあると聞いている。

 それが、どうしても今の彼とは全く結びつかないだけで。


「あの子は、感情を隠すのが随分上手くなってしまったんだよ。そうせざるを得なかったのかもしれないが……」


 グラウカは自嘲するように小さく笑うと、大きく息を吐き出した。

 イヴルージュがあれだけ後悔に苛まれて苦しんでいたように、グラウカも口にせずとも長い間ずっと悩み続けていたのかもしれない。


「私、先生がいつも採血の後に飴くれるの、嬉しいです。ノルも、きっと先生がそうやって思い遣ってくれるから、慣れたんじゃないかな」


 子供じみているかもしれないけど、痛みを共有してくれるみたいで、嬉しかったのだ。

 リグレットがそう言うと、グラウカは困ったように笑ったきり、肯定も否定もしなかったけれど、どこかほっとしたように息を吐き出していた。


「終わったら、また美味しい飴を下さいね」

「いつもよりうんと美味しい飴を用意しておくよ」


 グラウカの言葉に、リグレットは、ふふ、と吐息混じりに笑う。

 駆血帯を腕に巻き、腕が圧迫された状態になると、消毒液を浸した綿で、肘の内側を丁寧に拭かれていく。

 皮膚がすうすうとする感触に、いつもなら心臓がばくばくと拍動するけれど、不思議と落ち着いてきている自分に気がついて、リグレットはゆっくりと瞬きをして、天井を見た。

 彼がいつも此処で休んでいる時に見ている景色と、今は、同じなのだろうか。

 ずっと抱えていた怖さや痛みと、彼はどう立ち向かっていたのだろうか。


「先生」

「うん?」

「私、本当は……、本当はね、すごく怖いけど……」


 きっと、この先、彼がまた同じ事をしたとしても、自分は何度だって、同じ事をするだろう、と、リグレットは思う。

 もしもそれが、彼にとってどんなに苦しい事でも、きっと。

 これは、自分のわがままなのだろうとわかっていても。それでも。


 (私、ノルがいなくなったら、嫌なんだよ)


 どうか、ここにいて欲しい。

 そう願う事を、許して欲しい。

 その為に出来る事なら、何だってするから。


「だけど、ノルがいなくなる事の方が、もっとずっと、怖いから」


 だから、大丈夫なんです。

 小さく笑ったリグレットがそう言うと、グラウカは申し訳なさげな顔をして頷いた。

 皮膚に、冷たい針がそっと押し当てられる感触がする。

 大きく息を吸い込むと、リグレットは静かに眼を瞑った。



 ***



「……リグレット。リグレット、大丈夫?」

「ん……」


 泣き出しそうな顔をして覗き込んでくる人が誰なのか、一瞬わからなくて、リグレットはぼんやりとしたまま、頷いた。

 消毒薬と、石鹸と、茉莉花の香りがしていて、緩やかに瞬きを繰り返していくうちに、視界と思考がゆっくりとクリアになっていくのを感じる。

 血液を採った後、グラウカはすぐに薬を作る為に作業に入るから、ゆっくり休むようにと言われていたのだけれど、その内にどうやら眠ってしまっていたのだろう。

 リグレットは考えて、視線だけで部屋の中を探ろうとしたが、すぐに諦めて目を閉じてしまっていた。

 多く血液を採ってしまった分、身体に負担がかかっているのかもしれない。

 腕がじんと痛んでいて、身体全体は酷く怠くて、目を開けているだけで、目に見えるもの全てが回って見える。

 目を開いている状態が、辛い。


「大丈夫? 気持ち悪くない?」


 グレイペコーの不安げな問いかけに、リグレットは小さく頷いた。

 目眩が酷くて起き上がるのは到底無理だろうが、吐き気を感じたりする事はなさそうだ。

 グレイペコーがそっと頰を撫でてくれて、その指先があたたかくて優しくて、リグレットはほっと息を吐き出した。

 おそらく、ずっと側にいてくれたのだろう。

 ありがとう、と言おうとして、すっかり喉が渇いていて上手く声にならない事に気がついたリグレットは、困ったように眉を下げた。


「お水、飲めそう?」


 すこし、と唇の動きだけで呟くと、グレイペコーはリグレットの上体を静かに起こしていて、それが全く自分に負担がかからないよう動いてくれるのだと気がついたリグレットは、すっかり安心し、そして、感心してしまう。

 ノルがグレイペコーを信頼しているのも、きっと、こうした心遣いがあるからだろう。

 リグレットの身体を支えたまま、グレイペコーは器用に片手を使ってサイドテーブルに置かれた水差しからグラスへと水を入れて差し出した。

 確かめるようにグラスを手に取って、ゆっくりと飲み込むと、渇いた喉に水がじんわりと染み込んでいくのがわかる。

 リグレットが時間をかけてグラスの中身を水を飲み干せば、またベッドに寝ていた時と同じような状態へと戻されてしまう。

 問題がなければ動いても大丈夫だとは言われているけれど、過去の件から、慎重を期しているのだろう。


「お疲れ様、ゆっくり休んでいいからね」


 その言葉に頷きかけて、天井を見上げてぼんやりとしていたリグレットは、はたと気が付いて、慌ててグレイペコーを見た。


「ペコー、ノルは? ノルは、大丈夫なの?」


 焦ったように言うリグレットが無理に身体を起こしかけているのを見越してか、やんわりと肩を押さえているグレイペコーは、大丈夫、と優しく笑っている。


「薬を投与してから落ち着いてきたよ。先生も、もう大丈夫だろうって」


 姿を見る事はまだ出来そうにないけれど、グレイペコーはこうした時に嘘を言ったりしないのは分かっているので、リグレットはほうと息を吐き出した。

 父親の血を受け継いでるとはいえ、もしも効果がなかったとしたらどうしよう、と内心不安になっていたのだ。

 どっと安堵の気持ちが押し寄せてきて、身体からすっかり力が抜けてしまう。


「そっか、良かったあ……」

「よく頑張ったね」


 だからゆっくり休もう、と言われて、リグレットはぼんやりと頷いた。

 とにかく怠くて、眠くて、仕方がない。


「ペコー」

「ん、なあに?」


 幼かった頃、ぐずぐずと眠れずにいたリグレットを寝かしつけた時のように、優しく頭を撫でながら、グレイペコーは首を傾げている。


「私がした事って、ノルには、迷惑じゃなかったかな……」


 リグレットの呟きに、ぴたりとグレイペコーの手は止まった。


「どうしたの、急に」


 グレイペコーの戸惑ったような声に、リグレットは返答をする事が出来ずに、天井を見上げたまま、ゆっくりと瞬きを繰り返した。

 ノルがいつも痛みが酷い時、自傷行為に等しい行動をしてしまうのは、これ以上痛い思いをしたくないからではないのか。

 あの薬を服用したのはネムの強要があったにせよ、それがもしもノルの意思だったのならば、自分のした事は間違いではなかったのか。

 過去に彼が言っていた、生きていく事で精一杯だという言葉は、それを示唆していたのではないのか。

 今更になって、そんな不安ばかりが襲ってくる。

 血をたくさん採ったから、身体の変化と相まって、気持ちが不安定になっているのだろうか。

 ぐちゃぐちゃになってきた視界と思考に耐えかねたリグレットが瞼を閉じると、グレイペコーが静かに息を吐き出す音がする。


「……、どうだろうね。ノルの本当の気持ちは、ノルにしかわからないから」


 長年、ノルが苦しんでいる姿を間近で見てきたグレイペコーには、何か思う所があるのかもしれない。

 眼を開いたリグレットが顔を向けると、唇を緩く噛んだグレイペコーが、顔を俯かせ腕に手を当てて、握り締めている。


「もしそうだとしても……、いつか、良かった、って言ってくれるかもしれない」


 そう言うと、リグレットに視線を向けていて。


「それなら、その可能性まで消えないで良かったんじゃないかな、って、ボクは思うよ」


 少し淋しそうで、優しい笑みに、リグレットは小さく頷いた。

 そうであったならいい、と心の中で密やかに思いながら。


「ありがとう、ペコー」


 さ、早く休もう、と言って、グレイペコーは毛布をしっかりと掛け直した。

 リグレットの身体の中でざわざわしていた気持ちを、優しく宥めるように、また頭を撫でている。

 少しずつあたたまっていく体温と、一定の間隔で撫でられる感触に、リグレットは瞬きが次第に緩やかになるのを感じていた。

 うわごとのように名前を呼ぶと、グレイペコーは優しい声でなあにと聞いた。

 全部がふわふわして、もう眼を開けているのも難しい。


「ノルが目を覚ましたら、起こしてくれる?」

「わかった。その時はちゃんと起こしてあげるから、今は休んで?」

「うん……」


 うとうとと、波が寄せては引くように、ゆっくりと眠気がやってきて、リグレットは深く眠りの中へと沈んでいった。

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