第7話 聖堂街
喉の渇きに堪えきれず咳き込みそうになったマレーの口を、小さく柔らかな手が塞いだ。
「もう少しの辛抱です」
囁く声に緊張の色はない。
深い傷を負った貴人を運ぶための担架に匿われたマレーは、オレリアの言ったとおり誰にも咎められることなく宮廷の深部へ進めたことに驚愕していた。
意識を取り戻した頃にはもう手当てが済んでいて、何をどう説得したのか、聖職者たちがマレーを担架に載せて運んでいたのだ。普段であれば近づきすらしない聖堂街の、昼夜を問わず焚かれた乳香の匂いが強まっている。
そして担架に載せられた患者を覆うための清潔な亜麻布に潜り込むようにして、オレリアがマレーの胸の上に隠れていた。
「できるだけ身体を動かさないように。宮廷医は協力者ですが、彼の部下がそうとは限りません」
息をしても腹に負った傷が痛まない。どうやら本当に宮廷医の手当てを受けることができたらしい。異教徒と忌み嫌われるマレーにとって初めてのことだった。
しかし、油断はできない。
厩舎でマレーが襲撃者たちに遅れを取ったのは、己の腕力に慢心して不覚を取ったでも、穏便に解決しようと話し合いを試みたからでもない。何事かの奇跡によって身動きを封じられたからだ。
襲撃者の祈祷によって、マレーは
「マレー。これをあなたに預けます」
オレリアがマレーの胸の上から腕を伸ばし、なにか紐のようなものをマレーの首にかけた。くすぐったさに身じろぎしそうになるのを堪える。ここでオレリアの存在を露見させるわけにはいかない。
亜麻布の下でほのかに燐光を放つそれを目にして、マレーは思わず息を呑んだ。
無垢な木彫りのお守り。一見すると土産物屋で十把一絡げに売られている工芸品でしかない。しかし、そこに彫られている太陽を背にした十字の紋章が、この木片を特別足らしめている。
ミトラスのタリスマン。ミトラス教徒として洗礼を受けた証が、マレーの首にかかっている。
「今この瞬間だけ、あなたはミトラス教徒です。体験入信ということで、神様にも大目に見てもらいましょう」
「……」
「あなたを縛った奇跡はおそらく、獣や蛮族、異教徒に用いるものでしょう。兄上には使えず、あなたにだけ効果を及ぼす。そんな奇跡は限られています」
自分の信徒の責任は、自分で取ってもらいましょう。
そう囁いて、オレリアは指先でタリスマンを弾いた。その無邪気な表情は、まるで捕まえた鼠で遊ぶ猫のようだ。
マレーは担架に横たわる己の背筋がじっとりと汗ばむのを感じた。兄妹だというのに、己の主であるシャルルと性質があまりにも異なる。
シャルルには武人としての
しかし、同じ血を引いているはずのオレリアが浮かべているこの穏やかな笑みは、一体何だというのだ。
「――聖療院の施しを必要とする患者である。開門を」
行列の先頭から挙がった声に、マレーは現実へと引き戻された。
聖堂街に到着したのだ。余計なことを考えている場合ではない。己の身体の下敷きにして隠した剣をいつでも掴めるように意識しつつ、マレーは視線でオレリアに指示を求めた。
「しばし待て、確認する」
「確認? 急患なのだ、門を開けられよ!」
「聖療院は重要な祭儀のために現在立て込んでいる。宮廷医の設備で不足するような怪我人が出たという話は届いていないぞ」
「第二勇者ヒロ・フユハラの名にかけて、この門を今すぐ開けられよ! 主の座たる聖堂街の足元で、救いを求める哀れな信徒を死なせるというのか!」
「……いいだろう。開門する、患者をこちらに」
動きはじめた。
鎖と滑車のかき鳴らす金属音が石造りの宮廷に木霊する。
どうやら担架を運ぶ二人の修道士だけが前に進み、患者を聖堂街の聖職者に引き渡すようだ。オレリアがマレーの上で笑みを深めた。
「まもなくです。この布を剥がされた瞬間に動けるようにしておいてください」
緊張に強張ろうとする身体をなだめて、マレーは静かに呼吸を繰り返した。
濃い乳香の匂いが鼻腔をくすぐる。聖職者の纏う祭服からも、襲撃者たちからも漂っていた、馴染みのない匂いだ。
そしてついに、香炉が吊るされた門の前に担架が置かれた。
重い鉄の門が石畳を削って開く音に紛れて、奥から足音が近づいてくる。
いよいよだ。
「ご苦労であった。患者は確かに受け取った。宮廷医殿の穢れなき信仰心にミトラスの加護があらんことを。……中を確認し、運び込め」
亜麻布越しに気配が近づいた、その瞬間。
「今ッ!」
オレリアが指先で魔導文字を刻んだ。
突風が放たれ、二人を隠していた亜麻布が目前に迫っていた僧兵を絡め取る。
急に開けた視界の眩しさに眉をしかめながら、マレーは背にしていた剣を掴み、僧兵を一振りで吹き飛ばした。
初めて目にする聖堂街。
「ここが……」
その荘厳さと絢爛さに、マレーは一瞬圧倒された。
黒く塗られた天井に、偽りの星々がきらめいている。大理石で作られた白亜の街並みには金の装飾がふんだんに施され、奥の広場では泉に魚が跳ねている。
さながら都市として作られた宝物殿のようだ。
マレーとオレリアが姿をあらわにしたことで、門の周りに混沌が広がっていく。外側では修道士たちが宮廷医に詰め寄り、内側では布に絡め取られて藻掻く僧兵を前に赤ら顔の聖職者が呆然としている。
その中で、オレリアだけが冷静に前を見据えていた。
「な、一体何が……」
「司教座聖堂街執事次長、ノウァートス殿とお見受けします。兄上はどちらに?」
「……ええい、何をしている! 曲者だ! 異教徒が侵入した! 鐘を――」
ノウァートスと呼ばれた聖職者は、オレリアの問いかけにはっきりと狼狽の色を浮かべた。
回答はない。しかし、彼はオレリアの問いかけに答えなかった。それだけで証拠としては十分だ。
言葉の続きを待たず、マレーの剣がノウァートスのあばら骨を砕いた。
「おや、斬らなかったのですね」
「は……」
オレリアの言葉に咎めるような意図は感じられなかったが、それでもマレーは恐縮して頭を下げた。
鞘に収めたままの剣を握る手に力が籠もる。
斬らなかったのは、口がきける状態で生かしておかなければならないと気づき、踏みとどまったからだ。その理由がなければ、きっとマレーは斬っていた。
「兄上はいい部下を持っているようですね。さて……」
騒ぎを聞きつけたのか、奥からいくつもの足音が駆け寄ってくるのが聞こえる。後ろでは門が閉ざされた。
これでマレーはオレリアと二人、敵地に取り残されたわけだ。
「近衛が合流するのを待ちたかったのですが、仕方がありませんね。私はノウァートス殿とお話をしてきます。邪魔が入らないように、頼めますか?」
「仰せのままに、殿下」
将として命を預けるにはあまりにも頼りないように見える、幼く儚い姫。シャルルの妹でなければ、マレーは彼女を守るべき民として扱っていただろう。
しかし、今は彼女の指示が他の何よりも心強かった。
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