第10話 スカウト

 エウラリア。そう名乗りはじめたのは2年前のことだ。

 故郷の村は貧しく、冬場には家畜を潰してもなお飢え死にする者がいた。北方の商業都市群から王都に続く街道にも、南海へと続く河川にも距離がある、薄暗い沼地の村では仕方のないことだった。

 村で唯一の鍛冶職人である父のおかげでなんとか生活は成り立っていたが、それでも豆のスープ以外の食事が出てくることは稀だった。


。この金を持って、王都に行け。お前は頭がいいから、きっと出世できる」


 いくらかの銀貨とそれなりの銅貨が詰まった革袋を遺して、父も冬を越えることなくこの世を去った。老いと疲労から生じた熱病だった。

 きっとあのとき、父は熱で頭がおかしくなっていたのだろう。ユーラリーは修道院で洗濯をしながら、父の言葉を思い返した。まだ10歳の小娘がどうやって一人で王都に行けるというのか。

 銀貨と銅貨は寄進という名目で修道院長の袖の下に収まり、ユーラリーは姓を捨て修道女となった。修道院のあるルグラン丘陵は、街道を行く行商人や巡礼者、冒険者によって賑わっていた。

 修道院は爛れきっていた。宿泊者を相手に酌婦の真似事もさせられたし、修道院長もユーラリーがだった。

 転機が訪れたのは、ユーラリーが修道院で2年過ごした春のことだ。


「ユーラリー。貴女を手放すのは惜しいが、教区長の仰せです。まさか貴女が優れた職工だったとは」


 眠れない夜、ユーラリーは修道院の祭具を手入れしていた。信仰心などとうに失せていたが、燭台や香炉が磨かれないままでいることは偉大な鍛冶師の娘として我慢ならなかった。

 問題は、その祭具が修道院の備品ではなく、王都の聖堂街へと運ばれる教会の宝物だったことだ。

 罰せられるのではないかと怯えて馬車に乗ったユーラリーは、担当者を名乗る男と面会し、呆気にとられた。彼はユーラリーの技術を称賛したのだ。

 12歳にしてユーラリーは教会お抱えの職人見習いとなった。教会が抱える鉱山の麓、鍛冶師の隠れ里に新たな住居が用意された。

 初めての一人部屋。飾るべきものは思いつかない。かつて父の蓄えが入っていた空の革袋が棚の上で所在なさげにしていた。

 隠れ里の鍛冶師たちは「鍛冶場に女が出入りすること」を嫌がる。女の血は炉を穢すからだ。馬鹿馬鹿しい土着の信仰だが、彼らはミトラスへの信仰と炉の神への信仰を器用に使い分けていた。

 ユーラリーは性別を捨て、男の修道士となった。教会風にルグランのエウラリウスと新たな名を賜った。


「いいか、エウラリウス。信仰がどう言おうとも、金属はただ金属だ。主ミトラスが金属をどのようなものとして創りたもうたのか、それを考えなくては」


 元は女であることを知っている鍛冶師たちはエウラリウスに近づかなかったが、エウラリウスを可愛がった男がいた。自然哲学者を自称する彼は、言ってみれば技術顧問だろうか。

 エウラリウスは彼のもとで金属を知った。鍛冶師として学んだ技術を理論に落とし込んだ。今思えば、彼もまた狂人だったのだろう。彼は「主が生み出した真理を探究ために」というだけの理由で教会の秘匿を暴いた。

 教会が秘匿していた祭具の製法。それは、魔術を用いたものだった。

 火の魔術と風の魔術を使えば融点の高い金属も扱える。土の魔術は鋳型作りに適している。水の魔術による冷却は従来のものよりもはるかに安全で、かつ均一だ。


「教会が魔術を否定しているのは抑止のためだろう」

「どういうこと? 民の豊かさは主の望みでしょう?」

「魔術を日常的な技術として取り込むのは、魔術を戦の道具として使うよりも多くの死者を生む。昔の教会にも、それに気づいた人がいたんだろう」


 2年間彼の薫陶を受けたエウラリウスには、その言葉がよく理解できた。

 魔術は教育さえ受ければ誰でも扱うことができる技術だ。もし万民が魔術を学べば、より多くの新しい武器が作られる。

 エウラリウスが忘却の彼方に追いやっていた記憶の中で、父は領主のために槍の穂先を鍛えていた。あのとき、父の背中はどうしてあんなにも悲しげだったのか。

 教会は魔術を否定しなくてはならない。納得はできる。

 しかし、鍛冶の里で継承された禁忌の技術がいつか人に牙を剥かないと、どうして言えるだろうか。


「ミトラスの教えが廃れない限り、禁忌は禁忌のままだ。つまり、永遠に」


 自然哲学者は楽観的だったが、エウラリウスは同意できなかった。己の肢体を貪るルグランの修道院長が信仰に忠実だったとは言えない。

 そしてエウラリウスの予想は的中した。

 枢機卿お抱えの聖戦士のため、神の威光を代弁する優れた武器を。

 担当者からそう命じられたのは、ガロア王都の聖堂街に王族が討ち入りをしたという噂が流れてすぐのことだった。聖堂街に卸していた祭具の製造が取りやめになって手が空いた職人たちに、武器職人という新たな仕事が与えられた。


「エウラリウス……君は、逃げろ。逃げて、探究を続けるんだ」


 自然哲学者に手を引かれて、エウラリウスは廃坑を進んでいた。

 彼は愚直にも教会の担当者に抗議し、返答の代わりに銀の短剣で腹を一突きされた。学者としては優秀だったかもしれないが、最期まで常識がなかった。

 地上への道を隠していた岩を動かして、彼は力尽きた。エウラリウスは彼がお気に入りだと自慢していた、気障な羽根付き帽子をもらっていくことにした。

 革袋と羽根付き帽子、そして教会の禁忌だけがエウラリウスの資産だった。

 酌婦としての経験を活かし、金を稼いで海を渡った。修道院長が修道院の堕落を誤魔化していたように、エウラリウスも言葉を巧みに操った。

 才覚の萌芽。

 エウラリウスは背徳の欲を煽る天才だった。男装の麗人、錬金術師エウラリアと名を変えたのも才覚を発揮するためだ。異教徒的で異国的な錬金術師という肩書きは、エウラリアの手品にぴったりだった。

 数十人を誑かし、数百の宝石を貢がれ、革袋は再び満たされた。


「――まさか、ユーラリーか?」


 忘れつつあった名が呼ばれたのは、18歳の春。

 新しいカモとしか思っていなかったホプトン男爵は、父の弟だった。

 そんな安っぽい悲劇があるものかと笑い飛ばしたが、革袋に刻まれた家紋はホプトン男爵家のもので間違いない。エウラリアは彼の館に招かれ、そこで幼き日の父が描かれた肖像画を目にした。

 父は先代当主、つまりエウラリアの祖父に勘当され、海を渡って鍛冶師として生計を立てた。革袋に入っていたのは祖父が父に渡した最後の愛だったのだ。

 そして、病に没するより前に父からホプトン男爵へ手紙が送られていた。

 娘のユーラリーにガロアの王都で教育を受けさせたいと考えていること、そのために使う気のなかった蓄えを使うこと、自分はもう長くないこと。筆跡は流暢で、無愛想な父の印象とはかけ離れていた。

 そして「俺は勘当された身だが、娘に罪はない。できる限りの援助を」と簡潔に、しかしはっきりと懇願する一文が末尾に記されていた。

 その言葉足らずだが誠実な言い回しは確かに父のもので、涙で滲ませないよう必死に堪えた。

 ユーラリー・ホプトン。

 初めて本当の名前を知ったころには、それを名乗る身分を失っていた。

 表向き、ルグランのエウラリウスという男には賞金がかかっている。修道院の脱走者であり、盗人であるとして。かつてエウラリウスが鍛冶師の娘ユーラリーであったことは教会内では共有されている事実だ。


「錬金術師、背徳を囁く男装の麗人エウラリア。私にはこれが相応しい肩書きだよ、叔父上」

「しかし……お前はそれでいいのか」

「構わんさ。むしろ私は叔父上の懐具合を心配している。私は錬金術師、そこらの酌婦が一晩で稼ぐ小銭の100倍をまばたきの間もなく稼いでみせるが、どうだい?」


 こうして、エウラリアはホプトン男爵領の食客となった。

 馬鹿な貴族たちやその御婦人方を相手に錬金術と称して手品を披露し、見物料として金品を巻き上げる。わかりやすく見世物として振る舞えば彼らの信仰心は傷つかない。痛むのは懐だけだ。

 ホプトン男爵は豊かになった。宮廷に出入りできるほどの関係を得たのだ。

 しかし、この豊かさも長くは続かないとエウラリアは予想していた。この手品は流行病のようなものだ。熱がさめれば見物人は来なくなる。

 鉱山を開発し、エウラリアの知識と技術でホプトン男爵領を鍛冶の聖地にする。魅力的な計画に思えた。しかし、鉱山開発には人手がいる。金もかかる。そこまでの投資ができるほどの豊かさはまだない。きっと、これからもない。


「――あなたの技術を買いに来ました。エウラリア先生」


 そして、エウラリアは悪魔に見初められた。

 オレリア・アルノワの名はもちろん知っている。彼女がガロアの聖堂街をしたあの事件はエウラリアがエウラリアとして歩みだしたきっかけだったのだから。

 ガロア王国の不遇な天才。神を畏れない聖職者殺し。真の信仰を守る神の愛し子。様々な風聞を耳にしてきた。しかし、その姿は噂から想像していたよりもずっと幼く、華奢で、美しい。


「……美しい色の髪だと、初めて見たときから思っていたよ」

「ありがとうございます。父似です」

「ガロアの王か、それはいいな。……本当に、美しい鋼の色だ」


 堕落した鍛冶師の娘を誘惑する鋼色の髪の乙女。

 これもなにかの運命だろうか。

 エウラリアは顔を青ざめさせている叔父に目をやって、それから彼の後ろで食事を待つ従兄弟たちに微笑んでみせ、そしてオレリアに向き直った。

 いつまでも優しい叔父に甘えているわけにはいかない。

 魔王に従う悪魔は不完全な被造物であり、それゆえに嘘をつかないという。どうせ賭けるなら、悪魔に賭けたい。

 エウラリアは被っていた羽根付き帽子を取り、オレリアに深く頭を下げた。


「承知いたしました。錬金術師エウラリア、身命を賭してお仕えいたしましょう」

「対価は何を望みますか」

「この地に鉱山を。ホプトン男爵領は20年もすれば鍛冶の熱気に満ちた土地となる。師の名に懸けて確約いたします。……世話になったね、ホプトン卿。これが私なりの恩返しだ」


 余計なことを口走りそうな叔父を視線で宥める。

 オレリアの隣にはこの国の第一王子であるリシャールが座っている。彼が口を閉ざしているのは、「第一王子がホプトン男爵領で破門の対象である錬金術師と言葉を交わした」という事実を残さないためだろう。

 リシャールがホプトン男爵を訪ねた。

 ホプトン男爵領には錬金術師を自称する男装の麗人が滞在している。

 醜聞を回避するためには、このふたつを結び付けないようにする必要がある。エウラリアを「いないもの」として扱えば、ふたつの事実は直接には結びつかない。

 もちろん結びつけることはできるだろう。しかし、それを実行するのは「証拠もなく第一王子に言いがかりをつける愚か者」だけだ。

 ここでホプトン男爵がエウラリアとの血縁を明かしてリシャールにエウラリアの保護を訴え出れば、その策が台無しになる。

 それに、エウラリアにとって悲観するような話ではない。


「あなたには研究室を与えます。今はまだ予算が少ないですが、できる限りの要望には応えます。構いませんね、殿下?」

「……君の財産を君がどう使うかについて、僕が口を挟むことはないよ」

「大変結構。それなりに忙しい職場になると思いますが、相応の待遇は約束します」


 やや形が変わりはしたが、ユーラリーはようやく父の願いを叶えられた。

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