第15話 ガロアの宮宰
「ご苦労であった。道中に
「は、
レイモン・ジラールは受け取った封筒を天窓の光に透かし、開封の跡がないことを確認した。
中身を盗まれないよう運ばせていた偽物が開封されて以来、ジラールは必ず自分の目で確認を挟むようにしていた。これには過去に副官選びを失敗したことで得た教訓も関係している。
あの日のことは今も夢に見る。そして、己の失敗が哀れな兄妹の道を歪めてしまったことへの後悔も。
「オレリア様に、お変わりはないか」
「私も直接お目にかかるわけではありませんが、息災のご様子にございます。背丈も幾分伸びられたとのこと」
「そうか。……少し休め。返事をしたため次第、また渡ってもらうことになる」
北方商人の身なりをした男は小さく頷き、ジラールの執務室を後にした。
彼に名はない。鳩とだけ名を与えられた間者たちの一人だ。
しかし、あの鳩の仕事は諜報でも破壊工作でも、ましてや暗殺でもない。オレリアからの手紙を受け取り、荷としてガロアの宮中に運び込むこと。つまり、彼は本当の意味で伝書鳩として使われている。
「そうか、背が伸びたか……」
ジラールは鼻の奥に熱いものがつんとこみ上げるのを感じて、己の頬を軽く打った。感傷に浸っている場合ではない。
辺境であるレフコス王国に送られたのは教会の意向だ。オレリアが聖職者を殺めた以上、教会の面子を潰さないためにもオレリアはこの地を去る必要があった。
だから、表立って彼女を支援することはできない。侍女らしい侍女もつけなかったし、家財道具も最低限しか送らなかった。追放された人物である、公にそう示す必要があった。
しかし、それはあくまで表立っての話だ。
ジラールは私人として、そして宮宰として彼女を秘密裏に支援していた。
「――レイモン」
「……陛下、ノックをしていただかないと困りますぞ」
「そうか。つい忘れる。それより、手紙は来たか」
そして、この男もまた、オレリアを支援する者の一人だ。
テオダルド3世。このガロア王国の王であり、アルノワ家の家長でもある彼が、妻の忘れ形見であるオレリアのことを忘れられるはずがなかった。
鋼色の髪と動じることのない表情から、ついたあだ名が鉛血王。一度戦に出れば粘り強い攻めであらゆる敵を打破する名将だが、ここしばらくは宮廷での仕事に縛られ鬱屈としている。
彼を苛んでいるのは退屈ではない。心配事だ。己と同じ色の髪色で、己と同じく感情表現の下手な娘のことが心配でならないらしく、先日宮廷医に酒量を減らすよう勧告されたばかりだった。
「こちらに。今月は面白い品が同封されてまいりました」
「ほう」
「『月刊・同時代』、今話題の冊子です。オレリア様は雑誌と名付けたそうで」
差し出した封筒をひったくるようにして奪ったテオダルドは、無骨な指先で壊れ物を扱うように中から手紙と雑誌を取り出した。
オレリアには伝えていないが、彼女の手紙はテオダルドも読んでいる。万が一にもオレリアと王家の間で関係が続いていることが明るみに出ては困るのだ。
もちろん、ジラールとの文通であっても教会は喜ばないだろう。言ってみれば彼らはオレリアを追放させ、信心深い後妻を押し込むことで王朝の教化を目論んでいるわけで、オレリアにはいつまでも流刑者でいてもらう必要がある。
ジラールは宮宰として長く勤めてきた。宮廷で働くようになってもうすぐ40年経つ。これで暗殺されようと構わない。最後の仕事としては十分なやりがいだ。
「これがオレリアの作った本か。……ほう、よく調べてある。それに字が面白い。少し不格好だが、不揃いがない」
「印刷という技術を使っているそうで、文字の形の印章を無数に並べて捺しているとか。オレリア様が現地の技術者を雇って作らせたものだそうです」
「素晴らしい。俺の娘は天才だ」
「以前よりそう申しております」
テオダルドが雑誌に夢中になっている間に、ジラールは手紙を確認した。
前回のやり取りで人員補充の相談を受けたとき、ちょうどジラールのところに手の空いている者たちがいた。つい最近まで東部の属州で内乱鎮圧のために雇っていた傭兵団だ。
内乱の原因が解消され治安が大きく改善したため、ジラールは仕事のなくなった彼らに話を持ちかけ、表向きは傭兵団としてレフコス王国に送り込んだ。
事実上の追放に遭った元王女に仕える。そんな厄介事を引き受けたのは、彼らとオレリアの兄に縁があったからだ。
「手紙のほうはどうだ」
「貴族の訪問も減りつつあるそうです。オレリア様に取り入ってガロアに進出しようという輩は見切りをつけたのでしょう」
「ふん、それでいい。俺に臣従せずに俺の羊を食おうという態度が気に入らん」
「健康には問題はないそうです。ただ、レフコスの夏はこれからが本番だそうで、ますます暑くなることを思うと恐ろしい、と」
「もう9月だぞ?」
「9月が最も暑く、そこから一気に冬へと下るそうです」
「……腹を冷やすなと書いておけ」
オレリアは知らないだろう。テオダルド3世という男が本当は子煩悩で心配性な父親であることを。
王として戦に出ていたから、懐妊した妻を置いていくしかなかった。妻が逝去したと報を受けても、民のために戦うことを選んだ。
戦地で顔も知らない愛娘への土産を見つけては贈り、そしてまた戦へ向かう。そんな王が我が子を失った悲しみを表に出さないのは、彼が王だからだ。
「……シャルルを王とし、よき臣にオレリアを嫁がせれば、この国は安泰だったと思わないか」
「陛下。滅多なことをおっしゃいますな。マロツィア様のお耳に入りでもしたら」
「あの売女めの耳目に怯えて王が務まるのなら、やってみればよいのだ。誰ぞ自信のある者は王位を簒奪せよと命じてもかまわん」
「陛下!」
諫めるように目で叱りつけると、テオダルドはようやく口を閉ざした。
マロツィアは教会が強く推してきた後妻だ。聖都シエナ近郊の門閥であるベナドゥーチ家の娘で、教養も容貌もケチのつけようがなく、彼女はガロア王国の王妃として迎え入れられた。
贅沢好きで男漁りを好み、それでいて弁舌では司教も顔負け。しかも己の知性に自信があると見え、政治に口を挟みたがる。彼女の後ろには教会がついているため無視もできない。
テオダルドの言うことも、ジラールには理解できる。
今この国は傾きつつある。新しい風を入れるために、いっそ王位を簒奪させたほうがいいと考えたことがないとは言えない。
もし相応しい簒奪者がいるとしたら、それはシャルル・アルノワか、オレリア・アルノワだ。諸侯が支持する候補は他にいない。
その結論に行き着くからこそ、王が口にしていい考えではなかった。
「……すまん。少し剣を振るってくる」
「それがよろしいでしょう」
執務室を後にするテオダルドの背は、王のそれとは思えないほど小さく丸まっている。彼の尻を蹴って叱咤し、情けないことを言えば笑い飛ばす快活で剛毅な妻はもう彼の隣にいない。
王妃オリアーヌが暗殺されて以来、この国は歪んでしまった。
その娘であるオレリアが異様なまでの才覚で歪みを砕いたはずだった。しかし、それは許されない行いだった。
遠くで姦しい騒ぎ声がする。マロツィアが若い男たちと酒を飲み、破廉恥な遊びをしている声だ。
最後に目にする国がこの有り様ではジラールも納得して死ぬことはできない。
「……これが私の罪なのか、主よ」
今日もジラールの執務室には磔刑に処される魔王の絵が飾られている。
果たして誰が罰せられるべきなのか。老いてなお、ジラールには世界の不条理さが理解できなかった。
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