第14話 慰安旅行

 幌馬車に揺られて、進路は北へ。

 オレリアとアンナは二人きりで遠乗りに出ていた。御者台で手綱を握るアンナはいつにもなく上機嫌で、鼻歌すら奏でている。

 城から出て、二人きりでお忍びの旅だ。

 どこまでも広がる草原を吹き抜ける爽やかな風を胸いっぱいに吸い込む。もう少しでやってくる蒸し暑い夏の気配はまだ遠く、天候にも恵まれて中々の行楽日和だ。

 街道沿いの隊商宿を通過してから1時間ほど。すっかり人の気配もなくなり、オレリアはようやくレフコス島の美しさを満喫できた。


「姫様ー、この草原ってどこまで続いてるんですか?」

「景色に飽きましたか」

「綺麗だとは思いますけど……変化がないですよ、変化が」

「地図のとおりなら、もう少し進むと丘陵地帯に入りますよ。このあたりは積雪量の多い北部から流れてくる河川の影響で平野になっているんです」

「はえー……雪解け水がここまで流れてくるんですねえ」


 視線の先には高くそびえる峰々が薄っすらと白いものを纏って二人を見下ろしている。レフコス島の最北端と肥沃な南部を隔てる天然要塞、霊峰ハレグモナス山だ。

 この島でかつて使われていた古の言葉で「収穫の月」を意味する名を冠したこの山は、麦の収穫が行われる9月になるとようやく真の雪解けを迎える。人々にとって最も身近な暦のひとつだったようだ。

 今は雪賊と忌み嫌われるドゥムノニアの隠れ家となり、レフコス王国の人々に複雑な感情を向けられているハレグモナス山。この山は、レフコス島にもうひとつの恩恵をもたらしている。


「そして流れていった先にはマボン湾があります」

「まぼん。可愛い名前ですね。今回の目的地でしたっけ」

「ええ、そうです。名前の可愛さだけが売りではありませんよ。ハレグモナス山の雪解け水によって豊漁を約束された、豊かな港です」

「おおー! じゃあ、お昼は魚介ですね!」


 アンナが喜びのあまり手綱を離して拍手したが、躾のいい馬たちは御者台を気にもとめず道に沿って進んでいく。

 今日の目的地であるマボン湾はハレグモナス山の恵みとも呼ばれる優れた港だ。雪解け水によって豊漁が約束されており、しかも北西から吹く冷たく湿った風が山に遮られているおかげで気候も比較的崩れにくい。

 中央ほど華々しくはないが、活気のある土地。それがマボン湾だ。

 豊かな自然とその恩恵によって栄えるレフコス島北東部は、中央と比べてミトラス教の影響が薄い。古い地名が失われていないのもそれが理由だろう。


「マボンは豊穣の季節を意味する言葉だそうです。レフコス王国ではすでに使われていない言語ですが、地名に古の面影を感じます」

「姫様、そういうの好きですよね。ミトラス教以前の時代、みたいな」

「ミトラス教とは関係なく、私は歴史が好きなんです。ミトラス教と教会の歴史も好きですよ?」

「ええっ、そうなんですか?」


 どうやらオレリアは反ミトラス教の立場を取っていると思われているようだ。

 首を横に振ると、アンナは驚いたように目を瞬かせた。


「嫌う理由がありませんよ。教義にもこれといって拒みたくなるような部分はありませんし、教会の活動だって立派なものです」

「でも、姫様がやろうとしてることって……」

「教会に独占された市場への介入。そうですね、教会から見れば私は噛みついてきた獣なのかもしれません。一度しね」


 兄を奪還した際の戦いのことを示唆すると、アンナは少し困ったように眉を下げた。彼女にとってはいまだに「主であるオレリアにひとりで戦わせてしまった」という負い目が残っているのだろう。

 街道の左手に広がる草むらから鳥が飛び立った。すんでのところで獲物に逃げられたキツネが勢いあまって街道に飛び出し、馬車の前を駆け抜けていく。

 西の青空へと飛び去った鳥を見送りながら、オレリアは話を続けた。


「教会はとても優れています。信仰を集めるに足るだけのことを成し遂げているのですからね。ただ、便利で強大な教会が一帯に根ざしてしまったせいで、そこから先がなくなってしまった」

「そこから先……?」

「教会の奇跡で治療できるなら、医学に金をかける人はいません。既存の便利な道具は短期的には人々を安定させますが、長期的には成長の芽を摘むんです」


 オレリアは教会を高く評価している。これは本心だ。

 貧者や病人、孤児、寡婦に手を差し伸べるのは国家ではなく教会だ。まだ社会福祉という視点が生まれていないこの世界では、教会がなければ生きていなかった人も少なくはない。

 聖職者が行使する奇跡はより明確に人々の生活を支えているし、奇跡がなくとも多くの地域社会には教会を中心とした連帯がある。

 宗教が嫌いなわけでもないし、ミトラス教を迫害する意図もない。一部の異端や信仰を盾にした悪人を憎みこそすれど、教会そのものにはむしろ好感を持っている。

 ただ、世俗の権力者であるオレリアにとって、教会はどうしても邪魔なのだ。


「たとえば、ある村にいくらでも白パンが出てくる麻袋があったとしましょう。その白パンは誰でも自由に持っていっていいことになっています。アンナがそこの住人なら、パンを持っていきますか?」

「もちろん! ただで食べられる白パンなんて最高じゃないですか!」

「そうでしょうね。ところが、そうなると困ることがあるんです」

「困ること?」

「50年後、突如として白パンの麻袋がなくなってしまいました。これからはパンを自分たちで焼かないといけません。……さあ、誰が麦を育て、誰が水車小屋の番をし、誰がパンを焼くでしょうか」

「……うわあ、そっか。それは困りますね。誰もパンの作り方なんて知らないですよ、それじゃあ」


 ミトラス教が現世利益の側面を持つがゆえに生じた問題。それは、人類がミトラス教に縋りきりになってしまうことだった。

 アンナにはぼかして説明したが、オレリアの頭ではこの先に待っているであろう結末までしっかり見えている。

 突如として白パンの麻袋を失って絶望した人々の前に、神の遣いが現れるのだ。そして、白パンを与える。ただし、パンを口にできるのは厳しい教えを守り、相応の対価を支払った者のみだ。

 オレリアはこの関係をよく知っている。前世では宗教と民ではなく、技術先進国と植民地がこの関係にあった。


「私は教会が世界を豊かさで侵略していると考えています。それは平和で穏やかかもしれませんが、ひどく抑圧されている。あまりにも画一的で、自由がない。私にとっては居心地が悪いでしょうね」

「姫様、変わり者ですからね」

「ね。……とはいえ、世界を革命できると思い込むほど幼稚ではありませんよ。せいぜい私にできるのは、居心地のいい国を作るためにせいいっぱい流れに抗うことくらいでしょうか」


 遠くに水車小屋の塔が見えてきた。川が近い。

 水車小屋は魔法使いの隠れ家、魔女の爪をよく見張れ。これはレフコス王国の牧羊地で伝わる、牧童が羊を追う歌の一節だ。水車小屋に羊が近寄ると魔法使いが蹄を盗んで薬にしてしまうのだという。

 もちろん、水車小屋の番をしているからといって魔法使いなわけではない。しかし、粉挽きは組合を作るほど数が多くないため、守護聖人が祀られていない。

 川沿いに作られる都合上村の郊外に建てられる水車小屋は、村の中心である礼拝堂とも距離がある。年老いた番人は遠出しての礼拝を億劫がる。村人たちは「あの年寄りは信仰心がない、よくない呪いを使って麦を盗むに違いない」と噂する。

 時が経つにつれて、水車小屋には「神が認めていない仕事」という風聞がついてまわるようになった。


「平和は私も好きです。平和でなければのんびり本を読むこともできやしない。しかし、飼いならされた家畜には本を読むなんて贅沢は許されません。アンナだって隠れ食いで鞭を打たれる生活は嫌でしょう?」

「絶対に嫌です!」

「では、がんばってくださいね。港に人を送ってもらいましたから、選抜はアンナに任せます」


 ぽかんとした表情を浮かべたアンナが、次第に状況を理解して怒りはじめた。

 オレリアの頭を叩く手はほとんど力が入っておらず、痛くはないものの、それなりに機嫌を損ねたのは間違いない。

 そう、オレリアが目的地としてマボン湾を選んだのは魚介が食べたかったからでも、のどかな風景を楽しみたかったからでもない。アンナの部下として融通してもらった人員を受け取りに行くのだ。


「ただの旅行だって言ったのに!」

「ただの旅行ですよ。ついでにちょっと大陸からの荷物を受け取って、運んでくれたお礼を渡すだけです」

「もー! 仕事ばっかり! 姫様もちゃんとおやすみ取らないと!」

「取っているじゃないですか。昨日から一枚も書類にサインをしていませんよ」


 今のオレリアにただの旅行で何日も王城を空ける余裕はない。ウーティスを代表としたアルバス・カンパニーは始動したばかりだし、リシャールと進めている計画もあるし、個人的に考えていることもいくらか抱えたままだ。

 ただ、最近ストレスが溜まっているアンナへのご褒美という意図があるのもまた事実。オレリアは嘘をついたつもりはない。


「大体、人員なんてどこから……」

「これはガロアの状況を知っていれば、すぐにわかりそうなことですが……わかりました、ヒントをあげましょう。ガロアは拡張戦争を休止しています」

「……本国から引き抜いたんですか?」

「いいえ」

「ええっと……姫様のご実家?」

「いいえ。あの人たちが動くとしたら兄上でしょう」

「じゃあ……わかった、傭兵!」


 大正解だ。

 ガロア王国は精強な軍を誇っているが、常備軍を維持するだけの収入があるわけではない。軍とは金食い虫なのだ。

 王は諸侯に兵役の義務を課し、諸侯は己の領から徴募兵を行う。それでも兵は不足する。そこを穴埋めするのが傭兵、戦働きを専門とする人々だった。

 少し前までガロア王国は傭兵にとって最高の職場だった。戦争は絶えず起きていて、しかも武功を挙げれば褒賞だけではなく、時には諸侯のお気に入りとして抱えあげられることすらある。

 それが一旦とはいえ終わってしまった。属州各地での内乱鎮圧に参加して小銭を稼いでいた者もいたが、大半は新たな職場を求めて去っていった。

 教会は傭兵を雇わない。彼らの教義に則れば、傭兵とは人殺しで金を稼ぐ悪しき商売人だからだ。そのせいで彼らは守護聖人を持たず、祝福もないまま命のために戦い続けている。

 そんな世界で生き抜いてきたベテランの傭兵団が仕事を探していると聞いて、オレリアは「すぐに送ってほしい」と返事をした。


「土木に長けた優秀な傭兵団を送ってもらいました」

「それは誰から?」

「さて、問題です。『月刊・同時代』にガロアのニュースを掲載できるのは、どうしてだと思いますか?」

「え? えーっと……協力者がいるからですよね。それも、事情通で偏ってない人が……まさか!」


 アンナの驚いた顔を指先でつついて、オレリアはとびきりの秘密を明かした。


「そろそろ私達の後援者について話しておきましょうか。ガロアの宮宰、ジラール閣下です」

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