第13話 企業
「土地と屋敷?」
「屋敷というほど大層なものはいりませんが……どうでしょうか」
私室で軽食をつまんでいたリシャールは、目の前で少し困ったように笑う婚約者を軽く睨んだ。周囲に目がない今、彼女に遠慮する理由はない。
ここしばらく、オレリアが忙しくしていたのは知っている。彼女の計画についてもある程度報告を受けている。なんなら、今ちょうどリシャールは彼女の企業が出版している雑誌を読んでいたところだ。
計画の説明だけではいまいち理解できなかったこの雑誌、そして出版という事業。その価値を、リシャールはじわじわと実感しつつあった。
大陸を含む各地の出来事を年表のように可視化してまとめた『月刊・同時代』は、貴族や地方の名士たちのなかで話題になりつつある。特に爵位を持たない地主層や豪商のような成り上がりは目の色を変えて飛びついたようだ。
読者たちの大半は社交界で見栄を張るのが仕事だ。見栄を張るための看板として「大陸で起きたことも知っている事情通」という肩書きは最高級と言っていい。
一方で、この状況を快く思わない者もいる。情報を独占することによって富を築いていた連中だ。
中でも、教会と懇意にしている貴族たちは『月刊・同時代』を憎んでいると言っても過言ではないくらいだった。
「用意はできる。でも、おすすめはできないね。君のやっていることはちょっと目立ちすぎだし、敵も思っていたより多かった」
暗に「拠点を作れば襲撃される」と指摘すると、オレリアは苦笑した。襲撃のリスクにはもう気がついていたのだろう。
敵が多い。これはオレリアのミスではない。リシャールのミスだ。
出版事業によって教会の情報網に食い込む。この提案を受け、何度も話し合った上で、リシャールは計画の実行を許可した。いざとなれば自分が動けば貴族たちを御することができると思っていた。
どこかで甘く見ていたのだろう。人々の信仰心、もしくは教会という「完成された世界組織」がもたらす利益への崇拝を。
手紙が山ほど届いている。オレリアが偏った知恵をばら撒いて民の信仰を乱す悪徳を働いていると、そう糾弾する手紙が。
彼らは『月刊・同時代』の後ろにオレリアがいると確信している。つまり、城内から情報が漏れているということだ。
「王城内なら君を守ることができる。どうしても必要かい?」
「……そうですね。この状況なら、むしろあったほうがいいのかもしれません」
「この状況なら?」
「囮は目立てば目立つほどいいですからね」
軌道に乗った事業を攻撃されかねないというこのときに、オレリアの口からは囮という言葉が飛び出した。
リシャールが思わず顔をしかめると、オレリアが小さく「失礼」と謝罪を口にした。別段怒っているわけではない。ただ、彼女の意図、真意が見えてこないせいで困惑しただけだ。
顔を合わせてのやり取りを3ヶ月続けて、ようやくわかってきたことがある。オレリアは考えていることを言葉にするのがあまり上手くない。いや、彼女の思考能力に言語化が追いついていないのだろう。
オレリアの頭の中では、きっと無数の計画が夜空の星々のようにピンで留められている。そしてその星々はすべて糸で結ばれており、ひとつの計画が十、二十の計画と連動している。
質問すれば、説明は返してくれる。しかし、常人の目にはひとつの星ですら眩しいくらいなのだ。彼女の見ている星空を、リシャールは想像すらできない。
だから、リシャールは問いかけなくてはならない。これはとても面倒で、とても苦痛な作業だ。自分が何を知らないのかを知らなくてはならないし、無知を認めて教えを請うのは楽しくはない。
「一番の前提として、君がやろうとしている事業? それは何なんだ」
「ああ、そうですね……企業。そう、企業を立ち上げようと」
「企業?」
「……しまった、そこからでしたか」
オレリアはしばらく視線をさまよわせていたが、リシャールが脱ぎ捨てた乗馬用の外套に目をつけた。上品なブルーに染められたお気に入りだ。
「そちらの外套は、遊猟の際に羽織られていたものですか?」
「そうだ。早朝は冷えたからね」
「生地は……羊毛と絹の混紡でしょうか。養蚕は教会の独占事業ですから、そう手軽に入手できるほど流通していません。献上品ですね?」
「……まさか、絹に手を出そうなんて思ってないだろうね。この国では今のところ一度も成功してないんだぞ」
養蚕。それは無謀な挑戦だ。
蚕を飼育し、その繭を絹にする養蚕は三代目勇者が教会にもたらした知恵だとされる。実際は大陸のはるか東でも絹が生産されているが、ともかく三代目勇者の知恵と植物への愛によって教会は養蚕に成功した。
絹は富を生む。吸湿性が高く、滑らかで光沢があり、羊毛よりもはるかに軽い。誰もが絹で一攫千金を夢見た時代があった。
そしてその尽くが失敗し、多額の負債を抱えることになった。日曜の礼拝で説法に用いられているほど有名な話だ。
オレリアも当然それは知っているらしく、首を横に振って話を続けた。
「その高級な生地を外套に仕立てたのは?」
「裁縫師だ。父の代から世話になっている腕のいい職人だよ」
「その職人を雇っているのは?」
「親方。職人を世話するのが彼らの仕事だ」
「親方の上にいるのは?」
「上……職人組合のことかな。鍛冶なら鍛冶、裁縫なら裁縫の守護聖人に奉じられた組合だよ」
たとえば、裁縫なら裁ちばさみが錆びないよう、針が曲がらないように。
鍛冶ならふいごが破けないよう、炉が冷めないように。
それぞれの職能を司る守護聖人の名においてもたらされる奇跡は、職人組合に所属する助祭によって施される。そして組合に籍を置く親方たちは自らの工房に奇跡を施してもらうかわりに寄進として上納金を支払う。
リシャールも自分の目で見学したことはないが、職人たちの口ぶりには守護聖人への信仰が如実に現れていた。
「では、守護聖人がいない職業はどうなっていますか?」
「守護聖人がいない、職業……」
王子として言及しづらいところをつつかれて、リシャールは言葉に窮した。
守護聖人がいないとは、教会が民の営み、職業として認めていないということだ。そういった職業には多かれ少なかれ差別がつきまとう。
たとえば、皮をなめし革製品を作る皮革職人は「死んだ獣を痛めつける行い」として忌み嫌われているし、舞台役者や芝居の座長は「不道徳で人を堕落させる」として教会の敷地への出入りを禁じられている。
人々は皮革職人を穢れた者として扱いながらも革の鞍で馬に乗るし、役者が酒場に入ってくると眉をひそめる割に芝居の巡業があればこぞって見物に行く。
市民がすでに当たり前として受け入れている差別構造を覆すのはとてもむずかしい。リシャールに限らず、この国の統治者が代々頭を痛めているところだ。
「ああ、別に差別の話はしていません。そこに限った話ではないからです」
「は?」
「まだない職業を司る聖人はいません。守護聖人は良くも悪くも分野に特化した偶像ですからね、需要がなければ祀られませんし、需要があれば架空の聖人の一人や二人、いくらでもでっち上げますよ」
とんでもなくあけすけな暴言だが、一理あるのは確かだ。
ようやくリシャールにも話が見えてきた。
「印刷と出版を司る守護聖人はいない、だから組合もない。それどころか当分生まれすらしない。そういうことか」
「ええ。そしてこれは好機でもあります。教会に先んじて、信仰ではなく金貨を紐帯とした横のつながりをこの国に定着させる。こんな絶好の機会、ほぼ間違いなく次はありませんよ」
「……なるほど、わかったぞ! そういうことか!」
興奮して立ち上がろうとしたリシャールは勢いあまって膝をテーブルにぶつけ、痛みに呻いた。
傾いたテーブルからずり落ちた雑誌をオレリアが手に取る。リシャールは勘違いしていた。彼女にとって『月刊・同時代』は目的ではなく、過程なのだ。それも彼女自身ではなく、後進のための呼び水。
オレリアはこの国に「教会の介在しない経済」の流れを生み出そうとしている。
一般的に、農奴でも聖職者でもない自由民がレフコス王国で仕事を選ぶとは親方を選ぶことだ。誰に弟子入りし、どこの組合に所属し、どこで自分の店を持つか。それがすべてと言ってもいい。
そして、親方は組合の寄り合いによって選出される。組合がなければ親方はいない。組合の中心にあるのは守護聖人、もしくはそこから生じる加護への信仰だ。
教会、組合、親方、職人。その流れを分岐させる。
「勇者を王として信じ、崇めていながら、なぜ教会の影響力が無視できないほどに強いのか。いくつも理由がありますが、特に大きいのは教会が市民の生活と密接に結びついているからです。医療、契約、そして――労働」
「彼らは日常的に守護聖人の恩恵を感じている。だから礼拝に行くし、そこで教会の薫陶を受ける……でも、守護聖人がいない職業にはそれがない」
「ええ。だから、まずは示そうと思います。守護聖人が不在の職能でも、やり方次第では連帯して活動することが可能であると」
オレリアの細い指が表紙の裏を指さした。
大々的に飾り付けられた広告。わざわざ目を引く彩色で飾られた枠の中にはこう書かれている。
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