第12話 人事
今月の会計処理を済ませ、四半期決算でギリギリではあるが黒字を確認できたことへの満足感とともにオレリアは帳簿を閉じた。
レフコス王国に根ざして3ヶ月。オレリアの事業は順調に拡大している。手元の損益計算書がその証だ。
オレリアは現時点で世界唯一の複式簿記による会計を行っている社長だ。銀行業を営んでフィレンツェの僭主として君臨するまでに至ったメディチ家の偉大な発明だった複式簿記は、この世界にはまだ影すら見えない。
「姫様ー、お手紙が届いてますよー! それもいっぱい!」
「それはよかったです。未処理の箱に入れておいてください」
「全部いっしょくたで大丈夫ですか?」
「緊急性のあるものなら先方も手紙ではなく使者をよこしますよ。ところで、先生は一緒ではないのですか?」
あふれかえるほどの手紙が詰まった木箱を抱えたまま、アンナは眉をひそめた。
「ウーティスはまだ寝てますよ。昨晩は遅くまで天秤をカチャカチャ、算盤をカチャカチャ……安眠妨害です、まったく」
多くの名前を持っているエウラリアに、オレリアは新たな名前を与えた。
ウーティス。ギリシア語で「誰でもない」を意味し、かつてホメロスの叙事詩『オデュッセイア』でオデュッセウスが名乗った偽名だ。
これまで彼女が名乗ってきたのはどれも本名をもじったもので、身を隠すのに適していない。いずれ本名を名乗れるようになるまでの偽名ならば、「誰でもない」という名前は中々皮肉が効いている。
そんなウーティスはオレリアの居室から一室を研究室として与えられているにも関わらず、アンナと同じ侍従の寝室を使っている。本人曰く、研究室は「安眠するには危険が多すぎる」らしい。
それで寝室に実験道具を持ち込まれるのだから、アンナとしてはたまったものではないだろう。
「姫様からもきつく言っておいてください。あの人、寝室に私物を持ち込み過ぎなんです。ベッドに入ってからひらめいたときにわざわざ研究室に戻るのがめんどくさいとかなんとかって……」
「わかりました、言うだけ言ってみましょう。しかし、こうなると部屋数が足りなくなってきましたね」
来たときは広々としていたはずの部屋が、どんどん手狭になっていく。
オレリアたちが生活しているのは王城に逗留する貴婦人のために貸し出される部屋で、オレリアの居室と寝室、衣装箪笥に加えて侍従たちのための控室兼物置が用意されている。
衣装箪笥を改装し、錬金術師の研究室を用意したことでいよいよ部屋の空きがなくなった。不動産を購入するには元手と信頼できるコネがまだ乏しい。
「殿下に頼むのは駄目なんですか?」
「そうですね……一応、声はかけてみましょう」
オレリアは小さくため息をついた。
経営が順調であるにも関わらず、オレリアがリシャールに頼らないのには理由がある。それは事業の内容だ。
軽量で摩耗しにくい合金の知識、繊細で緻密な金属加工を行える技術、そしてそれなりの元手。これらが揃ったことで、オレリアは印刷事業に着手すると決めた。
目的はいくつもある。競合相手が少ない事業であること、後続の参入が当分ないこと、市場に期待が持てること。そして何より、郵便網への影響力を得られること。
レフコス王国の郵便事業は教会の保護を受けた一部の貴族によって営まれている。民営では赤字になる部分を教会が補填するかわりに、必要に応じて教会が郵便物の検閲を行うという関係だ。
出版と広告を担うことで、この検閲網に対して一定の影響力を持つ。それこそがオレリアの狙いだった。
狙いどおりに事を進めるためにはむしろ、王族との関係は薄いほうが望ましい。権力と検閲が結びつくと反発が生じかねない。教会の検閲が受け入れられているのは、「そもそもミトラスはすべてを見ている」という前提があるからだ。
しかし、他の案が浮かぶわけでもない。オレリアは諦めて、頼りになる婚約者を訪ねることにした。
時刻は11時。予定どおりなら貴族との遊猟を終えて戻ってくるころだ。
「ついでに昼食にしましょうか、アンナ」
「いいですね!」
燭台の火を消し、扉を施錠しようとして、奥でまだ寝ているウーティスのことを思い出した。このままでは密室に閉じ込めることになる。
オレリアが寝室を覗くと、頭まで掛け布団を被って眠るウーティスの姿があった。一度起きたのだろう、まだインクの乾ききっていないメモが手元に残されている。
開いたままのインク壺に栓をすると、布団の下から寝ぼけた声が聞こえた。
「んあ……アンナぁ、朝飯いらないから」
「そう伝えておきましょう」
「……オレリア様?」
「ええ、あなたの雇用主のオレリアです。おはようございます。昼食に行ってきますが、何かリクエストはありますか?」
ついさっきまで被っていた掛け布団をはねのけるようにして飛び起きたウーティスは、寝癖だらけの濃い茶髪もそのままに時計に目をやった。そして、自分が大寝坊をしたことに気づいて顔を青ざめさせた。
「も、申し訳ない、今すぐ身支度を……!」
「寝ていて構いません。人間の身体は十分に機能するために適度な睡眠を必要とするものです。それより、昼食ですが」
「ああ、えっと……スープがあれば」
「わかりました。それでは、おやすみなさい」
ベッドの上で所在なさげに丸まるウーティスは、つい先日まで男装の麗人として多くの男たちを誑かしてきた悪女とは思えない。寝癖で跳ねた髪が犬の耳のようだ。
オレリアが寝室の扉を閉めると、待っていたアンナが呆れたように鼻を鳴らした。
「甘やかしすぎですよ」
「私は有能な部下には優しいんです。アンナもよく知っているとおり、ね」
「ふくりこーせーでしたっけ? 夜更かしした挙げ句11時までいびきかいてるのが有能かどうか、ちょっと私には謎ですけど」
意外にも、というべきか。アンナはウーティスのことをあまり気に入っていないようだった。
食い意地が張っていることと緊張感が乏しいことを除けば、アンナは基本的に勤勉かつ柔軟だ。侍女としての教育を受けたわけでもないのに侍衛武官としてオレリアの護衛になり、一人で侍女の仕事を回してきたのはまさにその証左だろう。
一方で、ウーティスは有能だが怠け者だ。ある意味では効率主義と言ってもいい。興味のない仕事には必要最低限の労力しか割かない。人に甘えるのも上手だ。
オレリアから見て、二人はさほど相性が悪いわけではない。ただ、アンナの負担が大きくなりすぎているのは事実だ。
部屋の戸締まりを済ませたアンナを伴って厨房へと向かいながら、オレリアは人事に頭を悩ませていた。
最大の問題は、アンナが部下を持ちたがらないことだ。
「部下の件、考え直してはくれませんか。現状ではアンナに負荷がかかりすぎています。それはあなたが一番よくわかっていることでしょう」
「そう簡単に信用できる人は見つかりませんよ。……本当はウーティスのことだって、まだ納得いってないんですからね?」
廊下を掃除するメイドたちが、オレリアに気づいて戸惑ったような会釈をする。
彼女たちの態度が示すとおり、レフコスの人々にとってオレリアは微妙な立場の人物だ。異国からやってきた、貴人として扱う必要がある、第一王子と婚約関係にある、婚前で転がり込んできた無礼な賓客。
そんなオレリアの下で働きたいという者はほとんどいない。いたとしても雇うだけの信用も能力もない。
普通なら、故郷から人を呼ぶ。しかし、オレリアにはそれもできない。嫁いだ女を養うのは夫の家の責任というのがガロアの常識だ。
そんな中で見つけたウーティスは得難い人材だった。身分が曖昧で能力があり、実績を示している即戦力。しかも利害が一致する。
これはいい買い物をしたとほくほく顔で帰ってきたオレリアを待ち受けていたのは、すっかり拗ねてしまったアンナだった。彼女の主張は正しい。それに、「自分に相談なく新参者を雇ったこと」への不満や嫉妬があるのもわかる。
「姫様は釣った魚に餌をやらないお方です。お腹と背中がくっつきそうです」
「飢えるような生活はさせていないつもりでしたが」
「もー、そういうことじゃなくてですね……」
いつもは快活でそばかすすら愛嬌にしてみせる笑顔のアンナが、どこかじっとりと独占欲を滲ませている。
自分に忠実で、献身的なアンナ。唯一無二の臣下。彼女から独占欲を向けられるのは嫌ではない。オレリアとしてはむしろ嬉しくすらある。
ただ、すべての仕事をアンナがこなせるわけではないのも事実だ。
「そうですね……わかりました。信用できる人材は私が用意しますから、その中からあなたが使えると思ったものを選抜してください」
「……いなかったらどうしますか?」
「それは困りますね。でも、きっといると思いますよ」
可愛い部下のため、そして自分の野望のため、オレリアはあまり取りたくなかった策を使うことにした。
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