第1話 悪夢
夢を見ていた。
とりとめのない映像の断片。オレリアがこれまで歩んできた記憶の追体験だ。まるで壊れた映写機から投じられる虚像のように、不規則なゆらぎを伴って移ろう世界の中を、オレリアは漂っていた。
一説によれば、夢は脳が記憶を整理するためのデフラグ作業らしい。だから、過去の記憶が流れていくさま自体に違和感はない。
しかし、その中に自分の身体があって、意識があるというのは初めてのことだ。
「これは一体……あ、声が出る」
身体があるのなら声が出るのも当然だろうか。
オレリアは視界を流れていく映像の断片に手を伸ばした。この記憶の世界に果てがあるのか気になったのだ。自分が見ていないところに行けるとしたら、これは記憶ではないということになる。
身体はまるで水中を漂っているようで、上手く動かない。しばらくもがいていると、指先に何かが触れた。硬質な、冷たい何か。
「ひゃっ……」
予想外の感触に手を引っ込めると、世界の映像は停止していた。
場面はちょうど聖堂街の乱の最中、オレリアがノウァートス・ペレーに尋問を行っている瞬間を映していた。
前歯が折れ、鼻からも血を流す赤ら顔の小男。たとえ夢であってもあまり見たい顔ではない。オレリアにとっては失敗と恥の象徴のようなものだ。
「寝る前までこのあたりを漁っていましたからね、夢に見るのも仕方ないことでしょうか……」
レフコス王国の王都を襲った大火から、早くも2年が経つ。
あの日、ベナドゥーチ家の聴罪師が残した「宮廷医マテウスは生きている」という情報をきっかけに、オレリアはガロア聖堂街の腐敗について調べなおしていた。
宮廷内部に聖職者だけの街を作りあげたのは、そもそも誰の差し金だったのか。教会の内部分裂はいつから始まっていたのか。
証拠の大半が処分されてしまったがために、捜査は難航している。
当時の聖堂街を知る聖職者は一人も生きていない。ノウァートスも含め、全て消されてしまった。
しかし、彼の生家であるペレー伯爵家まで消されたわけではない。
責任を取って隠居した当主に代わりペレー伯となったダミアンはノウァートスの兄で、シャルルと轡を並べたこともある誠実な男だ。出家した弟の行いに気づけなかったことを悔いて、宮宰が主導する捜査に協力している。
「金貨鼠のノウァートスに毒を与えたのは誰なのか。そして、宮廷医マテウスは何者なのか」
オレリアが母の死の真相を知ったのは、マテウスが懺悔したからだ。
まだ赤子だったオレリアはゆりかごの中で、「宮廷医として死因が毒であることをわかっていながら、立場ゆえにそれを見逃すことしかできなかった」という懺悔を聞き届けた。
ノウァートスは毒殺を認めた。使われた毒もその後発見されている。
当時から謎ではあった。マテウスは心優しく、少し臆病な宮廷医として愛される人物だ。良心の呵責に耐えかねてという理由にも説得力がある。
なぜオレリアに対して懺悔したのか。
当時、シャルルは13歳だった。成人こそしていないが、ものの分別がつく歳だ。本当に良心の呵責があるなら、懺悔の先はシャルルであるべきではないか?
オレリアが抱えていた小さな疑念の種が、ここ数年で萌芽しつつある。
「聖餐主義者が枢機卿に飼われていること、そして枢機卿の管理する孤児院で人造勇者の製造に使われていること。兄上を誘拐する口実に魔王が選ばれたのも、あるいは意味があってのことだったのか」
魔王。
シャルルを誘拐する口実に使われるほどには人々に馴染んでいながら、その正体は完全に秘匿されている謎の巨悪。
教会は魔王の封印を至上命題としている。かつて初代勇者に敗れた魔王は聖墓ネストリアで今も磔刑に処されているそうだ。
つまり、魔王は生きている。
「魔王とは、一体何なのか……」
「――知りたいか」
低くざらついた声が響いた。
咄嗟に振り返ろうとする身体がひどく重い。ゆっくりと回る視界の中で、映像がひび割れ、万華鏡のように乱れていく。
「誰ですか」
「愚問だな。ここはお前の夢なのだから、お前自身に決まっているだろう」
声がするたびに、無数のひび割れが波を描くようにして広がる。ひとつひとつの罅から漏れ出る光がひどく眩しい。
オレリアは上手く動かない身体を捩って、ひび割れを視線で辿った。
そしてそのはるか彼方に見えたのは、黒いスーツを着た男だ。映像の亀裂から発せられる光のせいで顔ははっきり見えない。
「私が……?」
「見覚えはないか。思ったよりも物覚えが悪い」
男はしゃがれた声でオレリアを嘲ると、両手を一度打ち鳴らした。
すると、その音に応えるようにしてひび割れが止まり、オレリアが感じていた身体の重さも消え去った。まるでこの夢を支配しているかのようだ。
「オレリア・アルノワ。1342年12月、テオダルドとオリアーヌの間に生まれた。母は毒殺され、父は王として戦の日々。兄のシャルルを唯一の肉親として育ったが、攫われた兄を助けようと焦り、故郷を追われた」
「……よくご存知ですね」
「お前は私だ。私はお前ではないが」
男は白い手袋の嵌められた手で何かを弄んでいた。
黒く鈍い光沢。細い銃身。回転式の弾倉。
オレリアの知識は、それが銃であると答えた。この世界にまだ存在しない、極めて軽量化された高度な銃であると。
「なぜ兵器を作らない?」
「……軍事的なインフレーションを起こすメリットがありますか?」
「お前の私兵で独占すればいいだろう」
「鹵獲品からリバースエンジニアリングができないほど、この世界の人々は愚かではありませんよ」
「なるほど。及第点だ」
弄んでいた銃をまるで紙細工のように握りつぶして、男は笑った。顔は見えないが、オレリアには彼が笑顔を浮かべていることがわかった。
気味が悪い。
本当にここが自分の夢の中なのか、オレリアには判断がつかない。この世界には精神に直接働きかけるような魔術はないはずだ。
奇跡に関してもオレリアの知る限りでは「夢の中に入って語りかける」というものは存在しない。それはあってはならない奇跡だ。夢の中で啓示を与えるというのは神のみがなしえる所業とされている。
「あなたは神ではない。私でもない。しかし、私の夢の中にいる。……あなたは誰で、一体私に何の用ですか」
「質問が多いな」
はるか彼方にいたはずの男が、オレリアの首に手を伸ばす。
首を掴まれたオレリアは、詰まる呼吸の中で小さく悲鳴を上げた。ここは夢の中だ。そうであるはずだ。それなのに、化学繊維の手袋が首を絞める冷たい不快感をはっきりと感じる。
「警告をしにきた」
「はな、せ……!」
「安全に気を配れ。無防備が過ぎる。お前は生きていくにはあまりにも弱い」
手袋越しに感じる厚い指が、オレリアの頸椎を軋ませる。
「ミトラがお前を見ているぞ」
砕ける音。
「――ッ!」
飛び起きたオレリアは、荒い呼吸の中で己の首がつながっていることを実感した。
壁にかけられた時計は午前4時を示している。まだ日も昇っていない。
首に痛みはない。しかし、寝巻きを湿らせた汗の不快感は本物だ。
「……夢?」
スーツを着た男と、その手に絞められた首。
断言できない不気味さに身体を震わせて、オレリアは大きく息を吐いた。全身の緊張はまだ抜けきらず、ベッドに身を倒すと自分自身の震えを感じる。
この大事な日に限って、なんと幸先の悪いことだろう。
今日はリシャールの掲げる大きな目標のひとつが達成される日だ。レフコス王国の議会、すなわち星室庁の再出発に向けた重要な打ち合わせが行われる。
悪夢の余韻が、まだオレリアの細首を震わせている。
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