第2話 始まりの日

 フレデリカの淹れたコーヒーを啜りながら、リシャールは今日という特別な日に向けてまとめた書類の最終確認をしていた。

 星室庁を復活させる時が来た。

 1349年にオレリアが婚約者として引っ越してきてから、まもなく3年が経とうとしている。その間、リシャールは諸侯や有力な名士たちから多くの陳情を直接受け取ってきた。

 多忙なリシャールに代わり、今日からは星室庁がその業務を担う。


「ゴドルフィン侯は次期当主が代理で出席、ソマーズ侯は体調不良で欠席。モンタギュー侯もまだ引き継ぎでごたついてて欠席。ニュージェント伯、シェフィールド伯は自ら出席。ガーナー伯は名代のヴィクターが出席か……」

「侯爵の三家が実質不在ですか。延期なさっては?」

「そうもいかないよ、フレデリカ。今が最後の機会かもしれないんだから」


 リシャールは頭を振って、時計を確認した。まだ会議の時間まで40分ある。緊張で胃が震えるようだ。

 最後の勇者召喚から200年近くが経ち、人々が思い描く勇者の像が曖昧になっている今が好機だ。勇者の聖性から国家の運営を切り離すのは今しかない。

 この国に機能している議会が存在しないのは、勇者の血統を人々が神聖視しているからだ。神が遣わした聖人である勇者は決して間違えないのだから、統治者として完璧でないはずがない。

 もちろん、星室庁の評議員は本当の意味でレフコスの王家を神聖視しているわけではない。諸侯も名士も、そして王族自身も、王が完璧でないことくらいは当然理解している。

 評議員が星室庁を動かさないのは保身のためだ。

 教義上、聖人の血を否定することはできない。それは神を疑うことに等しい。形骸化した教義ではあるが、聖人の子孫への冒涜は教会法で禁じられている。

 レフコス王家を批判したところで異端審問官が来るわけではない。しかし、批判したことを口実に難癖をつけられれば教会裁判所での敗訴は免れないだろう。


「それに、教会から派遣される人員の都合もある。僕らの都合で延期して貸しを作ると面倒だよ」

「星室庁の公証人、筆耕官ですか」

「そう。……僕は入れないほうがいいと思うんだけどなあ」


 頭をかきながら、婚約者の言葉を思い出す。

 公証人とはつまり、発行された文書類の正統性を保証する役職だ。裁判の判決であったり、差し押さえの令状であったり、「これが公権力によるものである」と示す必要がある文書は山ほどある。

 この役職を担っているのが教会の聖職者だ。シエナ教皇庁の文書局に在籍する筆耕官は奇跡によって文書の真贋を判別し、正統性を保証することができる。

 絶対に偽造文書が存在しえないという点で、筆耕官の奇跡によって保証された文書は絶大な効力を発揮する。オレリアの故郷であるガロア王国を含め、多くの国家が筆耕官に公証人を任せているほどだ。

 オレリアは筆耕官の招聘は必須だと主張していた。星室庁が本格的に稼働するためには、まず強制力とそれを裏付ける信頼性が必須だからだ。

 理解はできる。ある日突然動き出した議会に何かしらの要求をされたとして、それにすぐさま従う貴族などいはしない。裏付けとなる何かが必要だ。可能なら、勇者とその血統以外の部分で。

 しかし、リシャールは筆耕官を招聘することに反対していた。


「教会はレフコス王国に対して常に友好的なわけじゃない。議会の信頼性を高めるために敵を招き入れるなんて……」

「オレリア様は何と?」

「敵を招き入れることについては手遅れでしょう、だってさ」


 今日も扉の向こうで待機しているであろう近衛騎士のことを思って、リシャールは皺の寄った眉間を揉みほぐした。

 ジョシュアは2年前の大火を重く見た教会が送ってきた護衛だ。名目上は「勇者の血統を保護するため」となっていたが、十中八九監視だろう。

 実直な働きぶりで剣の腕もよく、最近は剣の稽古相手が不足していたレオに気に入られている。シエナの僧兵らしい初心さからメイドたちにもからかい半分で親しまれているようだ。

 悪人ではない。しかし、オレリアは彼を教会の工作員だと考えている。

 何を考えてか、父であるオーウェン2世がジョシュアに近衛騎士の身分と俸祿ほうろくを下賜した。その恩恵でジョシュアは大手を振ってレフコスの王城に滞在でき、その分オレリアは肩身の狭い思いをしている。


「まあ、筆耕官については呼ぶだけ呼んでみようってことになったよ。駄目なら駄目で早めに追い出すさ」

「それがよろしいかと」

「……フレデリカ。本当にいいんだね、星室庁に参加しなくて」


 いつもどおりの鉄面皮を少しも動かすことなく、銀のトレイを前に抱えてフレデリカは小さく頷いた。

 フレデリカ・バーネット。

 バーネットは家名ではない。バーネット家政伯という爵位だ。初代メイド長バルバラ・バーネットから脈々と受け継がれてきた、レフコス王国における唯一の女系貴族としてフレデリカは王城の家政一切を取り仕切っている。

 だから、彼女はバーネット家政伯として星室庁での議決権を有する。


「私が家政伯として発言しようと、裏に陛下のご意思を読み取ろうとする者は少なくないでしょう。歴代のメイド長がそうであったように、私もまた王の従者としてのみありたく存じます」

「……そうだね。すまない、余計なことを聞いた」

「いえ、ご配慮に心より感謝いたします」


 フレデリカがいてくれれば議会を御しやすいと考えたが、それも難しそうだ。

 星室庁――星が集う部屋の名が示すとおり、元々レフコス王国の議会はミトラス教の聖職者による聖人議会だった。初代勇者を召喚した古の聖人たちがレフコス王国の議会を担っていたのだ。

 奇跡を行使できる聖人によって運営される国家。おそらく世界のどこよりも安定し、優れた統治を可能にしたことだろう。

 それなのに、なぜ星室庁が廃れてしまったのか。それは定かではない。当時の資料も残っておらず、今や星室庁自体が形骸化し、議員名簿も諸侯が名前を連ねるのみとなっている。

 おそらくシエナ教皇庁の文書局にはレフコス王国星室庁についての資料も残されているのだろう。どうして自分は文書局の保管庫に入室できないのかと、最近ますます歴史趣味を隠さなくなったオレリアが歯噛みしていた。


「筆耕官にはどなたがいらっしゃるのですか?」

「ヴェルナティウスという司祭だ。セルヴィティア家の出身らしい」

「セルヴィティア家……イシドルス様の」


 フレデリカの表情が露骨に歪んだ。普段は感情を極力露わにしない彼女がここまで人を嫌うのは本当に珍しいことだった。

 門閥セルヴィティア家の出身であり、教皇の世話人カペラヌスであるシエナのイシドルスはレフコス王国にも度々姿を見せている。1350年の大火で哀れにも亡くなった死者を慰める追悼式では自ら人員と物品を手配し、大勢の前で祈りを捧げた。

 育ちすぎたサンショウウオなどと揶揄されるほど見目が悪く、自らも贅沢な身なりで露悪的趣味を隠さない彼は人に好かれない。

 見目や趣味ではない。もっと本質的な部分が嫌悪感をかき立てる。

 高僧という生き物は人間性を捨てなければならないという戒律でもあるのだろうか。彼と過ごした者は皆口を揃えてこう言うのだ。

 イシドルスは人として何かが欠落している。

 そのイシドルスが追悼式の後に自ら推薦してきた筆耕官がヴェルナティウスだ。リシャールはまだ顔も知らない。そんな人物に星室庁の行く末を一端でも任せるのは不安でならなかった。


「まあ、オレリアが言うにはセルヴィティア家は教皇派の中でも穏健派に位置しているらしいし……期待しない程度に、期待しておこう」

「左様でございますか。……そろそろ、よろしいお時間かと」


 時計に目をやる。歩いて王城内の議会に向かうにはちょうどいい時間だった。

 リシャールはぬるくなったコーヒーを飲み干して、カップをフレデリカに返した。かつてオレリアと二人で飲んだ失敗作には遠く及ばないが、フレデリカはコーヒーを上手に淹れる達人だ。


「頑張ってくるよ」

「行ってらっしゃいませ、ご武運を」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る