第22話 ウーティス・アルバス
目が覚めてウーティスが最初に感じたのは、右肩から腕にかけての痛みだった。
ベッドから身体を起こす。簡素で頑丈さを優先した建具、転がる書き損じ、ポイ捨て厳禁の貼り紙。見慣れたアルバス・カンパニーの仮眠室だ。
しかし、いつもと比べる気にもならないほどひどく散らかっている。ベッドは窓際に寄せられ、折りたたみの椅子が放置されたままだ。火事から避難してきた市民を受け入れるために場所を空けたせいだろう。
「――社長!」
何かをひっくり返す音。
声のした方に視線を向けると、アルバス・カンパニーの庶務を取り仕切るミーシャが口元を押さえて目を見開いていた。彼女の足元は水浸しで、床に落とされた水差しを載せていたであろうトレイがどこかへ転がっていく。
「ああああの、すみませんすみません、今呼んできます!」
「……なんなんだ」
困惑の中で悪態をつこうとして、ウーティスは激しく咳き込んだ。
ひどい喉の乾きで痛みすら感じる。どうやら長い間眠っていたようだ。目の前の水たまりと水差しが恨めしい。
さすがに水が溢れたままにしておくのはよろしくないと判断して立ち上がろうとしたウーティスは、腰の激痛に小さく悲鳴を上げる羽目になった。
ゆっくりと記憶が戻ってくる。聖職者に踏みつけられて、危うく死ぬところだったところをオレリアに救われたのだ。
起きるのを諦めてベッドに身を倒す。
「……オレリア様」
「はい、なんでしょう」
すぐ近くから返ってきた声に、ウーティスは再び飛び起きることとなった。
隣のベッドに腰掛けて、オレリアが微笑んでいる。
全く気が付かなかった。新しい魔術だろうか。一体どんな魔術を使えば瞬間移動が可能になるのか、ウーティスには想像もつかない。
「えっ、お、オレリア様?」
「別人に見えますか?」
「いえ、その、そうではなくだね……えっ? いつからここに?」
「30分前からですね。仮眠を取るから、起きるころに水を持ってきてほしいとミーシャに頼んでいたのですが……」
困ったように眉を下げて笑うオレリアを前に、ウーティスは恥ずかしさで悶えた。耳が熱い。きっと真っ赤だろう。
瞬間移動も何も、オレリアは最初から自分の隣で寝ていたのだ。
それに気が付かなかったどころか、慌てたウーティスの反応は「いないと思ってあなたの名前を呼びました」と正直に告白したようなものだった。
「身体は痛みますか?」
「へ? ああ、その、まあ……」
「できる限りの手当てはしましたが、奇跡に頼れない以上は時間をかけて治療する必要があります。しばらくは我慢してください」
どう返事すればいいかわからず、ウーティスは小さく頷いた。
指名手配を受けているウーティスはミトラス教の奇跡に頼ることができない。ウーティスほどではないが、オレリアも教会とは親しくない。ましてや、この傷を作ったのは聖職者だ。
傷のことは気にしていない。自分の愚かさが招いたことだからだ。
それよりも心配なのが――
「私は、ここにいてもいいのか」
ウーティス・アルバスという人物が邪魔になっているのではないか。お尋ね者を匿うというリスクに見合うだけのことを自分はできているのか。
銃声を耳にして咄嗟に飛び出したのは、そんな不安を抱えていたからだ。
ウーティスを匿うためにオレリアは少なくない人員と予算を割いてくれた。それでも人員には限りがある。
軟禁しなければ守れない。オレリアをそんな状況に追い込んでしまったのはウーティス自身だ。
「私は貴女にとって――」
「先に、言っておくことがあります」
ベッドから立ち上がったオレリアが、ウーティスのベッドに飛び移った。
おずおずと差し出された両手が、包帯の巻かれたウーティスの頭を掻き抱く。少し震えたその手の温かさと、髪から香る柔らかな薔薇の香油。
「ごめんなさい、ウーティス。あなたを追い詰めたのは私の力不足です」
「……それは違う。私が愚かだったからだ」
たった一言の謝罪で、ウーティスは自分がレフコス王国から去らねばならないことを察した。しかし、それを責める気はなかった。
言われるままに銃を作ってしまったことも、名前を捩るだけで変えようとは思わなかったことも、ウーティスの愚かさが招いた罪だ。
オレリアが謝ることなど、何もありはしない。
頽廃に身を堕とし、迫る破滅の音を子守唄にして生きてきたウーティスに光を与えてくれたのはオレリアだ。活躍の場を与えてくれた。平和に生きる道を示してくれた。自由を認めてくれた。
それを責めることなど、どうしてできようか。
「私はわかっていてあなたを迎え入れました。あなたが私の手を取った時点で、責任は私に移ったんですよ。ウーティス・アルバスは私の臣下なんですから」
「しかし」
「これは絶対です。私がそう言うんだから、そうなんです。……ウーティス、いいえ、ユーラリー。私の大切な臣」
オレリアの小さな身体に抱かれて、ウーティスは言葉を詰まらせた。
幼いオレリアの身体をめいっぱいに動かす心臓の、力強い鼓動を感じる。
わがままで、皮肉屋で、少し見えっ張りな可愛い主君は、ウーティスの頭を抱いて静かに泣いているようだった。
「いつか、この国はあなたが本当の名前で名乗れる国になります。私がそうします」
「……壮大な話だな」
「ええ。でも、成し遂げてみせます。あなたが言ってくれたとおり、どうやら私は天才らしいので」
わざとらしくおどけてみせたオレリアは、ようやくウーティスから手を離した。
開けた視界の中で、ウーティスは胸元に違和感を覚えた。細い銀の鎖が首にかけられ、そこに通された小さな指輪が吊るされている。
決して上等な品ではない。暗く、重みのある合金――活字に使う硬鉛の鋳造品だ。装飾もない、ただの輪。その色はどこかオレリアの髪を思わせる。
痛む右腕が、自然と指輪に伸びた。
「鉛毒の小瓶。私はそうあだ名されているようですが、この鉛はただの鉛ではありません。柔軟で、それでいて揺らがない。私達のあるべき姿です」
「はは……だからって、指輪にすることはないだろうに」
「家臣の証です。最初の一個はアンナにあげるつもりだったのですが、あなたに譲るそうですよ」
飾り気のない、しかし丁寧にヤスリがけされた硬鉛の指輪を、ウーティスは指先で何度も撫でた。
「そうか。……オレリア様。私の愛すべき、最高の主君。貴女の家臣に命じてくれ。私は何をすればいい?」
「北方商業都市群の盟主シグヴァルディアに支店を作ります。あの地は商会長の合議制で統治されています。中枢に食い込んでください。ロズブローク商会の商会長があなたの後援者です」
「本当に壮大な話だ。……いいな、それはいい。やりがいがありそうだ」
左腕でオレリアを抱き寄せると、一瞬だけ彼女は小さな身体を強張らせた。
ロズブローク商会の商会長、つまりマチルダ・ロズブロークはオレリアの義姉にあたる人物だ。しかし、商会長という立場は姻戚関係だけで人助けができるほど軽くはない。
きっと相当な無理をしたのだろう。
「……シグヴァルディアには教会の影響力は及びません。特に内赦院と文書局の長を務めるベナドゥーチ家にとって大商会は機嫌を損ねたくない相手の筆頭です。護衛も用意してくれますから――」
「オレリア様」
額に口づけを落とす。
目を丸くするオレリアは年相応の少女そのものだ。彼女が少女らしく恋をして、笑顔に満ちた日々を送るためには、まだ見ぬ無数の艱難辛苦を乗り越え、その先で立ち続けている必要がある。
オレリアを助ける者もまた、これからたくさんの傷を負うことになるのだろう。時には命を落とす者も現れるかもしれない。
だからこそ、ウーティスは家臣として彼女に尽くすと決めた。
「この指輪がある限り、私はもう死を恐れないよ」
「ウーティス……」
「いい報告を期待してくれ」
包帯の巻かれた手で指輪を握りしめる。
情けない痛みなど、とうに消え去っていた。
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