第21話 商談
この商談でオレリアが引き出したいのは、アルバス・カンパニー社長ウーティス・アルバスの安全を保障するという確約だ。
目の前で紅茶にミルクを垂らすマチルダは、大まかに分けて3つの力を持っている。ロズブローク商会の長という地位、レフコス王家という血統、そして何より彼女自身の商才だ。
オレリアよりも広く、強い力を有する彼女であれば、教会のお尋ね者であるウーティスを保護することができる。
そして、もちろんマチルダにもメリットはある。
「印刷機を作ることができるのはウーティスだけです」
「今は、と頭につけるべきだな。技術はいずれ追いつくし、今の職人たちでも紛い物程度なら作れる。紛い物で用が足りるなら、俺がわざわざ大きなリスクを冒すメリットもないわけだ」
「ご尤も。ただし、そのころには印刷技術そのものが先進性を失うでしょう」
マチルダが美しく整った眉をしかめた。
わざわざ印刷業を個人資本の商会ではなく、株主からの出資を得る「株式会社」という形で始めたのは、アピールのためだ。アルバス・カンパニーは文字どおり優れた広告塔として機能してくれた。
出版は金になる。
今や大陸でも知らない者のほうが少ないとまで言われる『月刊・同時代』は、専用の印刷機を数台増設し、下請けの紙工房を抱えるほどの流行を見せている。
大半の読者にとって『月刊・同時代』は娯楽だ。異国の出来事を知って何の得になるわけでもない。しかし、遠方の時事は人の漠然とした好奇心を満たし、「自分は物知りだ」という自己肯定感を与えてくれる。
しかし、実際の売上額はそこまで高くない。単価が安く、中古が流通しやすいためだ。
アルバス・カンパニーの主な収入源は売上そのものではなく、「広告の掲載費」と「出版代行」だ。どちらも膨大な富を生んでいる。
それはなぜか。アルバス・カンパニーが印刷業を独占しているからだ。アルバス・カンパニーが相場を作る側であるうちは一人勝ちの状態が続く。
「印刷業が富を生むのは、印刷業が飽和していないうちだけです」
「そりゃそうだろうよ。だが、俺は金に困ってるわけじゃない」
これ見よがしにティーカップを口に運ぶマチルダの指には、上等な金の結婚指輪が嵌められている。この指輪を送った夫は不在だ。身重のマチルダがあちこち出向かないように先んじて商会の用を済ませて回っているのだという。
彼女は裕福だ。それも、もしかすると実家のレフコス王家でやんちゃな王族をやっていたころよりもはるかに。
白地に青の映える陶器のティーカップ。釉薬を使った陶器は高級で量産のきかない美術品だ。マチルダはそれをわざわざ紅茶の入手に合わせて特注している。今買おうと思えば、小さな屋敷ひとつと同じくらいの値段がつくだろう。
東方遠征の末に紅茶という嗜好品を手に入れた彼女は、すでに次を見ている。紅茶を嗜むであろう層――新しいもの好きで見栄っ張りな富裕層を狙い撃ちした、特別なカップという第二の矢。
「いいカップだろ?」
オレリアの視線がカップに向いていることに気がついたのか、これ見よがしに傾けてみせる。釉薬で描かれた猟犬とイタチが踊るように揺れる。
「土産に一揃いやるよ」
「おや、私を宣伝に起用するのはだいぶ賭けになりますよ?」
「確かに、やめとくか。お前、結構嫌われてるもんな」
オレリアは無言で肩をすくめた。
正面から言われると些かくるものがあるが、事実だ。オレリアは味方より敵のほうが多い。信心深い者、伝統を重んじる者、そしてレフコス王家の血統的な聖性に忠実な者。その大半がオレリアを嫌っている。
「お前には同情してるよ。その歳で国を追い出されるのは流石に可哀想だと思うし、何より頭が切れて行動力のあるやつは好きだ」
「買いかぶりですよ。考えは致命的なくらい足りていませんでしたし、悲しく思うほど郷土愛もありませんでしたから」
あえて明言してはいないが、オレリアは故郷を想ってはいない。
兄のシャルルを王座に据えたいのも、そのためにレフコス王国を豊かで安定した国にしようとしているのも、ちょっとした責任感と家族愛ゆえだ。
そもそもオレリアは7歳で国を追われるまで宮廷から出たことがなかった。だからガロアがどんな国なのかを実感したことがない。
やんちゃな王女だったマチルダには想像もつかないだろう。
「そうなのか? 意外だな」
「意外でしたか。まあ、そうかもしれませんね。私と違って、あなたは郷土愛が強い方のようですから」
「俺が? 里帰りもしない跳ねっ返りだぞ」
「いいえ、あなたはレフコス島に並々ならぬ関心をお持ちです。特に――故郷が極北に追い込んだ、罪については」
マチルダが静かにカップを置いた。
留学先で結婚して以降、彼女はレフコス王国に帰っていない。噂では、それは彼女が傍系の生まれだからだとされている。
リシャールとレオの母メアリは生まれつき身体が弱く、二人が生まれる前に二度の流産があった。世継ぎを生むことは絶望視されていた。
血統が絶えることはレフコス王国の王朝が絶えることと同義だ。国のため、オーウェン2世は先王の王弟にあたるエガートン公の孫娘マチルダを養子に迎えた。
しかし、喜ばしいことにメアリの身体は回復し、リシャールとレオを産んだ。世継ぎが生まれたことでお払い箱となったマチルダは自由を求めた。
乗馬、狩猟、昆虫採集、植物学。
趣味を名目に、彼女は少数の部下だけを連れて北へ向かったこともしばしばあったという。ほとんどの市民が忌み嫌う雪賊のねぐら、霊峰ハレグモナス山へ。
「ドゥムノニア。レフコス王国では雪賊と蔑まれる彼らと、義姉上は密かに交流を持っていたと小耳に挟みまして」
「……へえ、面白い話だな」
カップの縁をなぞるマチルダの指は、弓のタコで固くなっている。
彼女に乗馬を教えたという者は王城にいた。昆虫採集を手伝ったという者も、植物標本を一緒に作ったという者も。
しかし、彼女に弓での狩猟を教えた者は見つからなかった。
レフコス王国で狩人が狩猟の手段として弓を選ぶことはない。小動物を狩るのに弓ほどの威力は必要ないのだ。狩人の多くは罠と猟犬を使う。
マチルダは狩りに弓を使う。貴族が遊猟で馬上から放つようなお遊びではない。
誰に、どうやって習ったのか。
「弓での狩猟はドゥムノニア人の師に学んだのでしょう? レフコス王国に大物狙いの弓を得意とする狩人はいません」
「発想は嫌いじゃねえが、飛躍してるぜ」
「そうですね、残念ながらレフコス王国では何も証拠が見つかりませんでした」
当然だと頷いてみせるマチルダは、転居の際に自分が存在した痕跡を王城から取り除いた。ハンティング・トロフィーも、虫や植物の標本も、何ひとつとして王城に残されていない。
彼女は何も情報を残していない。市民が忌み嫌う雪賊と親しんだなどという王室の醜聞を発生させるほど彼女は愚かではなかった。
しかし、オレリアが情報を得るためには、何もマチルダの足跡を辿らずともよい。
「ところで、先日はホプトン男爵領のスズ鉱山に多額の出資をなさったそうですね」
「おう。傭兵を雇ってまで鉱山を拓こうっていう度胸を買った」
「それはそれは、お褒めに預かり光栄です」
「……あ?」
アルバス・カンパニーの代表者がなぜオレリアではなく、ウーティスなのか。それは傭兵団「赤火の虎」がオレリアの私兵ではないと示すためだ。
表向き、赤火の虎の雇用関係はやや複雑な形を取っている。
彼らの雇用主はウーティスですらない。ホプトン男爵だ。
ホプトン男爵が鉱山開発の護衛として赤火の虎を雇用し、その中で手の空いた非戦闘員にウーティスが業務を委託している。ウーティスの先を辿ろうとしても出てくるのは錬金術師エウラリアくらいで、オレリアにたどり着くことはない。
この構造を作るために随分と苦労した。
オレリアは赤火の虎の団長ガラシャと直接のやり取りをしていないし、傭兵団の人件費もアルバス・カンパニー名義で出している。
その甲斐あって、ホプトン男爵領の鉱山は彼個人の手柄として知れ渡った。ロズブローク商会が安心して出資を行うほどに。
「傭兵団『赤火の虎』とは個人的な、とても個人的なつながりがありましてね。具体的には、彼らと私の兄が戦友だったりするんですが」
「……おいおい、マジかよ」
「マジです。そういうわけで、鉱山の護衛として北方の山岳地帯に詰める彼らからはよく報告をもらう立場にいるんですよ」
オレリアは羽織ったままの外套をめくり、裏に隠していた荷物を取り出した。
艶のあるウォールナットのテーブルにはあまりにも不釣り合いな、薄汚れた麻袋。穀物を詰めるのに使われる袋に捺されているのは、ロズブローク商会の焼き印だ。
ホプトン男爵領の鉱山を襲撃してきた雪賊が、略奪品を入れるために担いでいたというそれを、オレリアは今日のために送ってもらった。
北方のハレグモナス山が遮るのは風や寒さだけではない。視線もだ。
島の北端にどのような船が出入りしようと、レフコス王国の見張り台はそれを見つけられない。
「商会の備品を使うのは、少々浅はかでしたね。所持していた賊は捕らえてありますが、命は奪っていませんのでご安心を」
「……ったく、ちゃんと燃やせって言っておいたんだがなあ」
「ただでさえ貧しい生活です、麻袋一枚無駄にはできないでしょう。それに、恩人からの贈り物を無下にできますか?」
マチルダは大きく息を吐いて、笑った。
「参った、認めるよ。俺はドゥムノニア人を支援してる」
「言い逃れはなさらないんですね。略奪品だと主張されると思っていたのですが」
「そんなダサいことするかよ。……あいつらが貧しいのは、俺たちエルメット家のせいだ。だから、本当はお前にも頼りたくはない」
レフコス島の最北端に追いやられたドゥムノニア人は、作物も育たない凍土で飢えに苛まれ、ついには野盗に身をやつした。その環境が変わらない限り、マチルダがどれだけ個人的な支援をしようと焼け石に水だ。
それは彼女も理解しているのだろう。それでも、彼女は私財を投げ売ってドゥムノニア人を支援している。
「ドゥムノニアの連中が凍えて生きるのを、これ以上見てらんねえんだ。あいつらを救う策がお前にあるのなら、俺は喜んでウーティス・アルバスを救う」
「いいでしょう。これは契約です」
オレリアが差し出した手に、マチルダは一瞬怯んだ。
どれだけ前世の知識があろうと、凍土を短期間で豊かにする方法は思いつかない。しかし、それならそれでやりようはある。きっと苦労の連続だろうが、オレリアが苦労するだけでウーティスを守れるなら安いものだ。
「あなたには私の大切な部下を守っていただきます、義姉上。そのかわり、ドゥムノニア人が飢えることも、凍えることもない日々を過ごせるようにします」
「……いいだろう、乗ってやる」
握られた手は力強く、そして少しだけ震えていた。
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