第20話 義姉

 ここしばらく空けていた王城の私室でソファで仮眠紛いの休憩を取りながら、オレリアはアンナからの報告を受けていた。

 本当は横になりたいが、そんな暇はなさそうだ。火事の後始末が終わり次第、責任者として関係各所と顔を合わせる必要がある。徹夜を覚悟しなくてはならない。

 傷を負って気絶しているウーティスの治療はアルバス・カンパニーの社員に任せてあるが、そちらも意識が戻り次第連絡をもらえるようにしてある。彼女とはじっくり話し合わなければならないだろう。

 多くの事態が動いた夜だった。

 教皇派と枢機卿派の対立が外部から見て取れるほど表面化しただけではなく、教皇派が足並みを揃えられていないことも判明。さらにはスルダと近い存在――光の魔術を行使する聖職者も確認できた。

 全身の倦怠感が凄まじいが、見合う収穫はあったと言えるだろう。


「死人が出なかっただけでも何よりです。よくやってくれました、アンナ」

「いえいえ、姫様に留守をお預けいただいたんだから当たり前ですよ」

「そうですね、アンナがいてくれて本当によかったです」


 アンナの手が絡まった髪に櫛を通し、火の粉の傷に油を馴染ませていく。

 仕事とはいえ、アンナを置いて北方に旅立ったのは正直に言って心細かった。こうしてオレリアを慈しんでくれる手の温もりが傍にある、それだけのことがどれだけありがたいか。

 北方商業都市群の盟主、商業都市シグヴァルディア。その地への旅は決して快適ではなかった。


 出立が決まったのは2月の末のことだった。

 シグヴァルディアは大陸北部からせり出た半島の海に面する南西部、付け根に位置する都市だ。

 大陸を縦断する大河、レフコス島と大陸を隔てる海峡、いずれもシグヴァルディアにとっては交易のためのの道として機能する。古くから彼らは海賊として、漁師として、そして商人として知られていた。

 そんな風土誌に乗っている程度の情報はオレリアも把握していたが、まさか自分の義姉にあたる人物がシグヴァルディアに嫁いでいるとは知りもしなかった。


「姉上は負けず嫌いな人でね。自分の勝てる戦場にしか立ちたくないからと、商人になるために留学したんだ」


 船酔いしたオレリアの背中を甲板でさすりながら、リシャールは自身の姉――マチルダ・ロズブロークをこう評した。

 旧姓のエルメットではなく商会の看板として掲げるロズブローク姓を名乗るのは、レフコス王家の力を借りずにのし上がる覚悟の印なのだという。使えるコネクションを捨てて自己実現を取るとは、なんとも果敢なことだ。

 それに比べて、船酔いに負けるオレリアの情けない姿ときたら。

 2月の海風はひどく冷たい。普段は風よけに使っている魔術で船の帆を満たしているせいで、いつも以上に寒さが骨身にしみる。


「悪い人ではないんだけど、破天荒というか、男勝りというか……僕にとっては姉というより兄のような人かな」

「兄、ですか……うぇっぷ」

「大丈夫?」


 言葉がうまく出てこないが、話を続けるよう手で促す。

 リシャールの手から送られてくる癒やしの光が苦痛を和らげてはくれるものの、船に乗っている限り船酔いは続く。結局、気を紛らわせるための雑談を続けてもらうのが一番効果的だった。


「そうだな……姉上の好物は酢漬けにした野菜でね、実はお土産に持ってきてるんだけど――」

「食べ物の話、やめて。吐きます」

「あ、うん、ごめん」


 効果的でない話もあった。

 地獄を見はしたが、オレリアが魔術を使い続けたおかげで海図上は500km以上ある航路を2日で走破するという快挙を達成した。魔術を使えばどんな船でも特急快速に早変わりだ。ただし、魔術の戦闘以外への転用は教会法に抵触している。

 リシャールとレオが剣の稽古をしていようが、オーウェン2世が前祝いと称した葡萄酒の飲み過ぎでオレリアと同じく木桶と友達になろうが、オレリアはひたすら魔術を使い続けた。


「オレリア様、まもなく入港の準備が整います」

「う」

「もうご助力は大丈夫ですので、その……下船のご準備を」

「う」

「……やはりあの侍女を同行させるべきだったのでは?」

「う」


 一時は人語を失いフレデリカを困惑させるほど疲弊したが、その甲斐あって、一行を乗せた船は予定よりもはるかに早くシグヴァルディアの港に入港した。

 港はレフコスのそれよりもはるかに栄えていたらしいが、オレリアはその華やかさを目にしていない。気絶してフレデリカに背負われていたからだ。

 結局、オレリアが未来の義姉マチルダ・ロズブロークに懐妊祝いを伝えることができたのは到着から2日後の午後だった。

 通された部屋でオレリアを待っていたマチルダは、窓から賑やかな大通りを見下ろしていた。


「おう、船酔い姫」


 あまりに気さく、というより無礼。

 勇者の血を引くエルメット家らしい黒髪に薄めだが整った顔立ち。いたずらげな瞳の輝きは父似だろうか。

 美人よりも美男子という賞賛が似合いそうな、少しやんちゃなかっこよさがある。きっと王城に勤めるメイドたちの半分は彼女に恋したことだろう。

 ゆったりとした麻のチュニックに毛皮のガウンを羽織り、黙っていれば貴人そのものという身なりをしている。そのくせ、履いている靴は貴族に流行りの尖った革靴ではなく、野山を駆ける狩人が好む長靴だ。

 船の上で聞いたリシャールの評と合わせて、そこはかとなく「お転婆」の三文字がオレリアの脳裏によぎる。


「ご挨拶が遅れましたこと、何卒ご容赦を。弟君であらせられるリシャール殿下の婚約者、オレリア・アルノワと申します」

「知ってる。まあ座れよ、まだ本調子じゃないんだろ?」

「……では、お言葉に甘えて」


 使用人が引いてくれた椅子に腰掛ける。

 椅子も机もクルミ材で統一されており、濃い茶色のずっしりとした色合いが部屋全体の品を高めている。そして机の上に置かれた燭台は純銀で、曇りひとつない。

 調度品のひとつひとつが高級品で、しかも手入れが行き届いていることがよくわかる。大商人らしい風格、もしくはそう示すための見せ札。どちらにせよ、彼女が商人として一角の人物であることは見て取れる。


「俺はお前と会うのが一番楽しみだった」

「それは光栄ですね」

「レオのちびすけと会うのも楽しみだったし、生意気盛りのリシャールをからかうのも楽しみだったし、親父ともなんだかんだで久しぶりに顔を合わせた。だが、お前は別だからな」


 運ばれてきたを使用人がオレリアのカップに注ぐ。

 紅茶。チャノキに類する種の樹木から葉を摘み取り、それを発酵させるなど複雑な工程を経てようやく生産される嗜好品だ。

 入手、栽培、加工、いずれをとっても、今の知識・技術では決して再現不可能。いわば「絶対に独占でき、成功が約束されている高級嗜好品」であるそれは、商人たちにとっては効きすぎる劇薬だろう。

 だからこそオレリアは彼女にその情報を売った。


「第一次遠征隊は収穫なしだったと聞いていましたが」

「おう。だから第二陣を出した」


 マチルダがこともなげに口にしたのは、ロズブローク商会が一度は失敗した東方遠征隊に大規模な投資を行ったという事実だ。

 大陸東部の地図はいまだ埋まっていない。広大な砂漠とオアシスを支配する異教徒に阻まれ、教会すら進出に失敗している。そんな中で東方への遠征に投資するというのは、言ってみれば一世一代の大博打。

 それを、オレリアが送った茶についての情報だけで成し遂げてしまった。


「赤い茶は東方では安物、青い茶が至高とされる……お前が売ってくれた情報のおかげで、向こうでの交渉も上手くいった」

「産地の人間は普通腐った茶葉なんて捨てますからね」

「ところが、それをちゃんと加工してやれば上等な飲み物になる。安く仕入れて、高く売れるように手を入れる。商人の基本だ」


 オレリアはカップを持ち上げて、その爽やかな香りを楽しんだ。草原のような青々しさとりんごのような甘さ。船酔いの残る身体には一番いい。

 口に運べば、少し刺激が強いくらいの渋味が残った眠気を消し飛ばしていく。

 間違いなく紅茶だ。


「お前が気に入った。最初は弟に取り入ったとんでもねえ女だと思ってたが、そうでもねえ。優秀なやつが身内になって嬉しいぜ、オレリア」

「お褒めにあずかり恐縮です、義姉上あねうえ

「世辞じゃねえからな? 俺を手紙一枚で交渉のテーブルにつかせる奴なんて、今まで一人としていやしなかった」


 ガウンのポケットからマチルダが便箋を取り出して、にやりと笑う。


「大量印刷。俺たち商人なら誰でも、喉から手が出るほどほしいカードだ」


 わざわざ手書きではなく印刷機を使ってオレリアが彼女に手紙を送ったのは、オレリアの手札を示唆するためだ。

 世間を騒がせる『月刊・同時代』は内容こそ話題になるものの、印刷技術に言及されることは少ない。結局のところ、大半の人々にとって印刷は「変わったやり方で字を書く技術」でしかない。

 しかし、それが量産できるとなれば、食いつく者は必ず出てくる。


「悪い話じゃねえな。教会に睨まれてでも手に入れる価値はある。お尋ね者を一人匿うくらいは必要経費だ」


 ウーティスを軟禁せざるをえない状況になって、オレリアは力不足を実感した。

 だから、外に頼ることにしたのだ。

 婚約者の姉であり、大商人であり、大陸北部の半島という教会と遠い土地に拠点を構えるマチルダは、まさに理想的な庇護者だった。

 何より、オレリアにはマチルダと交渉するための手札がある。


「では、受け入れていただけますか?」

「いいや、だめだ」


 マチルダは首を横に振った。

 しかし、オレリアもマチルダも笑顔を浮かべていた。お互いに承知しているからだ。交渉はここからだということを。

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