第23話 王の薔薇園
薔薇はエルメット家の、すなわちレフコスの正統なる王家の象徴だ。
王城の裏手に花開く薔薇園の剪定は王の務めとして、初代勇者の時代から受け継がれてきた。剪定鋏に彫られた薔薇の紋章はいつしか国旗となり、勇者の名とともにはためくようになった。
歴代の国王と同様、オーウェンもこの薔薇園を世話している。完璧な目測を可能とするオーウェンにとって、庭師は王以上の天職とすら思えた。
「美しいと思わんか」
「は、見事にございます」
剪定鋏を手に薔薇の世話をするオーウェンの後ろに控えているのは、教会の特使を名乗るジョシュアという男だ。
彼は正規の聖職者ではない。聖職者が帯びる特別なタリスマンではなく、洗礼の証である簡素な木製のお守りを首から下げているのがその証拠だ。
だからこそ、彼はここにいる。まっとうな聖職者であればできない役目を担ってここにいるのだ。
「34。これが何の数字かわかるか。……この火事でな、34人が死んだ。市街の者が尽力してくれなければ、もっと死んでいただろう。家主たる余の留守を狙って火付けとは――近頃の盗人は豪胆よな」
剪定鋏が蕾を落とす、乾いた鋭い音。そんな雑音が響いて聞こえるほど、薔薇園は静かだった。
いずれ1350年王都の大火として昨晩のことは歴史書にも記されるだろう。多くの死傷者を出しただけではなく、長きに渡り北門を守ってきた塁壁が失われた。
この事件に聖職者が関与していたことは、多くの市民が目撃している。
今のところ、市民の警戒心と敵愾心は王都の職人街になだれ込んだという雪賊へ向かっている。放火犯も雪賊ということで片がつくだろう。
しかし、その裏で密かに広まりつつあるのが、教会への不信感だ。
「……心よりお悔やみ申し上げると、イシドルスより言伝を預かっております。葬儀の手配はお任せいただく」
「そうか、イシドルスが。よかろう、許す。それから、あれにはしっかり手綱を締めるよう伝えよ。アラゴン家の哀れな老人にも、娘と同じ轍を踏みたくなければ当主の威厳を示せと」
今回の事件は教皇派として連帯していた八聖家のうち、アラゴン家が暴走したことによって生じた。現教皇ペドロ7世の生家ということになっているアラゴン家は、没落の一途を辿っていた家格を再興せんと必死だ。
よりによってその害を被るのがオレリアなのは、運命の悪戯だろうか。
アラゴン家が没落したのは、一人娘のフアナが狂気の病に陥ったからだ。今や彼女の美貌はシエナの絵画にのみ残されている。
「逆恨みにもほどがあるぞ。母を殺め、その娘まで苦しめるとは」
門閥の娘として、フアナはガロア王テオダルド3世との縁組みを期待されていた。自らも後のガロア王妃であると公言して憚らなかった。
しかし、テオダルド3世は縁談を蹴った。
彼は戦地から連れ帰った田舎娘を娶った。オリアーヌはガロアの古き族長――冥銀の乙女の末裔だ。血統の古さで言えばケチのつけようがない。
恥をかかされ、フアナは狂った。
残酷なことに、狂気は彼女の知性を奪わず、誇りを奪った。己が手に入れるはずだった妃の地位を得た田舎娘に毒が盛られるよう、全てを手配できてしまった。
「滅多なことをおっしゃいますな、陛下」
「事実であろう」
「……私には、なんともお返事できかねます」
表情を強張らせるジョシュアをよそに、オーウェンは鋏を置いた。
「アラゴン家はお前の実家でもあるだろうに」
「何を……私は卑しき神の僕にございます」
「余を謀るか。まあ、それもよかろう。余はお前の主ではないのだから」
聖職者は妻帯を禁じられている。神に一生を捧げ、淫行をなさない。
それにもかかわらず「聖職者を多く輩出している門閥」が八聖家として存在するのは、彼らが実際には妻帯者であるという不都合な事実の証左だ。
シエナの高僧はそれぞれの家が持つ修行の地で1年間の巡礼をする。その際、世話人を数名同行させる。その地では不思議と神から赤子が与えられ、後継者として育てるようにと啓示がある。
これこそが八聖家の築き上げた長い歴史の正体だ。
オーウェンはそれを堕落とは思わない。敬虔な信仰と教会の繁栄を両立させるために、時にはそういった背教に目を瞑る必要もあるのだろう。
しかし、修行地で授かった赤子のみを後継者とする伝統には罪がある。
「余の前に一切の偽りは無価値と心得よ。イシドルスはもっとうまく余を騙すぞ」
風が吹いた。朝まで漂っていた焦げ臭さは消え、冬の寒さも緩みつつある風が、剪定鋏に落とされた葉を攫っていく。
ジョシュアは顔を伏せている。王への敬意ではない。恐怖が彼を跪かせている。
見慣れた反応だった。ここまで脅すことは滅多にないが、オーウェンの目測に嘘を暴かれた者は多かれ少なかれ怯え、顔を伏せる。それは王に吐く嘘の重みを理解しているからだろう。
実際に目測の力が教えてくれるのは「それが嘘かどうか」までだ。
ジョシュアは薔薇を美しいと思っていないし、フアナの狂気が逆恨みであることを知っているし、卑しい生まれではない。
「ジョシュア。お前はこのあと、どうする」
「……イシドルスより、リシャール殿下の護衛にあたるよう命じられております」
「影に潜んでか」
「は」
「迂遠よな。どうせ守るのなら、見えるところにいればよかろう。近衛騎士としての身分を用意する、謹んで拝命せよ」
ジョシュアが息を呑んだ。
「それは……そのようなことは」
「許されない? いいや、許されるのだ。なぜならば、余が王だからだ」
レフコス王国において、近衛騎士という身分は戦乱の際に下賜されるものだ。
ただの護衛ではない。騎士としての生活が十分に成り立つだけの俸給が国庫から支出される、言ってみれば領地を持たない貴族。その地位を与えられるのは優れた武勲を挙げた忠実な臣だけだ。
ぽっと出の僧兵に与える身分ではない。常識に則ればありえない人事だろう。
しかし、激動の時代に常識で差配していては国が沈む。静かな湖に浮かべたつもりでボートを漕ぐのどかな午後は終わったのだ。
「詳細は追って伝える。下がってよいぞ」
「……おそれながら、ひとつだけお聞かせください」
「よかろう。なんだ」
「枢機卿の聖女を、いかようになさるおつもりですか」
ボロ布で鋏を拭いながら、オーウェンは息を吐いた。
聖女スルダは目算どおり、人としての生き方を学びつつある。王に預けられたという緊張からか、オレリアはスルダと個人的な交友を深めていない。しかし、それも時間の問題だろう。
オーウェンは王として、己の手元にある全ての人が幸せであるように願っている。
母を殺され、地位を奪われたオレリアが羽ばたけるように。
孤児院で改造され、聖女として生産されたスルダが人として生きる楽しさや苦しさを知ることができるように。
教皇派の小間使、使い捨てられるはずだった駒でしかないジョシュアですら、オーウェンにとっては救うべき市民だ。
「あまねく余の臣が余の下で分相応の幸せが得られるように。余が考えていることなど、その程度のものだ」
「……金言を頂戴いたしました」
薔薇園を退出するジョシュアの背を見送るでもなく眺めてから、オーウェンは剪定鋏が落とした蕾を拾い上げ、指先で踊らせた。
薔薇はわがままな花だ。適度に枝や蕾を落としてやらねば栄養が行き届かずに枯れてしまうというのに、剪定しようとする庭師の指先を棘で拒む。
3月のレフコスで咲く薔薇は元々存在しなかった。植物に愛された第三勇者が召喚されたとき、当時の国王が冬に咲く薔薇を
この国は勇者の恩恵を最も強く受けている。
勇者がもたらした知識や文化のおかげで栄えているレフコス王国を治める立場でありながら、オーウェンは勇者召喚を廃止しようとする枢機卿に共感している。
不幸になることが定められている者をわざわざ生み出すなど、オーウェンの信条に最も反する行いだ。
「勇者、か」
二度と咲くことのない蕾をオーウェンの指が握り潰す。
オーウェンもまた背教者だ。
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