第24話 徴税吏

 迫りくる夏の気配が額に汗を伝わせる。

 宿営地の隅で馬にブラシをかけてやりながら、男は片手で借り受けた雑誌のページを捲っていた。何人もの所有者を巡り、元はしっかりと刷られていた紙面もインクがかなり薄くなっている。

 ガロア最南端の属州トローサは南海にほど近い未開拓の地だ。不安定な情勢の中で街道の整備も遅々として進まず、物流にも滞りが生じている。

 そんな中で、自国の情報を偏りなく得る方法は限られていた。『月刊・同時代』で報じられて初めて耳に入る出来事も少なくない。


「――徴税吏殿、すぐに出られますか」


 緊迫した表情を浮かべているのは、この宿営地を預かる将軍だ。

 近年のガロアでは珍しい直轄領で訓練を受けた正規軍の所属で、規律に厳しく几帳面なよい管理職。最南端の属州で将軍を任せるのには最適の人材だろう。

 しかし、彼女がいかに優れた将軍であろうとも、人員不足が解消するわけではない。州を転々とする徴税吏すら兵力として計算に入れる必要があるほど、彼女の宿営地は困窮していた。


「何があった」

「星雲軍の残党が隊商を襲っています。我々駐留軍の補給物資を積んでいる隊です。宿営地の兵を再編成するまでの時間を稼いでいただきたい」

「承知した。場所は」

「最後に旗が上がったのは半刻前、東北東の湿地帯です」


 頭の中で地図を確認しながら雑誌を外套の裏にしまい、馬具の綱を締めなおす。襲撃からもう半刻も経っている。急がねばならない。

 信仰の旗に集った教会の軍である星雲軍は5月の半ばに第二陣を迎え入れ、鋼の掟とともに再結成された。現在、彼らは異教徒の征伐を目標にこのトローサからさらに西の沿岸地域を進んでいる。

 それとは別に出没しているのが星雲軍の残党だ。

 第二陣に合流できず、かといって故郷にも帰れず、略奪行為で生計を立てる彼らは、ガロア南部に蔓延する病そのものだった。


「頼むぞ、ゼフィランサス」


 男が跨ると、名を呼ばれた愛馬が誇らしげにいなないた。


「どうか、ご無事で!」


 激励の声としては丁寧すぎる将軍の声援に応えて、徴税吏――シャルルは宿営地を出立した。

 日が傾きはじめている。トローサの荒れ野は日が照れば焼けるように熱く、沈めば風が頬を切るほど寒い。日没までには宿営地に帰らねば、その日の夜はかじかんだ指を擦り合わせて過ごすことになる。

 舞い散る砂埃も、乾いた風に乗って届く死臭も、すっかり慣れてしまった。


「……遅かったか」


 乾いたトローサの生命線として北から流れるカルニ川、その三角州に鳥が群がっている。啄まれている哀れな死肉は隊商の護衛だろうか。

 氷の霧で鳥たちを散らし、被害状況を確認する。

 武装した男たちの死体が5つ。補給物資を積んだ荷車は姿がなく、代わりに湿った土の上に轍が残っている。踏み荒らされた大地に刻まれた二筋の線は、一直線に西へと伸びていた。

 シャルルは死体が荒らされないよう氷の棺に収め、愛馬の鼻先を西へと向けた。


「行くぞ、ゼフィランサス」


 略奪、殺人、強姦。この地で暴虐の限りを尽くしている彼らの醜さは、世に謳われる信仰の騎士とかけ離れている。

 星雲軍を召集したのは、死んだ母の後釜に収まったベナドゥーチ家のマロツィアだ。教会は母を奪い、妹を奪い、そして今や国を奪おうとしている。それを神が咎めないことを思うと、シャルルの腸は煮えくり返るようだった。

 黒くたなびく旗に金糸で刻まれた渦巻く星雲。その憎い旗が見えた瞬間、シャルルは馬上で剣を抜いた。


「止まれ! ガロア王国徴税吏、シャルルである!」


 返事の代わりに放たれた矢を切り捨てながら馬を駆る。

 相手は騎士が3名。装備は薄汚れているが、星雲軍に参加したことを示すタリスマンを鎖帷子の胸につけている。旗を掲げているのは彼らの隊長だろう、マントも馬具も一番上等なものを身に着けている。

 荷車を引かされているのは腕を縛られた女たちだ。彼らが何を考えて女を生かして連れ帰ろうとしたのかは、考えるまでもなくわかりきっていた。

 シャルルの名を聞いて嘲笑を浮かべた騎士隊長がこれ見よがしに旗を振った。


「下がれ、卑しき者。我らを信仰の旗に集う星雲軍と知っての狼藉か」

「信仰を旗にすると語るのなら、まずその信仰に相応しき行いをなせ」

「我らは信仰によって戦い、信仰によって神より財を授かったのだ。それを一介の徴税吏が阻もうと言うのなら、容赦せんぞ」

「笑止。貴様らの濁った眼に、信仰の光は欠片ほども残っていまい。貴様らと比べれば、腐肉を食む蛆虫でもまだ信心深いというものだ」

「吠えたな、土俗の庶子風情が!」


 騎士隊長は兜の下で顔を怒りに歪め、馬を蹴った。痩せた鹿毛の馬が騎士隊長を乗せてシャルルへと突進する。

 土俗の庶子。星雲軍の第一陣だった野盗が口にする、シャルルを蔑む呼び名だ。マロツィア妃に召集された彼らはシャルルの出自を知っている。シャルルがかつて第一王子であったことも、母の洗礼記録が取り消されたことも。

 しかし、シャルルが神に愛されていないからといって、力を失ったわけではない。


「――愚かな」


 騎士隊長の胸から鮮血が迸る。

 自らの勢いで透き通った氷の槍に貫かれた彼は、驚愕の表情を浮かべたまま宙に吊るされた。串刺しになった主を捨てて馬が逃げていく。

 魔王の後嗣。シャルルがそう噂されたのは、聖堂街の陰謀に巻き込まれたからだ。しかし、その噂が説得力を帯びる程度にシャルルは強かった。


「おのれ、よくも!」


 地位を失ったシャルルを侮る者は少なくない。

 目の前で自分たちの隊長が殺されたことを理解し、騎士たちは緩慢な動作で剣を抜き、矢をつがえる。彼らもまた、シャルルも侮った愚か者だ。

 それではもう遅い。

 シャルルの氷が騎士の一人を貫くのと同時に、北から放たれた矢が最後の騎士の頭を射抜いた。


「馬鹿、な」


 氷の槍に胸を貫かれ、漏れる吐息の中で騎士が呻いている。

 シャルルは馬を降り、荷車の影に隠れて震える女たちへと歩みを進めた。彼女たちを落ち着かせ、荷車を宿営地まで持ち帰ってようやく落ち着ける。


「――殿下」


 北から馬を駆ってきた射手――マレーは、素早く下馬して膝をついた。

 今や唯一の家臣となったマレーは、徴税吏として流浪の旅を続けるシャルルにとって唯一信用できる味方だ。武勇だけではなく、流民の生まれゆえの広い見聞がシャルルの支えとなっている。


「見事な狙撃だった」

「恐悦至極に存じます。北の波止場で陳情を受け、急ぎ戻りましたが……」

「護衛は手遅れだった。馬たちを落ち着かせてやってくれ、荷車を引いてもらおう」


 訃報に眉をしかめて、マレーは頷いた。

 女たちの腕を縛る縄を切り、助けが遅くなったことを詫びる。彼女たちは軍人ではない。商売の傍ら、運賃をもらって荷を預かる商人だ。商人を蔑ろにすれば荒れた僻地は飢えに満ちることになる。

 シャルルとマレーが残された二頭の馬を荷車に繋ぎ、宿営地に戻ったころには夕陽が西の彼方に沈もうとしていた。


「徴税吏殿!」

「彼女たちを頼む」


 二人を迎え入れた将軍は、女たちの暗い表情に何が起きたかを察したようだった。

 一瞬苦悶の色を隠すように目を伏せたが、すぐに表情を引き締め、部下に寝床と清潔な水の手配を指揮する。彼女が女だからというだけで下に見るような兵はこの宿営地にはいない。

 マレーに馬を任せ、荷車に積まれた物資の運搬を手伝おうとすると、将軍は慌てたようにかぶりを振った。


「そのようなことは我々が。どうぞ休んでいただきたい」

「間借りしている身だ、これくらいのことはさせてくれ」

「しかし、御身は……」

「将軍」


 窘めるように彼女を役職で呼ぶ。

 星雲軍の騎士たちが知るように、ガロアの精鋭たちもまたシャルルを知っている。

 国を憂いているのはシャルルだけではない。シャルルの身に流れるアルノワの、ガロア王家の血に期待を寄せる声は日に日に高まっている。

 しかし、まだ足りない。

 かつてシャルルは己の身で教会の強さを、恐ろしさを実感した。今王位を簒奪すれば、彼らを敵に回すことになる。

 将軍が浮かべる失望の目も、幾度となく見てきた。


「……まだ、耐えよと仰るのですか」

「そうだ」

「今この瞬間にも、この国は蝕まれているというのにですか」

「すまない」


 将軍は涙をにじませながらシャルルを睨みつけ、踵を返した。

 彼女の背にかけられる言葉はなかった。今は耐え忍べと、そう言い聞かせるのは何度目だろうか。希望を持たせることすら叶わない。

 徴税吏という名目上の役職を与えられ、流浪の騎士として属州を転々としてきた。税務監査という仕事はあったが、多くの属州は治安の悪化と貧しさで税を納めるどころではなくなっていた。

 何度か諸侯の領地にも入ったが、栄えている土地ほど教会の力が強い。教会の暗殺者に狙われ、一度は深手を負った。

 ガロアの精強な軍によって征服された属州は未開拓で、貧しい。長い旅の中でシャルルは人の貧しさと苦しみを見てきた。その全てを己の手で救えない、あまりに残酷な歯がゆさを知った。

 疲労を感じ、荷車に凭れかかる。

 羽虫が光に惹かれ、松明の火に飛び込む音がする。夜が迫る中、傷病人の多い宿営地はひどく静かだ。

 失われた活気を補給物資が少しでも取り戻してくれるだろうか。

 酒と甘味、歌と女。無念のうちに同胞を亡くしていく彼らにとって、贅沢はせめてもの慰めとなりえるだろうか。

 他愛ない感傷に浸っていると、傾いた荷車から小さな布人形が転げ落ちた。女たちの誰かが持ち込んだものだろうか。


「お疲れのご様子ですね」


 人形を摘み上げたマレーは、指先で器用に砂埃を払った。


「将軍には悪いことをした」

「お気に病まれますな。やむを得ないことです」

「それでも、だ。……これを読め」


 外套の裏から取り出した雑誌を投げ渡す。

 日の沈んだ宿営地を照らす松明だけを頼りに、マレーがページを捲った。



「レフコス王都の大火、その影に潜む法衣……」

「俺が田舎で騎士をやっている間に、妹はまた教会の脅威に晒された。そろそろ俺も我慢の限界だ」


 まだ足りない。シャルルも頭ではそう考えている。

 だから、ずっと属州を旅してきた。人を助け、悪事を正し、その土地の者と友誼を結んだ。十や二十ではきかない数の言語を覚え、千や二千を優に超える勇敢な戦士たちとともに戦った。

 かつてオレリアに与えられた金言のとおりだ。作物は根を伸ばさなければ実らない。シャルルは深く、深く根を張らねばならなかった。


「この国を獲るぞ、マレー。10年、いや、5年でこの国を獲ってみせる。神を騙る坊主ども、驕り高ぶった聖職騎士ども、母上の寝所を汚す売女。この国を食い荒らす虫を駆除する」

「最後までお供いたします、殿下」


 空を覆う星々に手をかざし、握りしめる。

 シャルルの反逆を祝福する星はどこにもないが、それでも手を伸ばす覚悟は決まっていた。

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