第9話 孤独な告解

 教会という組織は一枚岩ではない。

 純朴すぎるくらいに敬虔な信徒もいれば、己の道徳心を民に向けるための理由として神の名を借りている正義の騎士もいる。教会を金儲けの隠れ蓑にしか思っていない鼠も、信仰という正義を盾に己の欲求を発散する俗物も、皆聖職者だ。

 大聖堂を満たす清涼な空気と、太陽を背負った十字架の前には誰もがひれ伏す。彼らは団結している。


「愛も友情も尊敬も、何物かに対する共通の憎悪ほどには人間を団結せしめない。……この言葉がチェーホフのものなのは覚えているのに、いつどこで読んだのかは思い出せない。不思議ですね」


 ひとりだった。

 オレリアは誰にも聞かれない独り言を吐き出しながら、大聖堂の最奥で信徒を睥睨する太陽と十字架を見上げていた。

 完全に一人きり。生まれて以来一度も得ることができなかった孤独な時間を、なんの偶然か、こんなときに手に入れてしまった。

 近衛兵が聖堂街の門を破り、僧兵と戦う音が遠くに聞こえる。マレーに大聖堂の扉を預けて、オレリアは近衛兵の到着を待つつもりだった。

 しかし、ひりつくような焦燥感が、喪失の気配がオレリアの背を押している。


「神なら神らしく、啓示を与えてくれたっていいんですよ? そろそろ私の正気を保証してもらいたい頃合いです」


 オレリアはずっと、だった。

 恐怖に衝き動かされてきた。

 恐れている。オレリア自身も理解しえない奥底に、がある。転生者という異物への恐怖が。

 ミトラス教を嫌っているわけではない。嫌う理由がない。彼らは国を豊かにする。民を幸せにする。病を退け、豊作をもたらし、街道を守る。

 確かに、聖職者の中にも悪人はいた。しかし、悪人がいるからと宗教を嫌うのなら、オレリアは最終的にあらゆる人間を嫌わねばならないだろう。

 金の柵を乗り越え、オレリアは十字架の足元に立った。

 この十字架は不死の魔王が今も磔刑に処されているという十字架を模したものだ。そして太陽神ミトラスは片時も魔王の十字架から目を離さない。民は魔王という共通の憎悪を通してミトラスの威光を目に焼き付ける。


「……私は、誰なんでしょうね。あなたが呼んだのか、それとも魔王が呼んだのか。ただの迷子というのは、勘弁してもらいたいんですが」


 十字架の足元に置かれた木の杯を手にとって、オレリアは誰に問うわけでもなく、ただ小さく呟いた。

 オレリアの頭脳には、この世界がまだ経験していない歴史が詰まっている。

 様々な技術、知識、手法。そのうちのいくらかは勇者によってもたらされ、教会によって維持されている。

 彼らの正しさは彼ら自身の信じる神が保証してくれる。

 しかし、オレリアはどうだ。自分が何者なのかもわからず、ただ知識だけを持った自分の正しさを、誰が保証してくれるというのか。

 オレリアはこれまで己に枷をしていた。この世界を知ることはしても、この世界に自分を知らしめることは決してしなかった。

 幼稚な砂場遊びのように、生きた人間の住む世界を弄ぶ気にはなれない。


「私は誰にも告解できない。私は私が異常であることを自覚しながら、その異常性がなぜ生じるのかを誰にも明かせない。根拠もない。……ふざけている」


 気が狂いそうだった。いや、もう狂っているのかもしれない。

 オレリアが自分を強く持てたのは、世界に関わらなかったからだ。オレリアという小さな風船を前世の知識が膨らませ、巨人になったオレリアは見えない足元が怖くて身動きが取れない。

 こうしてシャルルを救出するためにミトラス教の庭を荒らした以上、これからはただのおてんば姫とはいかない。王族であることを盾に宗教組織へと喧嘩を売ったのだ。行いの責任は取らなくてはならないだろう。

 さらにたちが悪いのが、教会は勇者を召喚することはしても、死者を転生させることはしないという事実だ。信徒は死後、星としてミトラスの御下に召し上げられるというのが彼らの死生観なのだから、転生などありはしない。

 転生者でなければ、オレリアはただの少女でいられた。

 しかし、残酷なことに、オレリアは自分がただの少女だった場合の未来図を容易に思い描くことができた。兄妹で葬られ、政変の裏で生じたありきたりな悲劇として歴史書に名を残す程度の結末が。

 だから、立ち止まれない。


「教えてくれないのなら、いつか自分で聞きに行きますよ」


 オレリアは杯をひっくり返し、元の台座に戻した。

 逆さの杯を置かれた台座は、十字架を揺らすことなく滑らかに奥へとずれていく。隠された地下通路には神の光も届かない。

 遺餐主義者。神ではなく、死後に星となることを確約された聖人たちの聖遺物を祀る密教的分派だ。彼らが何者なのか、なぜ地下に籠もることを好むのか、世間には明かされていない。

 聖人の聖遺物を祀る聖職者が、なぜ魔王のレッテルを貼ってまでシャルルを誘拐したのか。オレリアはまだ答えにたどり着いていない。

 本当なら、アンナやマレー、近衛兵の合流を待つべきだ。どれだけの敵がいるかもわからないところに、オレリアが単身で乗り込むのは愚策としか言いようがない。

 それをわかっていて、オレリアはひとりで暗い通路の奥へと進んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る