第8話 高貴な血

 オレリアは次の手を思案していた。

 想定よりも順調に事が進んでしまったせいで、まだアンナと合流できていない。だからといって時間潰しに聖堂街の豪奢な街並みを楽しめるほど平和な状況でもない。

 しかし、目的のひとつは達成できそうだ。

 目の前に倒れ伏すノウァートスの口からは、血の混じった唾が流れ出している。歯でも折れたのか、それとも折れた骨が肺を傷つけたのか。


「こんな、ことをして……ただで済むと思っているのか」

「おや、意識があるのですね。手間が省けました」


 ノウァートス・ペレー。

 赤ら顔で小太りの彼は、元々聖職者ではなかった。ガロア北東に広がる穀倉地帯の一角の領主、ペレー伯爵家の次男坊だ。

 領主といっても元は豪農の成り上がりだ。数代前まではセベリウス侯の配下として槍働きをしていた。

 戦で稼ぎ、土地を広げ、その土地から徴兵して戦で稼ぐ。封建社会の手本とでも言うべき成り上がり方で、ペレー家は伯爵となった。

 そんな埃臭い家から出家したノウァートスは、実家で培った金勘定のセンスを活かし、この聖堂街で執事次長という仰々しい役職を拝命した。

 金貨鼠のノウァートス。

 そんなあだ名も含め、オレリアは彼についてよく知っている。


「お前は……お前は、神聖なこの地を流民で穢し、重要な儀式を妨害しようとしているのだぞ! それを、わかっているのか!」

「ええ、理解しています」

「ふざけているのか、売女が……母親に似て、神を畏れない愚か者め」


 血を吐きながら、柱に手をついて起き上がろうとしたノウァートスを押し出すようにして蹴り倒した。

 痛みに喘ぐ喉を掴む。

 オレリアの小さな手では、彼の太い首を絞めることなどできやしない。しかし、馬乗りになって押さえ込まれれば、苦しさと恐怖を与えることくらいはできる。

 狭くなった気道に詰まりかけた血を、えづくような咳で吐き出す。その姿は豚よりも醜く、無様だ。

 この瞬間を待ち望んでいた。


「そう、私は母上に似ているそうです。私も気に入っているんですよ、この顔が」

「離せ、この……」

「最初の質問に答えれば離してあげますよ。兄上をどこに隠しました?」

「はな、せ。穢れた、売女の娘め……!」

「私を見ろ」


 オレリアが彼の目前まで顔を寄せると、ノウァートスはオレリアの手の中で悲鳴を上げながら身じろぎした。

 姿を見たのは初めてだ。しかし、彼のことは知っている。

 微塵も信仰心のない、欲にまみれた神官。金貨を集め、鼠のような巣穴へと蓄えてきた過程で、彼がばら撒いたを、オレリアはよく知っているのだ。


「懐かしいでしょう? の顔によく似ている、そう思ったはずです」

「ひ、あ……」


 この聖堂街に入るために、オレリアは宮廷医を頼った。

 宮廷医のマテウスには母の命ひとつ分という大きな貸しがあったのだ。


「馬鹿、な」

「馬鹿はあなたです。宮廷医のマテウス先生がすべて教えてくれました」


 聖職者ではあるが、聖堂街ではなく宮廷内の診療施設で過ごす医療者、宮廷医。彼はオレリアの母、オリアーヌの主治医でもあった。

 オリアーヌは3年前に死んだ。夫は戦から戻らず、娘はまだ這うこともできない赤子で、幼い息子と侍女たちに看取られてこの世を去った。

 公には産後の肥立ちが優れなかったための病死とされている。しかし、それは本来ならオリアーヌのような高貴な身分にはありえないことだった。

 この世界には奇跡がある。傷を癒やし、病魔を祓う奇跡が。


「あなたたちの計画は、こうです。セベリウス侯の孫娘を王の妻とし、侯の庇護下であなたは還俗し新たなペレー伯となる。聖俗両面に通じるペレー伯と、王妃の祖父として宮廷内の実権を握るセベリウス侯。王位を簒奪しても教会を味方につけられる」

ひらない知らない……」


 嘘だ。

 10年前、セベリウス侯が成人したての孫娘を妃にと薦めていたことは宮廷内では有名な話だ。ここまでならただの孫が可愛い老人で済む。

 しかし、薦めた相手は国王だ。結婚すれば王妃となる。生まれた子に流れる血は、その半分がセベリウス侯の血筋だ。


「計画のためにあなたは聖堂街に潜り込み、内部にいる過激派の手綱を握った。あなたは信仰心に乏しいが、それゆえに聖職者たちの欲を刺激することに長けていた。たった10年であなたは聖堂街を黄金に染めた」

「ひ、ひらない知らない


 嘘だ。

 セベリウス侯が見合い話を持ち出しはじめたのと時を同じくして、ノウァートスは出家し聖堂街に入った。

 美しい街を作るのには金がかかる。その金は寄進だけで賄えるものではない。世俗に相応の窓口が必要になる。

 オレリアは姫としての地位を使って貨物や金品の出入りを確認した。

 ペレー伯の名で宮廷を出入りする大量の荷物が、ペレー伯領を通過することなく聖堂街へ運ばれている。


「ところが、その計画を妨げる存在がいました。陛下が遠征先で拾い上げた我が母、オリアーヌです。あなた達にとっては想定外だったでしょうね。信頼する家臣の孫娘ではなく、気の強い田舎娘を妃として迎えるなどと」

ひらない知らない!」


 嘘だ。

 セベリウス侯は王であるテオダルド3世に信頼されていた。先々代から仕えてきた古参の家臣として、その老練さを頼りにしていた。

 それゆえに、セベリウス侯はオリアーヌを歓迎しなかった。面と向かって罵倒したほどだ。当時を知る者は誰もが揃って口にした。

 王は咎めず、「じいにも人間らしいところがあるのだな」と笑ったという。

 その言葉を口にした王が知ってか知らずか、セベリウス侯は実に人間的な欲を抱えていた。自分ならもっと優れた王になれる、そんな野心を。


「さらに厄介だったのは、その田舎娘が古く高貴な血筋であったことです。彼女は古のガロアを率いた族長の血を引いていた。それゆえに世俗の諸侯たちは皆その結婚に納得しました」


 もはやノウァートスは否定の言葉を口にしなかった。

 オレリアとシャルル。オリアーヌから血を継承したその二人だけが宮廷でどこか浮いているのは、王族だからというだけではない。

 今のガロア王国に馴染みきらない古い血。その妖しさが、容貌に滲み出るのだ。

 それは教会にとって極めて都合の悪いものだった。

 ガロアが流浪の戦士としての時代を終え、この地に王国を築いたのは、他ならぬ教会への恭順があったからだ。教会は世俗の強力な庇護者を手に入れ、ガロアは情報と物流の網を手に入れた。

 この歴史を知る聖職者たちは、オリアーヌのことがさぞかし気に入らなかっただろう。教会に下る前の、古の血が王家に戻ってきたのだから。


「すぐに殺してしまっては、王に企みを悟られかねない。あなたたちは機が熟するまで待った。世継ぎが育ち、安心した王が長期の出征で宮廷を離れるまで。……そして、ついにその時が来た。女は子を産むときが一番弱っている」


 世俗の権力を求める者、神聖な排斥を求める者。

 両者の目的は一致し、オリアーヌの杯に毒が盛られた。

 宮廷医であるマテウスは命惜しさにそれを見殺しにした。だからといってその罪を忘れられるほど強くもなかった。

 彼は、まだ赤子だったオレリアにすべての罪を告白した。


「お前が奪ったのは私の家族だ。復讐するのは神でも、王でも、法でもない。私だ」


 復讐。

 オレリアがその言葉を口にした瞬間に、ノウァートスの青ざめた顔に僅かに残っていた血の気が引いていった。

 まるで復讐という言葉が彼を殺してしまったようだった。

 冷えていく喉に、指を絡める。


「罪を認めるか?」

「みと、める」

「オリアーヌの殺害、シャルルの誘拐を手引したことを認めるか」

「みとめる、から、どうか……」

「すでに奪われたものは取り返せない。しかし、これ以上私から何も奪わせはしない。何もだ」

「ゆ、ゆるひてくへ許してくれ……」


 このまま、首の骨を折ってしまおうか。

 オレリアは脳裏によぎった甘美な妄想を振り払い、首から手を離した。

 今ノウァートスを殺せば、オリアーヌの毒殺を立証できなくなる。ただ殺すのはあまりにももったいない。

 それに、復讐する権利はシャルルにもあるのだ。

 解放されたノウァートスは久しぶりの呼吸に痙攣するようにして咳き込み、血の塊で白い床を汚した。


「許しはあなたの神に乞うといい。……脱線してしまいましたね。兄上をどこに隠したか、教えてもらいましょう」


 死人のような顔で頷いたノウァートスは、もはや抵抗する意思すら見せなかった。

 ノウァートスは震える指で、聖堂街の最奥に伸び立つ尖塔を指さした。

 この聖堂街でひときわ大きな、偽りの天まで届くほどの尖塔。その先に飾られた十字架が、ちょうど太陽の絵図を背負っている。


「……大聖堂の、地下。隠された聖餐の教会に運ばれた」

「目的は」

「知らない、本当だ」

「では、兄上を魔王と紐づけるような噂を流したのは誰ですか?」

「遺餐主義者だ。あいつらは……異常だ」


 遺餐主義者。

 その不吉な名を口にして、オレリアは尖塔を睨んだ。

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